第3章

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   Ⅲ


 一体どうしてこんなことになっちゃったんだよ! またそう言ったミクに運転席のルシが声をかける。「ミク、もうよせ」

「やだ! っていうかルシ、あんたなんでそんなに落ち着いてんのよ! ツバサ、死んじゃったんだよ?!」

「ルシは別に落ち着いてなんかいないよ」ぼくは隣りに座らせてあるツバサの遺体越しに、ミクの左肩に手をかけた。ランドローバーが高速レーンに乗った。

「落ち着いてるじゃん!」ミクがぼくの手を振り払った。「てかコウヘイ、あんたがこめかみさすったりするからいけないんだよ──」

「いい加減にするんだ!」

 ルシが怒鳴ると、ミクはぎゅっと口をつぐんだ。目には涙を浮かべている。けれどまたすぐにヒステリックな声を上げると共に、隣りで死んでいるツバサの太ももをいきなりどんと殴りつけた。

「ツバサ! あんたなんで死んだりなんかしちゃったんだよ!」今度は更に強く殴りつける。「ねえツバサ! なんでだよ! ツバサ!」

「やめなよミク!」

 ぼくはミクの拳を掴もうとした。でも失敗し、ミクはまたツバサの太ももをどんと殴りつける。止められそうになったことでむきになったらしく、次はツバサの太ももだけでなく、胸や腹までをも両手ででたらめに殴り始めた。

「やめなって!」

「いいでしょもう死んでるんだから!」

「ミクッ!」

「やだっ!」

 ぼくはミクの両腕を掴もうとするがうまくゆかない。でも次に肩と胸元を殴った直後を狙ってようやく掴むことができた──その、瞬間だった。ツバサの全身が感電でもしたかのようにびくんと一度痙攣し、何かをかっと吐き出したと同時に、再び呼吸をし始めたのは。

「ツバサ……? ねえツバサ?」

 ぼくはツバサの頬を何度か軽くぶった。ミクはぽかんと口を開けている。

「生き返ったのか?」ルシが言った。

「みたい……」ぼくはツバサの胸に耳を当てた。「心臓が、動きだした……」

 助手席の太一が振り返る。(まじっすか!)

 呆然とした顔でミク。「って、ほんとに……?」

「ほんとだよ……ミクのおかげで、生き返った……生き返ったよ!」

 太一は顔を真っ赤にしながら猛スピードで両手を動かしている。

「……けど、だったらなんで目覚まさないの?」いまだに信じきれていない様子でミクが訊ねる。

 ぼくはツバサの吐き出したものを見た。それは青白くてねっとりとした、半液体状の吐瀉物だった。おそらくはハルシオンと他の薬物が混ざり合ったものに違いない。「多分、消化されちゃった分の薬が効いてるんだと思う」

「ああそっか、そっかあ」ミクがやっと納得したようにずっとシートに沈み込んだ。「よかった、よかったよー」

 太一は今もまだ猛スピードで両手を動かし続けている。足掻かなかった自分を責めつつも上気してぼくは言った。きっとルシもおんなじ気持ちに違いないと思いながら。「ねえルシ、次で降りて病院連れてこうよ!」

 だがルシの返事は意外なものだった。

「いや、駄目だ」

 戸惑いながらもぼくは言った。「……でも多分ツバサ、かなり睡眠薬──」

 ルシがバックミラー越しにぼくを見た。「大丈夫だ。ツバサの飲んでるのは、全部ベンゾジアゼピン系かチエノジアゼピン系の眠剤みんざいだからな」

「……?」

「要は程度の軽い睡眠薬、俗に言う『導眠剤』ってやつだ。お前も見ただろう? ハルシオンも同じ部類に入る。その薬じゃ人は簡単に死んだりしない」

「……そう、なの?」

「ああそうだ。そうだろ? ミク」

 ぼくはミクの顔を見た。

「かもねー」とはぐらかすようにミクが答える。「でも絶対とは言い切れないし、ほっとくと後遺症が残るかもしんない」

 ぼくは訊いた。「……後遺症って?」

「腎臓障害とか、最悪半身不随とか」

「だったら、やっぱり病院に──」

「いや、駄目だ」とルシ。

「なんで……?」

「今のおれたちの状況を考えろ」

 けど──と言いかけたぼくの言葉を引き継いでミクが言った。

「けどルシ、わたしも病院に連れてった方がいいと思う。いくら導眠剤じゃ人は死なないって言っても、やっぱり万が一ってことがあるし──」

 ルシが繰り返す。「駄目だ」

「どうして? だいたいツバサ、スピードだってやってるんだよ?」

 一段階感情の出力を上げたミクの言葉にふっとルシが笑う。

「いいかミク、逆にやってなかったとしたら、こうして生き返ることは絶対になかったはずだ。スピードは『覚醒』剤だからな」

「むちゃくちゃだよそんな理屈」

「そうでもない。おれはそれで生き残ったやつを一人知ってるんだ。お前だって知ってるはずだぞ?」

 そりゃあ知ってるけどさー、とぼやくようにミク。「っていうかもしかしたら、他のだってやってるかもじゃん」

「それはないはずだ。ツバサは酒が一滴も飲めないし、ヘロインをやってればすぐにわかる」

「だったらバツとマリファナは? Lは? 合ドラは?」

「同じことだ」

 二人の間を流れ始めた険悪な空気を和らげる口調を意識してぼくは言った。「じゃあ途中で、ツバサとぼくだけ──」

「コウヘイはちょっと黙ってて」ミクが手と共に遮った。「あんたの言いたいことはわかったよルシ。でもさ、それってちゃんとした理由になってないよ。ねえ、どうして駄目なの?」

「ツバサは生きてる」と冷静な口調でルシ。

「けど死ぬかもしんない」と運転席のシートをぎゅっと掴みながらミクが煽る。「ねえルシ、あんたそれでもいいの? なんかいつものルシらしくないよ?」

「導眠剤じゃ人は死なない」

 あくまでも冷静な口調でルシがそう繰り返す。そう、どんな挑発にも乗らないのがルシという男なのだ。

 背もたれにどっと背中をついたミクが、はあっと聞こえよがしのため息をついた。ぼくはさっき言いかけたことをもう一度言おうと試みたけれど、またしてもミクに遮られた。

「ちょっと太一、黙ってないでなんか言いなさいよ」

「んえ〜……」と太一。それ以上何も言おうとはしない。

「わかった。じゃあツバサとわたしだけ次で降ろして」ぼくが言いたかったことをミクが言った。「それなら文句ないでしょ? ルシたちには絶対迷惑かけないようにするからさ」

「いや、それも駄目だ」ルシが即答する。「このままみんなで、亜門のところに向かう」

「なんで? どうして駄目なの? 亜門さんが治療できるってわけでもないでしょ?」

 ミクが運転席の後ろを靴底で蹴りつけた。落ち着こうよミク。ぼくが言って肩を掴むと、ミクはいきなりわっと声を上げた。両手で顔を覆って子供のように泣き始める。

 ぼくはミクの肩に手を置いたまま、どうすることもできず、ただ茫と見ていることしかできなかった。しばらくの間車内には、ミクの泣き声だけが響き渡った。

 ミクが落ち着きだしたのを見計らってぼくはルシに向かってこう切り出した。

「ねえルシ、さっきミクが言ったみたいに、ツバサとミクだけ途中で降ろせないかな。なんだったら代わりにぼくが降りてもいいしさ」

 数拍間を置いたあとにルシが訊ねる。「なあコウヘイ、お前、本当にそう思ってるのか?」

「?」

「ツバサのこと、『本当に』助けたいと思うのか?」

 ルシの真意を掴みあぐねてぼくは訊き返す。「……そんなの、当たり前でしょ?」

「そうだな」独り言のようにルシは言った。

「ねえ、ルシ──」

 ルシがシートベルトを外して振り返り、言いかけたぼくに向かって右腕を突き出した。その手には銃口に短い消音器の装着されている、小型の黒い自動小銃が握られていた。

 ミクがきゃっと小さな悲鳴を上げる。

「太一、ハンドル」

 ルシの言葉に太一が慌ててハンドルに右手を伸ばす。車体が一度大きく横にぶれた。

 ルシはハンドルから完全に手を放し、入墨の彫られた黒い方の腕も銃に添えると、ぼくの目をじっと見つめたまま、静かに言った。「ツバサなら大丈夫だ。だからこのままみんなで亜門のところへ向かう。二人とも、いいな?」

 ミクは無言で頷いたけど、ぼくは頷くことも、答えることもできなかった。そのほとんどは恐怖のせいだったけれど、でも、残りはそうじゃなかった。ぼくはきちんとした意思を持ってルシの目を見つめ返している。それは何も今だけじゃなく、最近のルシに対しての抗議の意味もあった。昔からルシにはこうして『タガ』が外れてしまいそうになる瞬間があったのだけど、それはあくまでも時々の出来事だったから、これまではスルーすることができていた。でも久しぶりに再会してからは、その頻度が目に見えて多くなっていて、そして深度が増しつつあるような気がするからだ。そう言えば、勝手にコカインを吸ったというささいな理由で太一が歯を折られたことも、そのうちの一つだった。確か二、三ヶ月前のことで、そのときのルシは、ちょっと異常なまでに昂ぶっていた。普段のルシなら殴っても、冗談交じりの一発か二発だけで、たとえ本気で殴ったとしても、歯が一本折れた時点で確実にやめていたはずなのに、そのときのルシは、ツバサとぼくが必死で止めるのも聞かずに、合計で四本もの太一の歯をへし折ったのだ。ぼくが殴るのとルシが殴るのとでは、精神的にも物理的にも、大幅に次元が違うのだ。

「ちょっと、コウヘイ……」

 堪えきれないように言ったミクが、ポロシャツの裾を引っ張った。一台の車が追い越して行く音が、悪夢の残像のように耳元をすり抜けてゆく。

「ねえルシ、お願いだから──」

「ミク、黙ってろ」ぼくの目をじっと見つめたまま、さっきよりも一段と静かで穏やかな、しかし力の込もった声でルシが言った。「このままみんなで亜門のところへ向かう。いいな? コウヘイ」

 また一台車が追い越してゆく音が聞こえた。ぼくは太一を殴っていたときのルシの目を思い出した。状況は百八十度違うものの、今のルシはあのときと、まったくおんなじ目をしているように見える。くっきりとした奥二重の中に潜む、黒いオーロラのようにたわみながら乱反射する大きな瞳──ごくわずかとは言え、右目の方のそれが、撮影機材と角度を変えたかのような、より黒い斜視になっていることにふと気が付いた。そしてその直後、その虚無をも思わせる暗黒が、目前の銃口のそれとあまりにもよく似ていることにも気が付いた瞬間、己の内臓がぶぶっと痙攣した音を、確かにぼくは耳にした。

 ……わかった。摩り切れた声で、そうぼくは答えていた。

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