終章
クールダウン/ウォーミングアップ
あれから、二週間が過ぎた。
その日、
相も変わらず、黒地に紅葉柄の振り袖姿。主の居なくなった部屋で、
そして用意した空のダンボールへ、畳んだ衣服を詰め込んでいた。
衣服は、
今日は、
二週間前の深夜に国立競技場で行われた姉妹の対決は、姉の
その時点で
また、既に護衛対象でなくなった千隼を、官舎に入れるわけにもいかない。そうして官舎へ放置されてしまった
また措置と言えば、
それも《
《
だが逆に、宿主が『願い』が叶うという希望を持てばどうなるか。
《
故に、『人を喰わない《鬼憑き》』は『願い』に繋がるような行為は避けなくてはならないのだ。
「む、」
衣服をたたもうとしていた
手に取った灰色のタンクトップは、着用済みのものだった。
洗って、乾燥機にかけるか。
――と、
何となく魔が差した。
匂いを、嗅ぐ。
「――お、」
思ったより臭くない。
恐らく『風呂上がりに少しだけ着て脱いだ』とか、そんなところだろう。
「…………」
もう一度、匂いを嗅ぐ。
何となく、
とにかく、嫌いな匂いではなかった。
せっかくだし、もうちょっとしっかり嗅いでおきたい。
この際、顔をうずめて嗅いでしまっても――
「……なんだか変態チックですね」
「どゅわっちゅええええええええええええええいっ!!」
背後からかけられた声に、
慌てて振り返ると、そこには文学青年風の優男が立っている。
やたらと綺麗な髪に、切れ長の瞳。今日は珍しくスーツを着込んでおり、就活生のようにも見えた。しかし、これで年齢はもう四十近い。
年齢不詳の外見を持つ男。
「お、お前――
「外されちゃいました」
ニコリと笑って、
「今は二係の馬場班が引き継いでます」
「その様子だと、進展は……」
「ありません。――流石ですね
現在、《SCT》は逃亡した
二週間前に
それが発覚したのは、国立競技場の一件の翌朝。
《研究病院》へ移送された
慌てて、
つまり、
加えて、
ふと、
そして、過去に思いを馳せるように呟く。
「こうして二人きりになるのは、五年ぶりですね――
そう呼ばれ、
ふと、
五年前の八月二十二日。
あの日、国立競技場で《822事件》に巻き込まれた
そして、その晩。
病室の引き戸が開かれる音を聞いて、
足下まで伸びた髪を引きずって、その《鬼》はまず一番近いベッドに寝ていたものに近づく。途端、《鬼》の胸元から飛び出した巨大な鎌が、患者を切り裂いた。
そして鎌の先端が、獲物の体液を吸うように蜘蛛のように、患者を喰らう。
あまりに自然で、あまりに手慣れた作業に、
そして、
恐ろしくて動けない。
そして《鬼》の胸元から、二対の鎌が現れた。
鎌が、
ああ、でも最後に一度だけ。
――家族みんなで一緒に、食事がしたかった。
鎌が、
不思議と痛みは無い。
それどころか、今まで感じた事がないほどの活力が沸いてきた。
不思議に思って、瞳を開ける。
二つの大鎌によって、
さらに子蜘蛛たちは鎌を伝って《鬼》へと襲いかかり、その全身を覆ってしまう。
そして子蜘蛛たちは「キチキチ」と、歯軋りのような鳴き声をあげながら《鬼》の身体を喰らいはじめた。《鬼》が振り払おうとするも、子蜘蛛は数で《鬼》を圧倒する。《鬼》の皮膚を食い破り、肉を喰いちぎり、骨を噛み砕いて、溢れた血を
助かったのだろうか。
息を呑んだ。
《鬼》の長い前髪が子蜘蛛に喰われて、《鬼》の素顔が露わになっていた。
そこにいたのは、母の
だが、ともかく母を助けなくてはと思い、慌てて子蜘蛛を払いのけようとした。だが子蜘蛛は
子蜘蛛が
床には、母親の衣服だけが残される。
そして子蜘蛛たちは役目は終えたとばかりに、
ふと、顔を上げる。
病室の窓に、
平安貴族のように長い髪と、金色の
そして額の両端を割って生える白いツノ。
まぎれもない《鬼》の姿が映っている。
そこでようやく
わたしが、お母さんを食べたんだ――。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
医師も、看護師も、患者も喰らい尽くされた病院。
そこに、
日が明けるまで続いた
母親を食い殺したというストレスが、紅羽の髪から色素を奪った。
そして、
「
気づくと、
どうやら考え込んでしまっていたらしい。
「――その名で呼ぶな」
わたしはもう
その後あちこちの病院を転々とし、最終的に《研究病院》に収容された。
やがて《
そして『他の《
わたしが全ての《
そうして全ての《
そして《鬼》の存在しない、世界を取り戻す。
もう二度と、わたしのような思いをする人間が生まれないように。
だから、
「
――わたしは
宣言するような
「
「……黙れ、ただの遺伝子提供者のくせに」
とは言っても、籍は入れておらず認知もしていない。戸籍上はまったくの他人。
母である
五年前。
正直言って、
むしろ会話をしないよう避けてきた。
「ともかく――」
それを分かっているだろうに、
「あの時、僕が
「……は?」
初耳だ。
思わず
それを、やはりニコリと笑って受け止め、
「
「少なくとも、
「――――そうか」
結局、母のことはよく分からないけれど、きっとわたしのことは愛してくれていたのだろう。そう
「礼を言う。ありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして」
「でも、やっぱり考えは変わらんよ。《
「ところで、」
ふと
つられて、
視線の先は
「ソレ、いつまで握り締めてるんですか?」
「う……こ、これは、お前が変な話をするから」
「
「ばっ――違う!!」
「え? だって、僕に狙撃手を辞退しろって言ってきた時も、子蜘蛛で五年間ずっとお姉ちゃん二人をストーキングしてたから、どっちが勝つかは分かるって――」
「うるさい黙れ」
「でも、残念ですね。
「……ぶっ飛ばすぞ」
そう
「怖い怖い」と言って立ち上がり、さっさとドアから外へと出て行ってしまう。
が、
「そうそう、
「なんだ」
「
そう言い残し、今度こそ
正体を隠しての護衛。
複雑な気分だった。
しかも奧山の命令というのが気に食わない。
奧山は、椛が千隼と飛鳥の妹であることを知っているのだ。
だからこそ奧山は二週間前の護衛メンバーに椛を入れた。千隼から『《鬼肢》の不活性化について知りたい』と訊かれれば、椛も口が軽くなることを期待したのだろう。恐らく今回も、何か思惑があるに違いない。
だが少なくとも、
しかし『どんなことでもする』という事は、椛の身体に全ての《鬼肢》を封印する以外に効率の良い方法が見つかれば、そちらを選ぶということでもある。
それは困る。
母を殺しておいて、罰を受けずに生きるなど、地獄以外のなにものでもない。
それを恐れるからこそ、《鬼肢》の不活性化の方法について隠していた。
だが、もうその手は使えない。
こうなれば、もう奧山との約束を信じるしかない。
全ての《
気づくと、いつの間にか
色々と考えながら作業していたせいだろう。あとはこのタンクトップを洗濯するだけ。どうせだから、自分の服も洗ってしまおうか。そう
洗濯している間にシャワーでも浴びよう。
スルスルと帯をほどいて、振り袖から肩を抜き、
「……?」
振り袖の襟の部分に、何か虫のようなものがひっついている。
だが虫ではない。黒いプラスチックと金属で出来ており、どことなく無線機のマイクにも似ていた。側面に空いた小さな穴などそっくりだ。
黒く小さなソレをつまみ上げ、
「――盗聴器?」
椛は知る由もないことだが。
それは――機械仕掛けの、姉の耳だった。
【了】
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