第28走 お姉ちゃんは下着を脱がない


 ――いた。

 やまさちは視界の端を通り過ぎた薄緑色の病院服を見逃さなかった。

 50メートルほど前方で、病院服は斜面をゆっくりと這うように降りている。しかし、その周囲には飛鳥あすかの姿は見当たらない。


 囮、ね。

 そう判断し、幸ははやがやって来た方向へ視線を向ける。

 が、当然のように人影はない。

 千隼が囮として行動しているならば、あの方角に飛鳥がいるのかもしれない。だが、この薄暗い森の中で探し出すのは困難だ。自身の《》が左腕ではなく感覚器官系の部位であれば話は違うのだが。


 なら、やる事は一つ。

 将を射んと欲すればまず馬を射よ、ってね。


 そう結論し、幸は《鬼肢》を前方に構え意識を集中する。

 イメージするのは弓矢――いや、砲弾だ。

 途端、幸のイメージを拾った《鬼肢》が標的へ向けて射出された。標的は水無瀬千隼。間にある木々を薙ぎ倒しながら、黒と黄色のまだらようが千隼へと伸び迫る。

 だが、


「――チッ」

 捉え損ねた。


 距離がありすぎたらしい。指先を千隼のポニーテールが掠めただけだった。そういえば以前千隼を襲った《舌の鬼憑き》も似たような攻撃方法を行っていたと聞く。遠距離からの攻撃は想定済みという事だろう。


 ならば近くへ。

 幸は伸びきった《左腕の鬼肢》で、その先にある木の幹を掴む。そして《鬼肢》を引き戻す要領で、逆に、自身の身体を掴んだ幹の方へと引き寄せた。宙を舞った幸は、次の瞬間には50メートル以上の距離をゼロにして木の幹へ着地。その衝撃で木が大きくたわみ、頭上から葉や虫が落ちてくる。

 幸はそれらを《鬼肢》で作った傘で払い除け、幹から地面へと軽やかに降り立った。

 ズレた眼鏡を直して周囲を見回すが、千隼の姿は見えない。しかし逃げる余裕など与えなかったはずだ。つまり、千隼はすぐそばで息を潜めている。


「千隼ちゃん!」


 幸はわざと大声で千隼の名を呼んだ。

 森全体に響くような大声で、幸は問う。


「飛鳥ちゃんはどこに居るの? 教えてくれれば、あなたまで食べようとは思わないわ」


 返答はない。

 まあ、そうだよねと幸は思う。

 水無瀬千隼が妹へかける愛情はじょういっしている。

 家族愛や恋心などでは説明できない。もっとおぞましい何かを妹へ向けているように思えた。だから、水無瀬千隼は妹の為なら自身の命を喜んでドブに捨てる。何があろうと妹を売るような真似はしないはずだ。


 だから本気で取り引きをしようとは思っていない。

 とにかく返事を引き出せれば、それでいい。


「ねえ、どうしてそこまで飛鳥ちゃんの事をかばうの?」


 幸は言いながら《左腕の鬼肢》を構えた。

 五指を広げて前方へ。それぞれの指先を蛇の頭のように変化させる。

 状況に合わせて形を変えられるのが《左腕の鬼肢》の特徴だった。

今まで他の《鬼憑き》を何体と見てきたが、どの《鬼憑き》もせいぜい《鬼肢》を伸縮させる程度の事しかできなかった。《左腕の鬼肢》がそれ以上のことを出来るのは、腕や手という部位が人間の身体の中で最も器用だからだろう。逆に感覚器官系の《鬼肢》のように、周囲を探査するような真似はできないのだが。


「飛鳥ちゃん言ってたわ。あなたのしている事はお節介だって」


 どこにいるの、千隼ちゃん。

 幸は眼鏡の向こうに広がる森の風景に、目を凝らす。耳を澄ます。

 少しでも変化があれば《左腕の鬼肢》から五匹の蛇を放って捕らえてあげる。


「わたしは知ってる。あなたが、どれだけ飛鳥ちゃんへ尽くしてきたのか。ずうっと《SCT》から飛鳥ちゃんを庇ってきたんでしょう? それを飛鳥ちゃんは、お節介だって言うのよ。姉という立場に酔ってるんですって。恩着せがましい嫌なやつだって」


 まだか。


「そんな妹のこと、庇う必要がある? 飛鳥ちゃんはどれだけ尽くしても感謝しないわ」

「――別に、感謝されたいわけじゃないので」


 かかった。

 声は左方向から聞こえる。だが、まだ何処にいるのか判然としない。

 もう一回。

 もう一回だけ答えてくれれば。


「飛鳥ちゃんは、あなたの事が嫌いだって」

「……だから、なんです?」


 ――左から二本目のかげ

 幸は声のした方向へ五匹の蛇を放ち、声のした木の幹ごと食い破る。

 だが、


「――浅いッ」


 木の陰から飛び出した千隼は、落ち葉を巻き上げながら斜面を転がり落ちるように逃げていった。幸は中指の先に引っかかった皮膚の切れ端を、腕を大きく振って払い落とす。《鬼肢》は確かに千隼の左脚をえぐったが、それだけだ。とらえきれていない。


 幸も病院服を追って斜面を滑り降りる。

 必ずここで仕留めてやる。


 だが、千隼は巧みに木の幹や落ち葉を利用し逃げていく。一瞬、木の幹に千隼の姿が隠れたかと思うと、次の瞬間には予想外の場所から病院服が姿を現すのだ。それを繰り返すうち、遂には完全に病院服を見失ってしまった。それでも斜面を滑り落ちる音は前方から聞こえ続けている。つまり追う方向は間違っていないはずだが、このままでは逃げられてしまうかもしれない。


 それだけはあってはならない。

 リスクを冒してまで水無瀬飛鳥を襲ったのは《鬼憑き》を喰えば一年間は人を襲わなくて済むからだ。殺人を犯さなければ逃げ切れる確率も上がり、何より『人間』として生活できる。例えそれが指名手配犯として追われる立場だったとしても『鬼』として生活するよりよっぽど良い。


 わたしは、何としても『人間』に戻る。

 その為に《鬼憑き》を――水無瀬飛鳥を喰らう。

 だが、それも千隼から飛鳥の居場所を聞き出せなくては夢のまた夢だ。

 そもそも、千隼は何であんなに速く逃げられる。

 右脚は義足で、左脚もわたしが抉ったはずだ。

 どうかしてる。


「痛いでしょッ!! 苦しいでしょッ!! 諦めてよッ!! どうしてまだ頑張るのよッ!?」


 遠くから答える声。


「私には、少しMえむの気があるので」

「だから……その『エム』ってなんなのよッ!!」


 幸の声に応じるかのように、斜面を滑りる音がんだ。

 止まった? どこに隠れたの。

 幸は自身も足を止めて耳を澄ます。同時に《左腕の鬼肢》を構えた。

 これが最後のチャンスかもしれない。失敗できない。どうする。腕を長く伸ばし周囲を全て薙ぎ払うか、それとも指を無数に枝分かれさせて撃ち出すか、掌を巨大化させて上から押し潰すか。いや、どれにしても殺してしまう可能性がある。それでは意味がない。それに大雑把な攻撃は千隼にかわされる可能性がある。


 一瞬にして、一撃で、確実に仕留めるしかない。


 幸は《左腕の鬼肢》を五指を揃えた状態で前方へ伸ばす。そのまま全ての指を一体化させ細く長く伸ばし、先端から左右にかけてのラインを刃状に硬化させた。

 それは《鬼肢》で作ったレイピア。本物と違うのは、例え目標が数百メートル先に居ようともレーザーが如く一直線に、一瞬で伸び貫くこと。

 そして千隼を貫いた瞬間、切り裂くのではなく鞭のように身体へ巻きつかせるようイメージを固める。先ほどは勢い余って千隼の身体を食い破ってしまった。人間の身体が柔らかい事を忘れてはいけない。

 あとは、居場所さえ判れば。


「あ~……、Mの意味ですか?」


 来た。右前方。

 まだそちらに顔は向けない。居場所に気づいていないフリをする。

 さあ、もうひと声。


「つまり……飛鳥に蹴られると気持ち良いという事です」


 待ち望んだ千隼の声。

 声の方向を見た瞬間、幸は思わず口角を上げた。

 ――木の陰から、薄緑色の病院服の端が覗いている。


「このシスコンがッ!!」


 瞬時に《鬼肢》を伸ばし病院服を木の幹ごと貫いた。

 そのまま病院服に《鬼肢》を巻きつかせて幹へ拘束し――、気づく。

 その病院服には、肝心の中身がなかった。

 そして伸ばした《鬼肢》の先端に突き刺さる携帯電話。それは深山幸が《研究病院》に置き去りにしてきたはずのもの。何故か画面には『通話中』と表示されて、相手は『飛鳥ちゃん』となっていて、

 まさか今までの声は、


「ありがとう――」


 今度の声は、幸の足元から聞こえた。

 途端、幸の左側で落ち葉が噴き上がる。

 中から弾けるように飛び出して来たのは、ブラとショーツのみを身に纏った女。

 仏頂面の痴女。――水無瀬千隼。

 持っていた飛鳥の携帯を投げ捨てると、血まみれの左脚を軸に、幸のこめかみへ向けて義足による回し蹴りを放ってくる。

 その義足の先には《研究病院》で幸が使った果物ナイフがくくられていた。

《左腕の鬼肢》は木の幹に絡みついたまま。引き戻しても間に合わない。


 殺られた。

 ――もし、わたしが他の《鬼憑き》であったなら。


 深山幸の《鬼肢》は形状変化に秀でている。

 途端、《左腕の鬼肢》のひじから白い刃が突き出した。それはぜんわんこつの末端を刃に変えたもの。骨の刃は義足のくるぶしから先を切り落とす。間一髪――義足に括られたナイフは、幸のこめかみを浅く切り裂いただけに終わった。それも次の瞬間には再生を終える。


 千隼にもう武器はない。

 勝った。

 幸は地面に落ちていく義足とナイフを目で追いかけ確信した。

 故に、千隼が幸の足元に倒れ込んだのは左脚の痛みに耐えかねてのものだと思った。両手を地面に突き、身体を丸めたのは諦めたからだと信じた。


 そんなわけはないのに。


 妹の為ならば『鬼』にでも『悪魔』にでもなるのが水無瀬千隼だと、幸は理解していたはずだった。今日だけで何度『勝った』と思い、それをくつがえされてきたのか。

 それを忘れさせたのは、心のどこかにあった『もう楽になりたい』という気持ちなのだろう。諦めにも似た妥協を、幸は心に抱いていたのだ。


 気づいた時には、もう遅かった。


 不思議な事に、地面に両手を突いた千隼と目が合った。まるで逆立ちでもするかのように両脚を上に掲げている。見れば、くるぶしから先を切り落とされた義足のシャフトが幸の左眼を指していた。


「《シスコン》は――」


 義足の先端は、まるで杭のように鋭い。

 その瞬間、千隼の全身はシャフトを撃ち出す杭打ち機と化していた。


「――褒めコトバッ!!」


 叫びと共に、引き絞られていた千隼の身体が撃ち出される。

 充分な加速を得たシャフトは銀色の杭へと変貌を遂げ、銀色の杭は幸の眼鏡のレンズを突き割り、金色の左眼を潰し、がんの骨を折り抜き、その奧の脳髄をぐちゃぐちゃと掻き分けて、後頭部の頭蓋骨を叩き割って貫いた。


 無論、それを深山幸が知覚することはなかった。

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