第2話 一之章
「やれやれ、三日も夜通いできなかったからな。藤香のやつ、怒ってなきゃいいけど」
黒い総髪にそこそこ整った顔立ち、俊敏そうな体格に緋色の狩衣と、そこまで見れば立派な青年武官なのだが、ヨレた狩衣を着てちょっぴり情けない表情をしていては、諸々台無しといえなくもない。
「とうっ!」
開けた瞬間、安っぽい掛け声とともに、
「うっうわぁ!?」
ぱしっ
「び、びっくりしたぁ! 何やってんだよ、
踵落としの張本人は、脚をおよそ120度ほどおっぴろげたままの姿勢で、きょとんとしている。
「あら、そろそろ来る頃だと思って、こうやって入り口まで来て待っててあげたんじゃない。
もぅ、私ったら恋する乙女のカガミってやつよね」
菖蒲色を基調とした小袖袴に身を包んだ、
「いや待て、普通の恋する乙女は踵落としやらないだろ、多分。
おとなしく待ってられんのかい」
「何よ、3日間もすっぽかしたくせによく言うわ。
早く入ってちょうだい、母上来るとうるさいから」
どこからともなく、ほーぅっ、という木菟の鳴き声が聞こえてきていた。
「それにしてもヨレた格好ねー。もっとピシッ! としてこようとか思わなかった……」
「……あたりが、まあ
「なんだよそりゃ」
まだ何も食べてない、と藤香に言ったところ「こんな刻限に食べると太るわよ」といいつつも、少し面白そうな表情をして奥に下がり、お膳に適当に並べて部屋までもってきた。
藤香お手製かどうかは不明だが、直感的に聞いてやらない方がいいような気がしたので、
「んー……敢えて言うなら無頓着でガザツな子?」
「言いたい放題だな。まあそれが
「あら、それはどーいうことかしら?」
「んぐっ……敢えて言うなら図々しくて遠慮無し」
「……人の家のお膳を、さも当然のように平らげときながらよく言うわ。
あと、ちゃんと御飯は噛んでから飲み込みなさい。
ほら、膝とか米粒こぼしてるし」
「いちいち小言が多いな……お前は俺の女房か」
「後々そうなるつもりよ?」
何かにつけて有職故実に詳しい
「……とすると、
「そういうことよ。都の中央に内裏があるでしょ? あそこの地中深くに、大地を天に浮かせる力を持たせた、特製の式神・
「窒息するだろ埋めたら」
「人間の理屈は通じないわよ……周囲にそんな屁理屈言ったってね……位階は上げてもらえないわよっ、と」
暗い蔀の向こうから聞こえる
あまりに解れがひどい
「……ところで
「……なんだよ」
「何で3日間も夜通いすっぽかしたのか、きりきり白状してなかったわね?
内容によっては容赦しないけど、白状しないともっと容赦しないわよ。
もちろん嘘八百は論外」
「げっ……アレを出すとか」
「……我の声に応えて出でよ、金の吉将、月光の守護者、
「
「えええええええ!? 緋衣の
「ぐげげげげ! ぐるじい! ぐるじい!」
「
「
面白そうに言う
……とまあ肩書きはエラそうなのだが、どうひいき目で見ても、人間以上の力のくせに精神年齢が低い
「3日も来れなかったのは、数日前に起きた、
飲まず食わずで大変だったんだぞ」
神妙にしないと、腹の上に乗っかっている妹風式神爆弾に締め上げられるのは目に見えていた。
「
「外傷はないが、意識が全くない。命に別状はないが昏睡状態というやつだ。
どうやって昏睡にさせたのか、方法も不明。盗難物はないから物盗りじゃなさそうだ。
ちなみに使役する式神は、あっけなく滅していたようだぜ」
自分の上に乗っかっている
「マヌケな式神だねぇ。やっぱ、
……
「まだ下手人は捕まらないわけ?」
「まあな……しかし、俺が一番気になるのは」
「何で式神使いの家の者を敢えて狙ったのか、ね」
「無難なところで個人的な怨恨……とかじゃなさそうね。それなら、昏睡させるなんてまどろっこしいテはとらずに、バッサリ殺してるでしょうし。
もっとも、そのセンで調べて行き詰まってなかったら、
「……わからねぇな、ホントに」
「……そうね、式神使いの家の者が他人に狙われるのは、恐らく都が出来て以来前例がないわ。
何せ、
「ところで
恨めしそうな
綺麗な茜色に染まった、
「藤香様も物好きだねぇ、こんな夕暮れ時に」
藤香の横を歩く藍璃は、前を向いたまま嬉々とした表情で言う。
碁盤目状になっている都の通りの中でも、裏通りではないが、さほど人通りの多い通りでもない道である。
家の近所で散歩しているだけ、といえばそれまでだが、藍璃と話すわけでもなく藤香は無言。周囲への目配せを怠らない。
「物騒な下手人が出るのは、大抵夕暮れ時か夜と決まってるのよ」
藍璃の言葉に応え、ようやく口を開いた藤香からは、あまり穏やかではない言葉が飛び出した。藤香は話を続ける。
「式神使い五家の人間が狙われているなら、遅かれ早かれ下手人とのご面会は避けられないわ。この通りはよく使うし、私もこの辺の土地勘もある。こっちから打って出る方が私は好きなのよ。
だから、いざという時はアテにしてるわよ藍璃」
「藍璃は、アテにしてもらってもいいよ藤香様。
式神使い五家は、木・火・土・金・水の五行の力を司るっていうのに、璃寛原の土の式神ときたら、ずいぶんダラしのないことだったねぇ」
脳天気な調子で言っているようだが、藍璃の語気にはどことなく鋭いものが混じっている。
「……そいつホントに狙ってたんだねぇ、藤香様のこと。
どうやら来たみたい」
藤香と藍璃は足を止める。二人の先には、尋常ならざる気配を隠そうともしない人影が、仁王像のごとく通りの真ん中に陣取っていた。
「私達に何かご用かしら?」
立ち止まった藤香は、右手をさりげなく後ろに回しながら問いかける。
空五倍子色の狩衣に身を包んでいることからして、男であろうか。そして、黒い鬼面で顔をすっぽり覆っている。その凍てついた鬼の形相には、神楽で見られるような厳かさは微塵も感じられない。
黒い鬼面の男は無言のまま、懐から灰色の凸字型をした須恵器、いわゆる長頸瓶を取り出すと、ゆっくりと傍らの地面に置いた。
何の意味があるのか、藤香にも藍璃にも判りかねたが、いずれにせよ友好的ではなさそうなことは確かである。
すると突然、目の前にいた黒い鬼面の男が消えた。
「……えっ!?」
「藤香様、右!」
藍璃の声に反応して右手を向くと、とっさに藤香は後ろに回していた右手を、振り上げるように一閃させる。
ビュッ!
鋭く引き裂かれた空気の悲鳴とともに、黒い鬼面の男が藤香の二歩ほど間合いを取った所に現れる。
藤香は、白色の御札のようなものを、人差し指と中指で挟むようにして持っている。術で呪をかけられた御札は、刀をも切り裂くほどの鋭い切れ味をもつ。
「とっておきの符術・
数歩下がって悔しがる藤香。手応えはなかったことからして、寸前のところでかわされたらしい。
黒い鬼面の男が藤香に迫ろうとするが、しかし急に立ち止まって後ろに下がる。その刹那、黒い鬼面の男がそれまで立っていた場所に、高速で飛来した瓦が、けたたましい音を立てて地面で砕けた。
「まだまだ終わらないよ」
声の主は藍璃。彼女の周りには、筒状の丸瓦が十数枚ほど、ふよふよと頭上を浮遊している。その辺の家のものらしい。
「いけ!」
虚空に浮く丸瓦は、藍璃の掛け声と共に、それまでと一変して目にも映らぬほどの速さで黒い鬼面の男に迫りゆく。
ごぅっ!
しかし、黒い鬼面の男はわずかに宙へ跳んで、丸瓦の弾丸をうまくよけてみせた。
「よけた!?」
「かかった」
藤香の驚愕の声と、藍璃の勝ち誇った声が交錯する。一旦かわされた丸瓦の弾丸は、ぐっと急上昇して黒い鬼面の男の頭上まで旋回、こんどは丸瓦の雨となって黒い鬼面の男に降り注ぐ!
黒い鬼面の男の体は宙へと浮いたまま。よけることはできない。
ずどどどどっ!
くぐもった鈍い音とともに、音よりも遙かに速く飛翔する丸瓦の雨は、黒い鬼面の男の背中へ次々と直撃、うつ伏せになった体は地面へとしたたかに打ちつけられる。
「ざっとこんなものだねぇ。えっへん」
藍璃は大してありもしない胸を張ってちょっぴり自慢げ。
しかし黒い鬼面の男は、丸瓦の破片の中からむくりと立ち上がると、両手で狩衣についた土をパンパンと払い、何事もなかったかのように藤香達へと向き直る。
「……全っ然効いてないみたいよ、藍璃」
「普通の人間の体じゃ、あり得ないよ藤香様。まさか」
藍璃の動揺の声を遮るようにして、黒い鬼面の男は藤香の目の前まで瞬時に間合いを詰める。まるで、虚空を転移してきたかのような……音の奏でる空気の振動さえも見える藍璃の目にさえ、全く映らぬほどの速さ。
どっ!
「うぐっ……!」
黒い鬼面の男は、藤香の腹部に当て身を一撃。体の丈夫さは普通の女性と大差ない藤香には、ひとたまりもない。
「藤香様!? よくも!」
藍璃は左袖から、符術・増長刃をかけた御札を取り出すと、軽く飛び上がり頭上から黒い鬼面の男に斬りかかる。
ぱしっ!
「!?」
しかし黒い鬼面の男は、藍璃の振り下ろされる右手首を易々と掴むと、力いっぱい握る。
「ぐあああああ!」
ゴキゴキと手首の骨が粉砕される音は、藍璃の苦悶の声にかき消された。高位式神の骨を砕くなど、もはや人間技ではない。
黒い鬼面の男は、そのまま頭上で藍璃の体をブンブンと振り回し、土塀へと放り投げた。
どごぉんっ!
あっさり砕ける土塀。気こそ失っていなかったが、藍璃は土塀の残骸にもたれるようにしてぐったりしている。
藤香の体を抱えた黒い鬼面の男は、長頸瓶のところまで戻ると、瓶の口を藤香の口にくわえさせると、不気味な声で呪を唱え始める。
しばらくして、藤香は目を見開き、体をビクン、ビクンと震えさせたかと思うと、再び目を閉じて体をぐったりさせる。
藤香の口から長頸瓶を抜くと、黒い鬼面の男は瓶の口に丸めた紙らしき物を詰め、死んだように動かない藤香の体を地面に置いて、ふっと消えるように立ち去った。
「藤香……様……ごめん……なさい……」
一部始終を見ていた藍璃は、力のない泣きそうな声を漏らすと、気を失う。
土塀の砕ける音に反応したのか、人々が現れるのは、それからさらにしばらくしてのことだった。
「藤香……」
自室の布団の上で眠ったままの藤香の顔を、傍らで
藤香が襲われた翌朝、藤香と藍璃が倒れた姿で見つかったとの知らせを受けて、
医師によると、外傷は腹部の打撲だけで命に別状はないのだが、何故か気を失ったまま意識が戻らない。こればっかりは原因が判らずお手上げ、とのことだった。
ちなみに藍璃は、並の式神だったらとっくに滅しているほどの重傷らしいが、こちらも何とか生きている。
「……必ず目を覚ましてやるからな。少しの間休んでてくれよ」
……どんな奴かはこれから見つけるが、とりあえず捕縛などせず冥土に送りつけてやる。
決意を込めて部屋から出た
「藍璃、教えてくれ。藤香とお前を酷い目に遭わせた奴は、いったい何者だ?」
「うえ……うぐ……ひっくっ……」
しかし、泣きっぱなしの藍璃は溶けて無くなりそうなほどにぐずぐずで、まともに受け答えが出来ない。
「何も出来なかったのは俺も同じだ。お前は命がけで十分に戦ってくれた。
それよりも、命が助かったんだから、今はそいつに一発しっぺ返しを食らわすのが先決だ……」
藍璃はようやく顔を上げる。目も真っ赤で人前に出られるような顔ではなかったが。
「……ひっ……あいつは……黒い鬼面の男は、恐らく人じゃないよ……」
「人じゃない……なら、式神か?」
「純粋な式神の気配でもなかったよ……でも」
「でも?」
藍璃は何とか縁側から立ち上がる。布で吊した右手が痛々しい。今度はしっかりと
「純粋な人とも式神とも違う、違和感を覚える気配だったよ。
あるいは、妖怪の一種かも」
藍璃にも正体は判りかねる存在のようだった。
「いずれにせよ、厄介そうな奴であることと、他の三家の連中も危ないことは確かだ。
手がかりはない以上、とりあえずは式神使い三家に赴くことからだ……付いてこれるか? 本当の主ではない俺だが」
「そうしても、藤香様も許してくれると思うよ。
黒い鬼面のあいつに、やられっぱなしなわけにもいかないし」
藍璃は、力強く頷いたのだった。
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