2-8


 全て聞き終えたあとで、そんなこと考えてたんだ、と波紋のようにそっと押し寄せてきた感動を覚えつつぼくが言うと、考えたってもんでもないんだがな、と照れたようにルシは言った。「なんかな、いきなりぱっと閃くときがあるんだ。答えみたいなもんが。で、それを一応答えだってことにしといて、それに見合う理屈をこねてみたり、どっかから借りてきたりするって感じだ。だからきっと考えたって言うほど立派なもんじゃないと思うぞ。合ってるとは限らないしな」

「『でも科学者はみんなそうやって理論を構築するんだよ』」とぼくは言った。「あのアインシュタインだって、今ルシが言ったみたいにして相対性理論に辿り着いたんだから」

 そうなのか? と驚いた顔でルシは言った。そうだよ、と力を込めてぼくは言い返した。

「そうだったのか」ルシは下を向いた。「何しろ、おれは頭がわりいからな。高校だって一年で中退しちまったし。でもま、あのアインシュタインと同じってなら、それほどずれてねえのかもしれねえな」

 ──と、なんだかぼくは、不思議な気持ちになってしまった。ぼくの親戚には何人か教師がいて、その人たちは、ぼくがこれまでに出会った教師も含め、全員どうしても好きになれそうにないタイプの人間ばかりなのだけれど、彼らが毎月安定した給料と、その何倍かの額のたっぷりとしたボーナスとを年に二回ももらい、おまけに老後までしっかりと保障され、更には社会の誰からも一目置かれて、それなりの敬意を払われているのにもかかわらず、ぼくはともかくとしても、ルシのように殺人者と化してしまった少年や少女たちのことまでをも真剣に考えているような男が、いつ警察に捕まるのかわからない、捕まってしまった場合間違いなく長期の実刑を喰らってしまうようなしがなすぎるドラッグの売人なんかを、どうしてやっているのだろうと思ったからだ。だからぼくは、ねえルシ、ルシは一体なんでドラッグの売人をやってるの? とつい訊いてみてしまった。

「どういう意味だよそれ」

「わかんないけど、ルシみたいな先生がいれば、ちょっとは学校も面白かったんじゃないのかなって、ふっとそう思ったから」

「おいおい、何言ってんだよコウヘイ。からかうなよ」ルシは目を×印にしてかくかくと手首を振った。

「全然からかってなんかないけど……」

「そんなもんにおれがなれるわけがねえだろうが。だいたいおれなんかが教師になっちまったら、生徒と一緒に煙草どころか、ガンジャ吸っちまうって絶対。で教科書は裏モノJAPANだ」

 そう言ってルシは笑った。まさに照れ笑いといった感じだった。そんなルシの顔を見るのは初めてだった。

「ぼくは、そういう先生のがいいけどね」

「お前がよくたって世間さまが許さねえだろ」

 ルシの言う通りだった。もしもそんな教師がいると判明すれば、即刻首になってしまうはずだ。そして二度と復帰することはできないだろう。少なくともこの日本では。

 それによ、とルシは続ける。「おれは今の仕事が気に入ってんだ。いいじゃねえかドラッグの売人。好きだぜ、おれはそういうの──ルシは居住まいを正した──いいかコウヘイ、ドラッグってのはな、厳密には煙草や酒もそうだが、それは人類にとって、いつか乗り越えなきゃならない重大な課題なんだ。誰も表立っては言わないが、過去の戦争をエスカレートさせた陰の立役者は、ドラッグだったって言っても決して言い過ぎじゃないんだからな。少なくとも第二次世界大戦についてははっきりと言える。でなきゃあんな狂った戦争なんてできっこない。その証拠にあのヒトラーが覚醒剤の常習者だったのは有名な話だし、同じ薬をこの国じゃ、あの特攻隊はもちろん、一般市民にまで軍が率先して配ってたくらいなんだ。今だってアメリカの軍隊じゃ普通に使われてる。『シャブが』だ」ルシはシャブという言葉に合わせて人さし指を振った。「それにな、法律でいくら弾いたって、やるやつはやるんだ。押さえつけたとしても、根本である欲望をなくすことは決してできない。ただドラッグじゃない何か他のものに流れるだけだ──つっても、何もそいつが劣ってるってわけじゃねえぞ? そうじゃなく、それが人間って生き物なんだ。ま、当分はそうして刑罰で凌ぐしかないだろうが、いずれはきっちりと向き合って解決するしか道はないだろう。そういう意味じゃ、おれたちは最先端を走ってんだ。だから何も恥じることはない。そもそもおれらがやらなけりゃ、違うやつらが、混ぜ物の多い粗悪品を高値で売るに決まってるんだからな。だから考えようによれば、おれたちはいいことをしてるとも言える。むろんそれを自分で言う気はさらさらないがな」

 そう言えばルシは、末端の売人が薬の純度を操作しないよう定期的にチェックしていて、度を越している者には暴力なり取引制限なりの、制裁を加えているという事実をぼくは思い出した。ぼくはルシの考えていることをなんだか急にもっと聞きたくなって訊ねてみた。「あのさ、ルシ前に言ってたじゃん、ワイドショーにはまってたときに。事件を遡っていくと、その原因に必ず辿り着けるってさ」

「おう」ルシは日課であるらしい100回の腕立て伏せを始めながら言った。

「それってさ、なんかの出来事ってことなの? それとも何か目に見えない、心の問題みたいなものだったりするの?」

「どうしたいきなり」

「ちょっと気になってさ」

「まあ、どっちでもあるだろうな」ぼくだったら十回で音を上げてしまいそうな、深くてゆっくりとした腕立て伏せを易々と続けながらルシは答える。「心ってやつは、出来事によって作られていくものだからな。でもしいて言うんならあとの方か。本人の記憶がありでもしない限り、他人が辿り着けるのはあとの方だけだからな。そんな感じでまず先に、過去の経験を基にした、もう簡単には解決することのできなくなってしまった、そいつにとっての大きな心の問題があって、そこに具体的な出来事が加わったときに、事件が起こるって感じだろう。そのきっかけは多分、ちょっとした相手の一言だったり、反応だったり、どれもごくごくちっぽけなことだろうよ。溜まったガスを爆発させるのに、火炎放射器はいらないからな。マッチを軽く擦るだけでいい。現にそういう風に始まった凶悪な事件は山ほどもある。いや、事件ってやつはたいていがそうやって始まるものなんだ。それくらいちょっと考えりゃわかるのに、たかがこれぐらいのことでって言う普通のやつはともかく、TVに出てくるような連中は恥を知るべきだな」

 ぼくは深々と頷いた。「てことはさ、そういう事件は、全部起こるべくして起こったっていうこと?」

「おそらくはな」

「だったらその原因が、一体どうしてできるかはわからないの?」

「そいつを今探してるところだ」ルシは言った。「でかい意味で言うと、一人の人間の内面世界が、出来上がるまでの仕組みをな。まあ一般的に言われる通り、それが成人するまでの環境に関係していることは、まず間違いがないだろう。その中でも大事な時期は二つ。まず一つめは、十歳〜十四歳の、幼少年期って言われてる時期から、前思春期って言われる時期における、教育なり子育てなりの環境だ。そしてもう一つは、母親の胎内にいる七〜八ヶ月くらいから、生後一歳半くらいまでの乳児期における同じ環境。その二つの時期の環境が、一番大事なんじゃないかっておれは睨んでる。そんな風に、どうしても赤ん坊と、お袋さんの腹ん中にいた頃まで遡ってかなきゃ、説明ができないんだ。知ってるかコウヘイ、妊娠中の母親がため息を吐くと、腹の中の胎児も一緒にため息を吐くんだぞ? ため息ってのは、浅くなった呼吸のせいで、血中濃度の高くなった二酸化炭素が、延髄えんずいにある呼吸中枢を刺戟しげきして出るんだが、その二酸化炭素濃度の高くなった血液が、臍の緒を伝って胎児の延髄まで辿り着いて、母親と同じようにため息を吐かせるって寸法だ。それくらい胎児は母親、つまりは環境に大きく左右されながら、肉体と精神を形成していくんだ。その事実だけから見ても、そこまで込みで考えなきゃ駄目ってことは明白だろう」

 そこまで調べ上げているルシに舌を巻きながらぼくは訊ねる。「何、そうするとさ、生まれ持った性質とか性格なんて、実はないってこと?」

「そいつはそいつである」

 さすがにきつくなってきたのか、ルシの腕立て伏せはゆっくりになりつつあったけれど、その深さはまったく変わらなかった。どことなく自らに罰を課しているようにも見えるストイックな様子でルシは続ける。「遺伝子によっては、どっかの細胞がはなっから大きくなるように決まってるってことがあるだろうからな。背の高さとかがそれだ。同じ理屈で、親の顔がよけりゃあそれなりの顔をしたやつが生まれてくるだろうし、親の脳がでかけりゃ、そいつの子供は頭が人よりもよくなるだろう。そういう遺伝的なものによっても、性格や性質は違ってくるはずだ。でも、それは言ってみれば『誤差』みたいなもんで、環境の決めるものの方が、ずっと重要なんじゃないかっておれは思ってる。特にさっき言った、生まれる前までを含めた、未成年の頃の環境がな。実際調べれば調べていくほど、そういう答えに近づいてくんだ。もしも一人の人生の記録が一秒単位であったとしたら、きっといろんなことがはっきりと証明できるだろうな」

「ってゆうかさ」話を聞いているうちに、純粋に気になってぼくは訊ねた。「ルシは一体、なんでそんなことを知ろうと思うようになっちゃったわけ?」

 しゃべりながらだったためにいつもより疲れたのだろう。ラスト一回を海老反りをするように終えたルシだったけれど、それとは別に、なぜか驚いた顔をしてみせた。それから首筋と腋の汗を着ていた黒いヘンリーシャツの裾で強引に拭きながら、にやりと笑った。その際に化学式のようにくっきりと割れている、頑強すぎる腹筋がちらりと覗く。「知りたいんだよ、なんで自分が、こんな不良になっちまったのかを」

「じゃあさ、なんでそんな風に自分のことを知りたいって思うんだろう」

 なんでだろうなあ、と、首を右に傾けてルシは答えた。「ああそうだ、それよりもコウヘイ」

「何?」

「笑わずに答えてくれるか?」

「何を?」

「これから質問することをだ」

「うんいいよ」

 ぼくは右手を上げた。「オナニー用に翅をむしられた銀蠅に誓って」

 でもルシは笑わなかった。「ふざけるのはなしで頼む」

「わかった」襟を正してぼくは言った。

「あのよ」ルシが言った。

「うん」

「さっき言った、アインシュタインって誰なんだ?」

 なんと、ルシはアインシュタインを知らなかったのだ。あれだけ専門的なことを知っておきながら、誰もが知っているような有名人を知らなかったそのギャップに可笑しくなってしまったぼくは、たまらずぶーっと噴き出して、めちゃくちゃに笑い始めた。そんなぼくを、ルシは取れそうなまでに眉を顰めつつ見ていたものの、まもなくして同じように笑い始め、その後二人して、意味もなくただひたすらに笑い転げた。なぜならそのときのぼくたちは、パイプにギッシリと詰めたハッシシを回し呑みしていたからだ。

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