第2話

               二

 ここは京の都の鴨川ぞいにある信太しのだ従三位屋敷である。信太家は、古い陰陽師の家柄で、時姫はそのただ一人の後とりだ。

 かつては御所に足しげく通うこともあったが、時姫の父親が亡くなってからは参内もなくなり、現在は閑散としている。

 ところが近ごろ、たった一人の時姫に御所から執拗な参内の命令が出るようになった。

 命令を出しているのは〈御門みかど〉であった。その命令に姫は、今まで曖昧な返事を繰り返すだけで、じっと屋敷内に留まっている。

〈御門〉の狙いは信太家に伝わる〝鍵〟である。しかし時姫は、父親から「決して〈御門〉に〝鍵〟を渡してはならぬ」と遺言されていた。そのため、時姫は〈御門〉の命令を拒否していたのだ。

〈御門〉──。それは謎の存在だ。御所にいることは確かだが、誰もその姿を見た者はいない。しかし〈御門〉の命令は絶対的で、時姫一人だけが逆らっている。

 源二は、もともと北面の武士であった。それも、奇門遁甲をくする特殊な一団に属していた。

 信太従三位が御所に参内していた当時、従三位の目に止まり、懇望されて屋敷に入り込んだ。

 そのころ従三位は、このような事態があることを予感していたのかもしれぬ。しかし請われて屋敷に住まうようになり、そのうち時姫を知るようになって、こんどは源二のほうが時姫を守ることが自分の使命であると思い始めていた。

 優しい、とか正直だとかとは少し違う、時姫独特の透明感があった。それは時として人に奇異の念を思わせるものがあったが、源二の心に突き刺さるものがあった。

「こちらでございます」

 源二が案内したのは、屋敷の裏手にある、南天の茂みに埋まるように隠れている井戸であった。

 ただし、空井戸である。川の流れが変わったのか、ある日、唐突に水がれ、現在では蓋をしたまま忘れ果てられた状態になっている。

 源二は井戸の蓋を持ちあげた。深々とした井戸に、縄梯子が垂らされている。

「これを降りていただきます。この日のあるのを予想し、抜け道を作っておきました」

 源二の言葉に、時姫はこわごわと井戸を覗き込んだ。月のひかりが中天に懸かって、井戸の底まで届いている。

「源二、そちも一緒に降りてくれるのであろう?」

 心細そうな時姫の声に、源二の胸はちくりと痛んだ。それでも、ゆっくりと首を振った。

「いいえ。それがしは、姫さまをお落とし申し上げるため、屋敷に留まるつもりです。一騒ぎいたして、敵の目を引きつけましょうぞ!」

 源二の言葉に、はっと時姫は唾を飲み込んだが、それでも強くうなずいた。

「わかりました! 妾は一人で参ります。そなたは敵の目を引きつけたら、逃げ出すのでしょう? まさか、切り結ぶなど、考えておりませんな?」

 念を押す時姫に、源二は自分の身を案じる主人の心根を感じ、胸が熱くなるのを感じていた。

「あたりまえでございます。それがしの使命は姫さまを無事、お落とし申し上げることしかござりませぬ。抜け道を出たら、そこでお待ちくだされ。それがし、かならずや姫さまのもとへ参上しますゆえ」

 はい、と点頭して時姫はそろりと足を持ち上げ、井戸をまたいだ。指を縄梯子に絡め、慎重に降りていく。それを確認して、源二は蓋を持ち上げた。

「姫さま! 蓋を元通りにいたしますぞ! 暗くなりますが、底に達すれば、抜け穴があります。どうかお気をつけて……」

 うん、と姫の声が聞こえてくる。どういうわけか、時姫の声は童女のようにあどけなく響いた。

 ごとりと蓋を元通りに戻すと、源二は井戸を隠すため、周りの茂みを蓋の上に重ねた。これで昼間の光で見なければ、そこに空井戸が存在することは判らないだろう。

 さっと井戸に背を向けると、源二は正門の方角を見やった。

 開門──と、喚き声が聞こえてくる。いよいよ敵勢は、戦を仕掛けるつもりだ!

 どんどんどん、と正門の扉を叩く音がする。

「面倒だ。叩き壊せ!」と命令する声がした。

 どーん、どーんと、なにか重いものを扉に突き当てる音がする。

 源二は走りだした。

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