愛しい 愛しい このせかい

ひなた そら

第1話 あたしの日常・1

 よくある日常の朝の風景。友人たちとはしゃぎながら登校中の児童やイヤホンをつけて黙々と歩く学生、疲労の色をのせ、時間を気にする勤め人。ゴミステーション前には井戸端会議に花を咲かせる主婦たち。小鳥がさえずり、木々が風に揺れる。

 そんな普段と変わらない景色の中、駅の反対方向へと猛スピードで駆け抜ける少女がいた。それが、神楽理央(かぐら りお)、17歳。

 制服のスカートを翻し、彼女はしきりに背後を振り返りながら走っていた。まるで、見えない何かに追われているかのように――。

 すれ違う人たちは彼女を何事かと一瞥し、またすぐにそれぞれの目的の場所へと歩き出す。

 理央は背後を確認し小さく舌打ちした。


(なんだって今日に限って……)


 今日は日直で、いつもより少し早く登校しなければならなかった。少なくとも、“何もなければ”3本早い電車に乗れていたはずだし、時間的には十分間に合っていたはずだ。けれど理央は今、駅に向かうどころか途中で自転車を乗り捨て、家へと引き返しているところだった。別に忘れ物を取りに戻っているわけではない。彼女は今、まさに“追われて”いた。

 距離が徐々に縮んでいるのを肌で感じる。気がつけば理央はスカートのポケットに忍ばせてある数珠を強く握りしめていた。祖父からもらったお守りだ。


(高天原に神留座す……神魯伎神魯美の詔以て……皇御祖神伊邪那岐大神……。筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に……御禊祓へ給ひし時に生座る祓戸の大神達。諸々の枉事罪穢れを拂ひ賜へ清め賜へと申す事の由を…………って、もうっ! いいかげんに、しろっっつーのッ……!)


 祝詞の途中で足元に黒い触手が鞭のように振り上げられた。攻撃を瞬時に察知した理央はタイミングをはかり、大きく飛んだ。たった今まで理央がいた場所のアスファルトが抉られる寸前のところで触手はピタリと停止している。難を逃れた理央は着地と同時に体勢を整え、ふたたび駆け出した。


(自転車、乗り捨てて正解。あーもう、どこまで言ったっけ? えーと……)


 思考の途中で二度目の攻撃を仕掛けてきた相手に舌打ちし、両腕で顔を守りながら真横に跳ぶ。アスファルトの上の塵が舞い、ケホッと一度咽る。


(……天津神国津神。八百萬の神達共に聞食せと恐み恐み申す)


 どこか抜けたかもしれないと思いつつ、祝詞に抗う様子を見せているモノを一瞥し、すぐに踵を返した。腹の底を震わせるほどの低いうめき声を轟かせていたが、ここで怯んだら終わりだと理央の頭の中の冷静な部分が知らせてくる。その後は一度も振り向くことなく、バケモノの咆哮を背中に駆ける。限界に近づいたふくらはぎはパンパンに張っているが、足を止めたら終わりだ。必死で足を奮い立たせ、体力と酸素の残量ギリギリのところで自宅の門へと飛び込んだ。とたんに止む耳鳴りとバケモノの声。代わりに聞こえてくるのは、うるさいほど鳴り響く自分の心臓の音と酸素を求める肺の音。


「なんじゃ、理央。忘れ物か?」


 ちょうど庭掃除をしていた祖父の武蔵が驚きと呆れの混じった顔で理央を見下ろす。大丈夫、なんて安心させる言葉さえ発することができず、理央は頬を伝わる汗を拭い、膝から崩れるようにその場へ倒れ込んだ。呼吸は荒く、まさに命からがら。間一髪のところだった。


「理央!?」


 慌てて抱きかかえようと手を伸ばした武蔵に身体を預け、ドクドクと音を立てる心拍を落ち着かせながら緩く頭を振る。


「医者を呼ぼう。最近多すぎるだろう」

「大丈夫……。ちょっと眩暈と吐き気が酷かっただけ……。ごめんね、じーちゃん。少し休んだらちゃんと学校に行くから」


 理央は微笑んで見せ、ゆっくりと身体を起こした。腕時計の針は、ちょうど電車が発車した時刻を指している。


(もうひとりの日直、誰だったかな……。悪いことしちゃった……)


 体調不良を祖父への言い訳に使ったからにはそれらしく振る舞わねばと、理央はよろよろしながら廊下の先のトイレへと向かった。もっとも全力で走って20分ほどの距離を逃げてきたのだから、演技なんてしなくともそれらしく見えただろう。武蔵が心配そうにその背中を見つめていることはわかっているが、こればかりはしかたがない。言えるわけがないのだ。

――バケモノが視えるなんてことは。まして、殺されそうになっているとは。




 理央は物心ついたころから、すでにこの世のモノではないものが視えていた。母方の家系に巫女と呼ばれる血があったせいなのか、不思議な体験をするのが常でさほど気にも留めていない。理央以外には見えない人の形をした者が話しかけてきたり、理央が視えるとわかった瞬間に追いかけてくる者がいたり。幼いころはそれがオバケと呼ばれるものだとはつゆほども知らず、一緒に遊んでいて気味悪がられたことは一度や二度ではない。気がつかないうちに身体の自由を奪われていることも両手で足りない程度にはあった。それくらいで済むのなら、人間だとわかるまで近寄らなければ支障をきたすことはない。

 問題なのは、人の形をしていない“バケモノ”のほうだった。追いかけてくるうえに攻撃され、そうなるともう死に物狂いで逃げるしか術はない。それこそつい先ほどのように。

 逃げ切ることができずに攻撃をもろに受け、死を覚悟したことは何度もある。けれどなぜか致命傷には至らなかったようで、たいていは病院で目を覚ますのだ。攻撃を受けたところまでは覚えているのに、どうしても毎回、その後のことがわからない。駆けつけた祖父母をはじめ、医師までもが、頭を打ったせいで記憶が混濁しているのだろうと、原因なんてどうでもいいかのような体だ。交通事故に巻き込まれたのかもしれない、木から落ちたのかもしれない、落下物が頭に当たったのかもしれない。でも、無事でよかった、と。だいたいがそんな説明だった。本当に医者なのか疑いたいレベルでおかしい。

 理央はそれについて深く言及したことはないが、祖父母が病院のベッドの傍らで涙を流すたびに、ほんの少しだけ心が冷えていくのを感じていた。


 理央には両親がいない。理央が小学校にあがるずいぶん前、両親は不慮の事故で亡くなった。見通しのいい一本道で、対向車が両親の乗る乗用車に正面から突っ込んできたらしい。運悪く、対向車は10トントラック。運転していた人はその後の事情聴取で錯乱していたという。寝不足だったわけでもなく、既往症があったわけでもなく、まして薬物や飲酒の疑いもなかった。けれど、事故は起こってしまった。

 両親の葬儀を終え、納骨を済ませたあと、母方の祖父母であった武蔵と百合が当たり前のように理央を引き取った。こうして、亡くなった両親の代わりに自分を育ててくれた祖父母にこれ以上の心配や迷惑をかけられなかった理央は、ただ、『もう大丈夫』と微笑んで見せるしかなかった。ずっとそうしてきた。

 今日は運が良かっただけ。逃げ切れたのはそれだけ理央が場数を踏んでいたせいなのか、危機察知能力が長けていたのか、お守りの効果なのか、中途半端な祝詞のおかげだったのか、それさえもわからない。それでもただ、明らかな殺意を持ったバケモノから逃げ切ることこそが、理央にとっての日常だった。



 結局理央は、本当に息が整うまでの数分だけ休み、いつも通学で使う電車に間に合うタイミングで家を出た。辺りを見渡しても、バケモノの姿はない。途中で乗り捨てられていた自分の自転車を回収し電車に乗り込んでようやく安堵の息を漏らす。

 あのバケモノは、理央がその存在を認識したとたんに襲ってくる。攻撃してくるわけではないただの魂魄ならば逃げる必要はないが、敵意を向けて牙をむくモノに対してはただひたすら逃げるしかない。最初こそ怖くて泣いて、祖父の武蔵からもらった数珠を握りしめて必死で家まで逃げた。何度も襲われるうちに、うっすらと覚えていた亡き母がおしえてくれた“じゅもん”を唱えるようになった。それでも駄目なら家に戻りさえすればバケモノがそれ以上襲い掛かってくることはないということに気づいた。それからは、登校中であろうと買い物中であろうと、殺意を感じるのと同時に数珠を握りしめ、“じゅもん”――のちにそれが祝詞だと知る――を唱えながら家へ向かって全力で逃げるようになった。が、そうなると当然、無関係の人間を巻き込むわけにはいかず、理央は友人も作らずに学校生活を送るはめとなる。登校中に何度も襲われるせいで、学校にもなかなかまともに通えない。学校内で浮いた存在になるのは必然で。それでも理央は毅然としていた。自分のせいで誰かを傷つけてしまうくらいなら、いっそ友人なんていなくていい。ずっとそう思って生きてきた。少なくとも、その日までは。

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