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 太一に続いて寝室に入ると、キングサイズのベッドの真ん中で、ルシが死体を後ろから抱き起こしている最中だった。ベッドは部屋の中央に置かれていて、ヘッドボード脇の小さなテーブルにはスピードとヘロイン──それはぱっと見『三温糖』のように見える──の入った小さなビニール袋と、注射器をはじめとしたスプーンやコットンやライターなんかの諸々の道具が雑然と置かれていて、隅に立てられたポータブル式の小さなDVDプレーヤーの画面には、意外にもエロ系のそれではなくて、コールドプレイのクリス・マーティンがステージ上を元気よく跳び回りながら、世界レベルで大ヒットした一曲である『Yellow』を歌う姿が控えめな音量で映し出されている。

 肝心の死体の方はと言うと、彫りが深く整った顔立ちをした大柄な女性で、年齢はぼくたちとだいたい同じくらい、二十代後半からちょうど三十歳くらいに見えた。軽くウェーブのかかった前髪のない長い黒髪を後ろでゆるく一つに結わいていて、シルバーの大振りな輪っかのピアスと、黒い革のシンプルなチョーカーと臍ピアスとアンクレット以外には、何も身に着けていない。スタイルが良くて色白なだけでなく、胸と乳輪の形と、その色までもが理想的だった。手足に紺色のネイルラッカーが塗られていて、四角くカットされた陰毛は人工芝を彷彿とさせた。なんだか金持ち専門のデリヘル嬢みたいに見える──でも、死んでるんだよね。後ろから死体の両腋を支えているルシが言った。

「悪いがコウヘイ、支えてくれないか。前の方からだ」

「わかった」

 ぼくはベッドに上がって死体を支えた。向き合った状態で下半身にまたがり、両腋に手を差し込んで腕を持ち上げる。死体は思ったよりもずっと重く、そして奇妙に温かい。

「よし、そのままだ」

 ルシが脇にあった水色のブラジャーを取り上げて、死体の胸に回しながら言った。「太一、とりあえず『油紙』持ってこい。あと引っ越し用の紐と、カッターもだ」

「んえっ」

 果たして、油紙とはなんなのだろうか?

 ルシに訊ねるよりも前に、太一が無意味にフローリングの廊下を靴下で滑りながら、即行で戻ってきた。その手に持っているのは、さっきミッキーを載せて遊んでいた謎のロール紙だった。

「よし、そこに置いとけ。じゃあ次は、あっちのクローゼットからスーツケー……いや、寝袋持ってこい。奥にあるはずだ」

 再び、「んえっ」という声が後ろから聞こえてきた。足音がまったくしないところからして、どうせまたスケート選手か何かの真似でもしているに違いない、とそう思って振り返ってみると、この上なく真剣な顔で、ムーンウォークをしながら廊下の奥へと消えてゆく太一の姿が、一瞬とは言え、はっきりと見えた。

 ブラジャーを着け終えたルシが言った。「よし、今度は、ここを支えてくれ。Tシャツ着せるからよ」

 死体の首筋から仄かに立ち昇ってきたコロンの匂いを嗅いだ途端、じわっとこみ上げてきた吐き気を堪えつつぼくは頷く。

「吐きそうか?」

「平気」

「そうか」今度は死体にTシャツを着せながらルシ。ピアスが襟に引っかからないように注意を払っている。「おれは初めてのとき、普通に吐いたけどな」

「やっぱり、前にもあるんだ」

「なんだよそのやっぱりってのは」ルシは笑った。

「ごめん、なんかすごく慣れてる感じだから」

「馬鹿言え」またルシは笑う。「今日でまだ二回めだ。まあ、前のときは目玉と胸をぐっさりと刺された、血まみれのやつだったからな。それに比べたら今回のはマネキンだ」

 ──瞬間、ルシの表情がなぜかしくじったというようなものになった気がしたけれど、気のせいだと言えばそう言えるレベルのことだった。露骨なぼくの視線に気付いたルシがまた笑いながら付け足す。「おいおい、勘違いすんなよ。そんときおれがやったのは、後始末だけだからな?」

「誰が殺したやつだったの?」

「お前の、知らないやつだよ」

 だったら教えてくれてもいいじゃないか、とは言わないでおいた。ほんの一瞬だけど、ルシが口ごもるのを感じたからだ。

 死体の腕をTシャツの袖に通しながら、弁解でもするようにルシが続ける。「だいたいおれには、人は殺せねえよ。殺してやりたい人間はいるけどな。だがきっと殺せない。さっさと死んでほしいって遠くから願うだけだ」

 いつになくルシが饒舌になっているような気がしたけれど、それはぼくが無口になっているせいもあるのかもしれない。気分が悪くて、あまりしゃべる気になれないのだ。でもアッパー系薬物の副作用である被害妄想を肥大化させないためにも、冗談めかしてぼくは訊ねる。

「死んでほしいってそれ、ぼくのことだったりしないよね?」

 死体にTシャツを着せ終えたルシがはっと笑った。「阿呆、んなわけないだろ。よし、と。一回寝かせるぞ」

「うん」

 ぼくは内心ほっとしながらルシと死体を仰向けにした。はずみでどこかの関節がぽきりと鳴った。死んでも関節が鳴ったりするんだな、と妙に感心すると同時に、ルシが殺してやりたい人間って一体誰なんだろうとぼんやりと考えた。

「じゃあ次はここをこう支えてくれ。パンツ穿かすからよ」

「……わかった」

 ぼくは指示通り死体のふくらはぎを頭側から支えながらルシを見た。ブラジャーと同じ水色のTバックタイプのパンティーの前後と裏表を熱心に見極めようとしているルシの姿は、どうひいき目に見ても、体育会系の変態にしか見えなかった。

「っとだ、その前に──」

 唐突に言ってルシは立ち上がった。そして一度ベッドを降りて箱ティッシュを手に戻ってくると、ぼくの支えている死体のふくらはぎの下にもぐり込み、ふさわしい大きさにしたティッシュを手早く肛門に詰めた。途端にまたじわっとこみ上げてきた吐き気を堪えつつぼくは訊ねる。

「そうやって、ちゃんと詰めといた方がいいんだ」

「やりたかったのか?」

「まさか」ぶるっとぼくは首を振った。

 ルシは笑った。それから再び死体にパンティーを穿かせにかかる。どうやらTバックの前後と裏表は無事に判断が付いたようだ。

「ところでよ、コウヘイ」

「ん?」

「お前、死後の世界ってあると思うか?」

「どうだろう」戸惑いながらぼくは答える。「ちょっとわかんないかな。死んでみないことには」

「だな」ルシは笑った。「確かに、一回死んでみないことにはな。それも、『完璧に』な」

 ぼくは頷いた。「まあ、天国くらいはあってほしいけどね。ルシはどう思うの?」

 逆に訊いてほしいのかなと思って訊ね返したのだけど、予想に反して、ルシは何も答えなかった。そのまま死体にパンティーを穿かせ終わると、今度はその上から、スパッツを穿かせにかかった。それは七分丈の、水色地に無数の蒼いハイビスカスがプリントされているという地味めのスパッツではあったけど、なぜだかその柄が、脳裏に染み込むように強く焼きついてゆくのをぼくは感じた──ルシが言った。「よし、と。あとはおれが穿かすから、お前はその紙をベッドに広げてくれ。それでぐるっと死体を巻くからよ」

「わかった。ってゆうかこの紙ってなんなの?」

 ビニールから取り出した紙を広げると、内側が薄いシリコンのようなものでコーティングされていることが確認できた。

「ああそうか、お前には一度も説明してなかったな。これはな、死体の臭いを吸着するために巻いとくんだよ」

「死体の、臭い……?」

 ルシは頷いた。「こうやって取った臭いからな、香水を作るんだ。これから会いに行く、亜門ってやつがな」

「香水……ねえ、それってどういう臭いがするの……?」

「さすが作家志望、嫌悪感よりも好奇心の方が強いか」

「そんなんじゃないけど、うまく想像できないからさ……ルシは、嗅いだことあるの?」

 何度かな。ルシは言った。「あの臭いは──そうだな、実際嗅いでみないと説明できないが、一言で言うと、『寒い』臭いだ」

「寒い……それって、暑い寒いの寒い? それとも、引くとかそういう意味の寒い?」

「全ての寒いだ」

「……確かに、実際に嗅いでみないと説明は難しそうだね」

 な? という顔をルシはした。「それよりもコウヘイ、服だけならまだしも、なんで死体に下着まで着けるんだって思わないか?」

 確かにその通りだった。

「あ、そう言えばそうだね」

 ぼくが言うと、ルシは声を出さないまま少しだけ笑った。嘲笑したという感じだったけど、ぼくに向けられたものではないようだった。「その亜門ってのはな、とにかく人間の死体が好きな男なんだ。最終的にはこうやって死体から香水も作るし、その前には喰いもする。亜門いわく、人間は肉もうまいが、脳を含めた臓物と、あとは軟骨が地味にうまいらしい。今やつが一等はまってるのは、いわゆる人間版のもつ鍋と、喉と耳の軟骨の七輪焼きだそうだ。特に喉がコリコリしてうまいって話だ。──さて、ここで質問だ。じゃあそうやって喰う前にやることはなんだ?」

「えっと、『やる』……の?」

 ルシは笑いながら頷いた。「つまりな、そいつのリクエストなんだよ。死体が最後に着てた洋服と、あとそれが女なら、ちゃーんとブラとパンティーも着けてこいよ、ってな。亜門いわく、脱がすときからセックスは始まってるそうだ。どうだ、イカれてるだろ?」

 ぼくは、深々と頷いた。亜門さんが太一の怯んでしまうほどの超弩級な変態だというのは、そういうことだったのだ。

「でもさ、どうしてそんなことになっちゃったんだろうね」

「聞いた話だと、ガキの頃、飛び降り死体の第一発見者になったことがきっかけらしい」

「うわ、そうなんだ」

「検屍官になったのも、それが関係してるってことだ」

「え、その人って検屍官だったの?」

「初耳だったか? やつは今でこそ死体処理で食ってる男だが、元々は検屍官だったんだ」

「そうなんだ。ってゆうか元々ってことは──」

「死体とやってるのがバレて、これだ」ルシは親指で自分の首を横になぞった。

「知ってた」

「つっても表向きは円満退職で、退職金もたっぷりともらったらしいけどな」

「えっと、それは、どうして?」

「口止め料だよ」

「あー」

「どうだ、腐ってるだろ? どいつもこいつも」

 スパッツを穿かせ終わったルシが、死体を一度仰向けに寝かせた。「よし、じゃあ次は紙に載せるぞ。お前はそっち持ってくれ」

「わかった」

 ルシが上半身を持ち、ぼくは下半身を持った。

 死体を移動させている途中でルシが続ける。「一度、たまたまなんだがな、そいつの屍姦プレイを見ちまったことがあるんだ。ったく、えげつない方法でやってやがったよ……。でそんとき以来、おれはその光景を時々思い出すようになった。思い出したくなくても、脳のやつが勝手に思い出しやがるんだ」

 えげつない方法というのを具体的に知りたかったけれど、訊くことができないままに、それとない相づちをぼくは打った。

 死体を紙に載せ終えたルシは黙り込んだまま、どこか哀れむような目つきでその顔を見つめている。ぼくもつられて一緒に見る。微かに開いた唇の間から、輝くような白い前歯が覗いている。死体とやるときにも、やっぱりキスをするのだろうか。

「ここでさっきの死後の世界の話に戻るけどな」だしぬけにルシがしゃべり始める。「亜門のそのプレイを何度も思い出すうちに、おれはこんなことを想像するようになった。想像なんかしたくないのに、気が付けばつい想像してるんだ。おれが死んだあとに、ブラとパンティーを着けられて、あいつに犯されてるところを。臓物をぐつぐつと煮込まれたり、焼かれたりしてるところを。こうやって油紙に巻かれてるところを」ルシは折り返した紙を死体に被せると、一回転半は巻くことができるように幅を見定めたのち、カッターで切断し始めた。「で、その度に思うんだよ。もしも本当にそうなったとしたら、死後の世界でも、天国でも地獄でも、そんなものあったらあったで悲惨だし、なかったらなかったで、やっぱり悲惨だってな。なあ、だってそうだろ? もしも死後の世界があるとしたら、おれはかつておれのものだった身体が好きにされてるところを、どっかから見てなきゃなんないだろうし、逆になかったとしても、自分の身体がなぶられることに、なんら変わりなんてないんだからよ」

 ぼくは、何も応えなかった。でも本当にその通りかもしれないと思う。『本当にその通りかもしれない』。

 だからな、とルシは続ける。「どっちも嫌なんだから、もうこう考えるしかねえじゃねえか。死んだら、何もかもが終わりだってな」

 ぼくはまた何も応えない。視界の端で黒い塊が膨らみ、ルシが息を吸ったのがわかった。

「よし、と。じゃあ次は紐で縛るからな。こういう風に紙をかませて、下に紐を通してから縛ってくれ。死斑が浮かないように、少し緩めにな」ルシが必要な分を切ってから、引っ越し用の紐とカッターをこちらに回す。「──そうだコウヘイ、そう言えば、あの密室の謎はまだ解けないのか?」

「え? うん。けっこう考えたつもりなんだけど、まだ、ちょっとわかんないかな。やっぱり、ドアガードがかかってたってとこがわからなくて……」

「そうか」

「ごめん」

「気にするな、解け次第教えてくれればそれでいい。見取り図はちゃんと持ってるな?」

「うん」

 とちょうどそこで戻ってきた太一が、なぜか前回り受け身でベッドに上がってきて、あいー、と言いながら持っていたものを差し出した。

「おう、ごくろうさん」ルシは言ったものの受け取らず、ただただ不思議そうな顔をしただけだった。それもそのはず、太一の手には寝袋ではなく、どことなく肉ジュバンのようにも見える、薄手の黒いダウンジャケットが握られていたからだ。

「太一、それは、何?」ルシの代わりにぼくは訊ねる。

(何って、ユニクロっすけど?)と当たり前のように太一が答える。

 ルシが笑って、太一の片方の角を指先で弾いた。「こら太一、おれが持ってこいって言ったのは寝袋だぞ? ね ぶ く ろ」

(マジっすか)

 太一がルシを見たあとでぼくを見た。「ほんとだよ」とぼくは答える。

 太一は握りしめたダウンジャケットとルシとぼくの顔を三度も順番に見たあとで、指先を折り曲げた片手を口の前で左右に何度か動かす『やばい』という手話をやりながら、んえ〜というお決まりの声を上げた。

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