第7話
二
「源二、あれは何でしょう?」
不意に時姫が、何かを見つけたように声を高めた。立ち止まり、源二は姫の視線を追う。
かつては水の流れた川床であったろうか、うねうねと蛇行した窪みが見える。その真ん中に、何かが──いや何者かが仰向けに倒れていた。
言葉を発した次の瞬間、すでに時姫は、そちらへ足を向けていた。
おやめなされ──という言葉を源二は呑みこんだ。こういう場面に時姫に「待て、暫し」と制止することは無駄であると知り抜いている。
時姫は意外と身軽に川床の斜面を降りていく。後を追う源二は、何かあっては一大事と、足を急がせた。
倒れていたのは人……のように見える何かであった。
細い手足、顔のようなものがついているから、辛うじて人のように見える。が、その顔は、断じて人間ではない。
嘴{くちばし}のように突き出た口。閉じた両目は大きく、顔の半分ほどを占めている。頭の天辺がやや窪み、その周りをぺたりとした黒髪が取り巻いていた。
「人……でしょうか?」
尋ねる時姫に、源二は首を振った。
「人ではござらぬ。河童でござろう」
「河童?」
「左様、妖怪変化、魑魅魍魎の類でござる。おそらく、この日照りで頭の皿が乾いてしまったのでござろう。さ、このようなものに関わると、後生が悪うござる。先を急ぎますぞ!」
が、姫は動かない。まじまじと倒れている河童を見つめている。時姫が覗き込んだために日影ができて、河童の顔を日差しから遮る格好になる。
ぴくり、と河童の瞼が痙攣した。はっ、と時姫は口を開いた。
「生きておるようじゃ! 源二、どうすればよい?」
源二は舌打ちをした。
「おやめなされ! そのような妖怪に情けを掛けるのは、却って仇となるに決まっておりもうす! 見捨てることじゃ。忘れもうしたのでござるか? 我らは追われているということを」
時姫は源二を見て、凛然と言葉を押し出した。
「
しかたない、と源二は河童の頭の皿を指さした。
「それ、その頭の天辺に皿がござりましょう? その皿が乾いたため、動けなくなったのでござる」
「水を掛ければ生き返るのじゃな?」
言うなり、時姫は
はっ、と河童の目が見開かれた。水の音に反応したのか?
時姫は水筒の栓を抜くと、河童の頭の皿に水を注ぎ入れた。
ぱかり、と閉じていた河童の口が開かれた。
次の瞬間、河童の手が動いて時姫の水筒を握りしめていた。時姫の手から水筒をもぎ取ると、大きく開けた口に中の水をだぼだぼと注ぎ入れる。
ごく、ごくと河童の喉仏が動いた。
飲み干すと、ふーっと溜息をつき、河童は時姫の顔を覗きこんだ。
さっ、と時姫は立ち上がった。顔からは血の気が引いていた。その様子を見て取り、やはり止めておけばいいのに、と源二は胸のうちでつぶやいていた。
見開いた河童の目は、あまりに異様であった。
黒目ばかりで、白目の部分がほとんどない。人間離れした奇妙な瞳が、じっと時姫の顔を見つめている。
時姫と河童の視線が絡みあう。魅入られたように時姫は見つめ返していた。
思わず源二は前に出て、時姫の姿を隠すように立ちはだかった。
ゆっくりと河童は身を起こした。探るような視線を今度は源二の顔に当てている。
「礼を申す……」
ぼそりとつぶやく河童に、源二ははっと身構えた。右手は反射的に腰の太刀に伸びている。
「おぬし、喋れるのか」
ふっ、と河童の口が歪み、笑いの形を作った。
「当たり前だ。おれを何だと思っている」
「河童であろう! 姫さまがおぬしを憐れと思し召しになって水をくだされたのじゃ。じゃによって、決して仇をなすではないぞ」
「姫? その娘、姫と呼ばれる身分なのか!」
指摘に源二は口をつぐんだ。たちまち顔が火照るのを感じていた。
しまった! なんという失態!
流れるような動作で河童は立ち上がった。立ち上がると、存外と背は高い。源二とほぼ同じくらいはある。
源二の背中越しに、時姫がこわごわ半分、興味半分といった様子で覗き込んでいる。
そんな時姫をちらりと見て、河童は口を開いた。
「お前ら、追われていると言っていたな」
源二はうめき声を上げた。
「おぬし、聞いておったのか? 油断のならぬ奴!」
「身体は動かないが、耳はちゃんと聞こえていたよ。礼の替わりに、あんたらに良い隠れ家を教えてやる」
ふっと顔をそらし、山脈を見上げた。つられて源二も視線を動かす。
「あの山懐を見ろ。ここはこんな日照りに見舞われているが、あそこにはまだ緑がある。この辺りの百姓たちで、気の利いた連中はみな森に逃げ込んでしまっている。無理もない。こんな日照りでは、年貢を払えるわけもないからな。あんたらも、あそこを目指すが良いだろう。そのなりで百姓と称するのは、少し無理があるがな」
じろじろと河童は無遠慮な視線を二人に当てていた。むっとなって源二は言い返した。
「なぜ百姓であると言うのが無理じゃと申す?」
「着物が新しすぎる。そんな、継ぎの一つもない、立派な着物を身に着けた百姓が、おるわけないだろう?」
河童の目が細くなった。笑ったのか。源二には河童の表情がよく読めない。
源二は渋面になったが、言い返せない。河童の言葉は、まさにその通りだったからだ。
ひょろり、と河童は歩き出したが、何かを思い出したかのように振り返る。
「おれは、三郎太。河童淵の三郎太だ」
ぽつりと投げかけるように言うと、こちらの対応を待っている。
時姫が、口を開いた。
「妾は
丁寧に頭を下げる。
源二は時姫に囁いた。
「姫さま、このような奴輩に名を告げるなど……」
「向こうが名乗っているのです。こちらも名乗らないのは失礼でしょう?」
時姫は澄まして答える。
「それじゃ」と河童の三郎太は片手を挙げた。
「山中に入れば、あの杉林あたり──」
指さした。
「に、今は無住の廃寺があるだろう。荒れてはいるが、雨風は
ぶっきらぼうに言い捨てるなり、いきなり走り出した。
とととと……と、川床の斜面を駆け上り、あっと言う間に向こう側に姿を消した。
出し抜けのことに、二人は暫し、呆気に取られていた。
「なんとまあ……」
源二は今頃になって顔に汗が噴き出してくるのを感じていた。懐から手ぬぐいを出して拭うと首を振った。
「やはり物の怪は物の怪。人のようでいて、その心根は違ったようでござるな」
「悪い妖怪では、なさそうです」
姫の答に源二は、ぎょっとなった。
見ると時姫は河童の三郎太が去った方向を、面白そうな表情になって見つめている。そんな無邪気な時姫に呆れ、源二はことさらに厳しい表情を作って声を掛けた。
「姫さま。拙者、さきにも申し上げたように、きゃつらは妖怪、魑魅魍魎の類でござりますぞ。親しみを覚えて情けを掛けなさると、思わぬ失態をいたしましょう。以後、お気をつけあそばすよう忠告申し上げまする」
時姫は唇を尖らせた。不服そうである。が、それでも源二の忠告に答える。
「判りました。充分、注意いたしましょう」
歩き出した。
源二が立ち止まっているのに気付き、振り返った。
「何をしているのです? あの三郎太と申す者が教えてくれた廃寺に急ぎましょう」
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