Ⅱ-2 スサナ・ガルシア
夕方は島を散策した。
鉱山があったがすでに黄金はなかった。もはやこの島の価値はあってないようなものだ。わずかな綿や野菜、アヒーという香辛料などをスペインに送っているだけだった。
あるとき、家事の最中にアナカオナが倒れた。疲労がたまっていたのだろう、熱を出していた。
面倒なことだとフェルナンドは苦々しく思ったが、放っておくこともできない。アナカオナが手も抜かず働いていることは知っていたので、多少なりと良心が咎めたのだ。
仕方なく介抱した。
明け方に意識の戻ったアナカオナは、すぐ仕事に戻ろうとした。けれどまた倒れられても困るので寝ているよう命じた。つたない手料理もふるまった。簡単なスープに芋を入れただけのものだ。アナカオナが作るものより薄味になった。
アナカオナは身を縮めてなかなか口にしようとしなかったが、再三勧めてようやく食べた。
アナカオナと顔を突き合わせてゆっくり過ごすのは、これがはじめてだった。歳は十代後半といったところだろうか。顔に奇妙な模様を描いている。背中を丸め、肩に力を入れてうつむきがちに食べる仕種はフェルナンドの目に卑しく映った。
そもそも身なりからしてみすぼらしい。暑いのは確かだし、男ならば半裸でも理解できるが、アナカオナは胸の膨らみも見て取れる少女だ。それが木綿の下着しか着ていないとは。
父親も半裸どころか全裸に近いし、やはり同じ人間ではないのだ。犬、豚、馬、そうした生き物に近く、けれど働けるから人に近い。
たとえば、もっとまっとうな服を着ることを当たり前とし、神の教えを理解するようになれば、この子も使役されない生き方ができるのだろうか。
「言葉はおぼえたか?」
注意していなければわからないほど小さく、アナカオナはうなずいた。視線を合わせようとしない。
この少女がどうやって生きてきたのか、にわかに興味を持った。それはどうしたらもっといい時計になるだろうかと試行錯誤する好奇心に似ていた。
「家族は父親だけか? 兄弟は? 母親はどうした?」
アナカオナの手が口元から下がった。口に入っている芋を飲みこんで、そのまま静止する。
「言葉、わかるか?」
今度ははっきりうなずいた。だが何も喋ろうとしない。フェルナンドが意思の疎通を諦めかけたとき、滴が落ちたようにつぶやきが聞こえた。
「父は、カシケ、です」
「なんだって?」
アナカオナは表情を一切変えることなく、言葉だけをぽつんぽつんと吐き出した。
「みんな、を、まとめます」
「みんな? みんなって、おまえたちのことか?」
アナカオナが小さくうなずく。
へえ、とフェルナンドは息を吐いた。まさかあのへらへらした男が首長だったとは。フェルナンドはいつも彼のことを「おい」とか「おまえ」としか呼んだことがないが、名前は最初に聞いておぼえている。グアティグアナだ。
「母は、しにました。姉と、弟も、しにました」
「どうして?」
アナカオナは口を閉ざした。語りたくないのか、語る言葉を持たないのか、蓋をしたビンのように沈黙する。
「病気で死んだのか?」
アナカオナはうなずかなかった。何を考えているのかわからない目で宙をひたと見据えている。
この眼差しには見覚えがあった。イスパニョーラ島で見たインディオたちと同じ目だ。虚ろで、ただ景色を映すだけでどこも見ていない、死人の目。
「みんな、きられました。火、つけられました。いきてるときに」
単調な声だった。どんな感情も読みとれない。
「あなたたちのいうこと、みんなききます。だから、火、つけないで」
アナカオナの目がまっすぐフェルナンドを見つめた。少し潤んだ黒い目の中に、無表情に口を閉ざすフェルナンドが映っていた。
翌年、新たな入植者がやって来た。
カンティガ島では初の女性で、名前はスサナ・ガルシア。ちょうどイスパニョーラ島の総督が交代するので、スペインから船団に乗り合わせてやって来たらしい。母親が亡くなったことを父親である司令官に伝えるためだそうだ。
供の者もなしにたったひとりで来るなど、司令官にとっては予想外だったのだろう。「この向こう見ずのおてんば!」と、会うなり叱りつけていたのが印象的だった。
実際、スサナはおてんば娘だった。少しもじっとしていなかった。
スサナが時計を見にフェルナンドを訪ねてきたのは、彼女が島に到着して三日後のことだ。スサナとアナカオナはこのとき出会い、その後アナカオナは司令官のもとに分配された。つまりスサナのもとに、だ。それからもスサナはよくフェルナンドを訪ねてきた。
「どうかしてるわ」とスサナはしょっちゅうぼやいた。
「確かに言葉も違うし格好も違う。だけどここの人たちは親切で悪意がない。なのに無茶なことさせたり暴力をふるったり、同じ国の人間として恥ずかしい。そう思わない? フェルナンドさん」
「ここはマシだ」
フェルナンドが静かに返事をすると、スサナの表情は曇った。視線を落とした彼女の耳元で真珠の耳飾りが揺れる。それはどことなく泣いているような揺れ方で、後ろ髪の上半分だけを結い上げて包んでいる髪飾りすら、痛々しかった。
カンティガでは、殴られたり蹴られたりするインディオはいるが、殺されることはない。イスパニョーラからここに来たのだからスサナも知っているはずだ。カンティガがいかに平和的であるかを。
この場所でいくら憤っても、その声が最も届くべき場所には届かない。無力なのだ。
「スサナは変わってる」
揶揄の響きを含ませると、スサナの顔にいたずらっぽく笑みが咲いた。
「人のこと言えるの? こーんなところでひとり黙々と時計つくっちゃって、フェルナンドさんだって相当ヘンよ」
「それは昔からよく言われる。でも天才だと言ってくれた友もいるよ」
フェルナンドは作業の手を止めた。机の上には設計図と作りかけの部品がひろげてある。
ここは時計作りのためにわざわざ増築した部屋であり、作業用に大きくこしらえた机のまわりをぐるっと一周するのが精一杯の広さだった。
「フェルナンドさんのお友達? スペインにいるの?」
「ああ。時計師の仕事をしてる」
「へえ。似たもの同士なのね」
「おれより常識人だよ」
フェルナンドは微笑を浮かべた。
ミシェルは元気だろうか。この島で時計を完成させて持ち帰れば「さすがだ」と笑って喜んでくれるだろう。うんと驚かせてやりたい。
「それにしても細かいわね……私には無理」
フェルナンドの手元を覗きこんでスサナが顔をしかめた。
今は歯車を削り出している最中だ。この島で知り合ったマルティンが木材の伐採もする大工職人だったため、島の木を一緒に伐採してもらった。この工房を増築する際にもマルティンには世話になっている。
この島には椰子の木のほかに松もあるし樫もある。木材ならいくらでも用意できるのだ。問題はそれをわずかな狂いもない部品にしていく作業だが、フェルナンドは手先が器用だったし、黙々と細かい作業をすることも好きだった。時計を作るために必要な小刀やヤスリといった道具はスペインから持ちこんでいる。
「ぜんぶ木で作るの?」
「木で作れるところは木で。どうしても木じゃダメな部品は金属で」
金属の部品はあらかじめスペインで作ってあった。しかし、もし紛失したり、作り直す必要が出てきたりした場合の対応もフェルナンドは考えていたのだ。
「この島のいいところは鉄工所があるところだな。前の司令官が残したものらしい。水車で動かす高炉だったらもっとよかったんだが、さすがに最先端は持ってこられなかったみたいだ」
「あの工場? 誰も使ってないみたいだけど」
「ディマスが知ってるそうだから教えてもらう」
「へえ……金属から作るなんて、なんだかわくわくするわね」
フェルナンドは鼻で笑った。
「そんなにいいものじゃないさ。金持ち坊ちゃんの突飛な思いつき、ディマスはそう言ってたよ。わざわざ技術者を呼び寄せて、ここに町を作って権力を振りかざしたかったんだろうって。でもこの島はイスパニョーラほど大きくないし、人も少ない。ここは黄金を掘り出して持ち帰る場所。宝が埋まっている場所であって日用品を作る場所じゃない。鉄工所に人手を割くよりここにしかないお宝を掘り出す方が大事ってね。食うものにさえ困ってるのに、ディマスたちにとってはいい迷惑だったそうだ。オバンド総督にも煙たがられたらしい。結局そういう暴走が原因で司令官交代になったとかならないとか」
へえ、とスサナは皮肉っぽく笑った。
「知らなかった。町作りかあ。イスパニョーラにはここみたいな村じゃなくて、町があるものね。同じようにしたかったのかな。でも前の司令官って、アナカオナたちにひどいことしたのよ。だから嫌いなんだけど、でもきっと、すごくやる気があって、急ぎすぎたのね」
ふとフェルナンドは、スサナが何のためにこの島に来たのかを思い出した。
「司令官は……ここに来なければよかったんだな。そうしたら奥方の最期に立ち会えたのに」
「ああ……母は、父の仕事を応援してたから。新天地で出世するのを楽しみにしてた。だから、しょうがない」
少し悲しそうにスサナは肩をすくめた。しんみりしてしまった空気を変えるためか、話の矛先をフェルナンドに向けた。
「フェルナンドさんって、時計のこととなると楽しそうね」
時計のことばっかりなのね。
そんなことを昔の恋人に言われたのを思い出して、フェルナンドは気まずくなった。パウラとスサナは年齢も近い。
「フェルナンドさんってこう……変わってるというかなんというか……すごい変人?」
「けなしてるのか」
「褒めてるの。すごい、素晴らしい、見事、ええっと、非常に優れた、変人」
「悪口に聞こえる」
「もう! 褒めてるのに」
はは、とフェルナンドは笑い声をたてた。
「何のためにここに来たんだとディマスに言われたよ」
「そりゃあ言われるでしょうね。時計作りならスペインにいた方が捗りそう。でも私、嬉しいの」
「何が?」
「畑のことよ。ひとりでやってるんでしょ? アナカオナも返しちゃったし。誰かをこき使うことなくひとりで頑張っちゃうところが好き」
フェルナンドはわずかに息を止めた。スサナは他意もなく言ったのだろうが、好きと言われて嬉しくないわけがない。
この島にいるスペイン人の女はスサナひとりだけだ。黙っていれば麗しい女性だが、ころころと表情を変えて気さくに話す姿は可憐な少女だった。
スサナの気さくで開けっぴろげな性格は、上流階級のスペイン人女性としては珍しいと言える。もっともスサナの血筋は貴族といっても下級貴族であり、「貧乏だったのよ」ということらしいから、あの司令官も、亡くなった奥方も苦労人なのかもしれない。
スサナは入植者たちにとってはまさに太陽であり、こうして訪ねてくれる彼女をフェルナンドも嫌いになれなかった。
設計図や部品と格闘しているときでもお構いなしに話しかけてくるのにはいい加減うんざりするが、それでも嫌いではないのだ。むしろスサナと話すのは楽しかった。
とはいえ、スサナは司令官の娘だ。自分と歳も近いだけに、妙なことになっては面倒だろう。フェルナンドは振り払うようにぞんざいに告げた。
「あれは期限が切れたからだ。新しい分配がなかったのはおれが時計にかまけてるからで」
「人を物みたいに言わないで。期限とか分配とか、ひどい」
スサナはたちまち機嫌を損ねた。
インディオの分配は国王が決めた制度でもあるのだから自分が怒られるのはおかしい、とフェルナンドは思ったが、きらきらした目でじっと睨みつけられると抗議できなかった。額をかいてぼそりと告げた。
「悪かった」
スサナが溜め息をつく。次いで微笑んだ彼女は野花のように可愛らしかった。
上流階級の娘を野花にたとえるのは失礼だろうかとも思うが、フェルナンドの頭に浮かぶのはやっぱり野花だった。折れそうに細い茎と小さな花びら。それでいて、どんなところにいても自分の色を失わずに咲く、逞しくも可憐な野花だ。
「私こそごめんなさい。フェルナンドさんは根気良くアナカオナに言葉を教えてくれたもの、いい人だって知ってるわ。おかげで会話ができるって父も気に入ってるの」
「聖書を読み聞かせただけだ。アナカオナはおれが来る前から喋れたんだと思うね」
「そうやって聖書を教えたのはフェルナンドさんだけだもの。アナカオナほどスペイン語が話せるビエウの人はほかにいないわ」
「ビエウ?」
「この島の名前よ。カンティガって私たちが勝手につけた名前で、もともとアナカオナたちはビエウって呼んできたんですって」
「……そうか」
「意味も聞いたんだけど、よくわからなかったの。たぶん、小さい……人? でもここの人たち、特に体が小さいわけじゃないし……」
フェルナンドは口を閉ざし、歯車の削り出しを再開した。
聖母マリアを讃える古い歌、
どうしてそんな名前になったのかは知らないが、スペインの入植地なのだからスペイン語の名前にしたのだろう、というぐらいにしか考えていなかった。先住民たちがどういう名前でこの島を呼んでいたかなど気にしたこともない。
イスパニョーラだって母国スペインにちなんだ名前だが、イスパニョーラと呼ばれる前のあの島の名前をフェルナンドは知らなかった。
スサナはアナカオナと話すことで彼らを知ろうとしていた。だからインディオという呼び方も嫌った。スサナいわく、アナカオナたちはタイノという人々らしい。
インディアスに住む人々だから、インディオ。最初にそう名付けたのは誰だろう。コロン提督だろうか。
インディオは、実のところカリブ族やタイノ族、アラワク族といった複数の部族に分かれている。部族によって、あるいは住んでいる島によっても言葉が異なるらしく、生活様式も違うらしい。
この島の先住民たちが何族であるかなどフェルナンドは関心を持たなかった。最も攻撃的だというカリブ族でないことだけわかれば、それ以外に知りたいことはなかった。何族であっても彼らはインディオ、それで通じるのだから問題ない。
彼らはスペイン語を話せない。そのなかでアナカオナの語力は際立っていた。スペイン語をまったく理解しない先住民もいるのに彼女とは会話が成立する。娘の影響なのかアナカオナの父親もほかの先住民より話せた。
けれどアナカオナの話す力に貢献したのはむしろスサナだとフェルナンドは思う。スサナが積極的に会話を試みたおかげで飛躍的に伸びたのだ。
スサナと話しているアナカオナをたまに見かけるが、アナカオナが微笑を浮かべているのを見てフェルナンドは驚いたものだった。この家で働いていたときのアナカオナは一度も笑わなかった。
スサナの影響はアナカオナだけでなく、入植者たちにも及び始めていた。
一般に女の立場は男より低いが、司令官の娘だというだけで接する態度も変わるものだ。彼女の発言を頭から無視するわけにはいかなかった。
先住民への扱いが劇的に変わるわけではなかったが、少なくとも互いの関係について考えるきっかけにはなっていた。
入植者たちのレベック村と、先住民たちのコルバイ村、双方の関係は良好だった。フェルナンドにはそう見えていた。
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