第41話

  二

 夜空には、双つの月が出ていた。

 紅月と藍月。

 見かけは同じ大きさだが、藍月のほうが小さく、その動きは早い。一年のうち双つの月が夜空に出ているのは三月あまり。その三カ月の間に、わずかだが、双つの月が重なり合う〝双月蝕〟がある。

 今が、その時である。

 じりじりと藍月は紅月に追いつき、お互いの縁を接しつつあった。

 胸騒ぎを感じ、時太郎は寝床から起き上がった。

 隣の寝床を見ると、空っぽである。

 そこには三郎太が寝ていたはずだ……。

 どうしたんだろう……。

 時太郎は二人が使っている洞窟から外へ出た。

 もあっ、と湿った熱気が、夜の闇を塞いでいる。河童淵に注ぐ熱水が、空気を耐え難いほどの暑さにしていた。

 崖のあちこちに空いた穴には、今は仲間の河童は、ほとんど住んでいない。この熱気に耐えられぬと、海岸紅杉セコイアの森へ逃げ込んでいるのだ。

 双つの月が投げ掛ける光を浴びて、辺り一帯は薄紫色に染まっている。

 沼からはもやが立ち上がっていた。

 その靄霞の中に一人の河童が立っている。

 時太郎は目を細めた。やはり、三郎太である。

 あれから三郎太は、だんまりを続けていた。

 まるで心ここにあらず、といった様子で、ぼんやりと虚ろな目付きになっていた。時太郎は、そんな虚脱状態の父親に声を掛けられず、やきもきしているだけだった。

 やがて、三郎太は歩き出した。行き先は、水虎さまの像がある滝壷のようであった。

 時太郎はゆっくりと父親の後を尾けていった。

 ふらふらと、頼りない足取りで父親の三郎太は滝壺へ歩いていく。その先に聳えているのは、水虎さまの像である。

 ざあざあと、水飛沫が像を洗っている。

 時太郎は、どきりと立ち止まった。

 なんと!

 水虎さまの目が光っている。

 ぼんやりと、祖母緑色エメラルドに光っていた。

 三郎太は立ち止まり、水虎さまを見上げた。その視線は、水虎さまの目に向かっている。

 しばらく三郎太は、そのまま微動だにしなかった。

 が、不意に三郎太は時太郎を振り向いた。

「時太郎、そこにいるんだろ? こっちへおいで」

 穏やかな声だった。時太郎は即座に、それまで隠れていた岩陰から飛び出し、三郎太の前へ進んだ。

「父さん?」

 三郎太は微かにうなずいた。

「時太郎、たった今、水虎さまの〝お告げ〟があった……」

 父親の言葉に、時太郎は仰天した。

「〝お告げ〟?」

 ああ、と三郎太はうなずいた。

「お前にも聞こえる筈だ」

 意外な父親の言葉に、時太郎は「えっ?」と聞き返していた。

「おれに?」

「そうさ」と三郎太は水虎さまの像を見上げた。釣られて、時太郎も見上げる。

 巨大な、水虎さまの像がのしかかるように聳えている。中天には双つの月がお互いの縁を接し、見る見る藍月が紅月を蝕すかのように覆い始めている。

 ついに、藍月が紅月を完全に隠した。一瞬、まわりが深い青――瑠璃紺青色るりこんじょうに染まる。

 その瞬間──

 ──時太郎……

 深い、穴の底から響いてくるような〝声〟が、時太郎の全身を満たしていた。

 時が止まっていた。

 藍月は紅月を蝕し隠したまま、その場に留まっている。藍月の深沈とした瑠璃紺青色が、すべての物を凍りつかせている。

 水飛沫すら、その動きを止め、宙に水玉がぴたりと留まり、月の光を受けきらきらと輝いていた。

 ──時太郎、母親を捜すのだ……今こそ、お前は母親の時姫に会う時機が来た……

 母親? 時姫?

 いったい、何のことだ?

 時太郎の思考は、空回りを続けていた。

 三郎太は、今まで唯の一度も、時太郎の母親のことは口に出したことがなかった。第一、母親の名前すら知らなかった。母親の名前は、時姫というのか……?

 水虎さまの思考は続いた。

 ──時太郎、お前には〈聞こえ〉能力ちからがある……その能力で、母親を捜せ……

 ざあざあと水飛沫の音。

 突然、世界は生命を取り戻した。

 ざわざわと森の木々が梢を鳴らし、水虎さまの足下から湧き出す熱泉が、時太郎の頬を火照らせる。

 夜空を見上げると、双つの月は離れ離れになるところだ。藍と紅の双つの月は夜空を横切り、薄紫の竜胆りんどう色の闇が、辺り一帯を支配していた。

 時太郎は三郎太を見た。三郎太は、大きくうなずいて見せた。

「朝になったら、長老さまに会おう」

 時太郎は身じろぎもできず、ただ水虎さまの像を見上げていた。

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