繭子
泉るい
繭子
繭。これから生きていく為に、白く柔らかい殻に篭ってぬくぬくと今の生を持て余すもの。早く裂いて出て行けばいいのに、膜がわたしを守ってくれるのでついついその中で眠りつづけてしまう。わたしは、何となくではあるが、自分が子どものまま、繭の中で暖かい死骸になるのではないかと、そう思いながら生きている。
真由子(まゆこ)はその日、ドラッグストアにいた。いつもなら絶対に足を踏み入れない化粧品売り場に向かう。化粧っ気のない真由子だったが、さすがに今回はノーメイクで行くわけにはいかないと思ったのだ。そこで、ゴールドの筒から優美に表れた真っ赤な色に目が止まる。一本の口紅。ゴージャスな筒から出ている口紅の赤が、彼女には皆が目指すべき女の姿のように思えた。この色は艶やかな女の象徴だ。真由子は、何も考えず口紅だけを買い物カゴに入れた。
ドラッグストアの自動ドアから昼間の外に出ると、朝と同様の曇り空で、蒸し暑くはないが、すっきりしない秋の空だった。自転車の籠に荷物を入れた丁度その時、見覚えのある車がドラッグストアの前をゆっくりと通りすぎる。ホワイトのアウディのA3クラス、母の愛車と同じ車種。運転席にはしっかり化粧をした、サングラスをかけた少し歳の女性が。そしてその隣には女よりも若いスーツの男がいた。整った短い髪に、少し陽に焼けた茶色い肌の男だった。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
今朝、いつも通りに朝食を出し、いつも通りに母が仕事で家を出るのを見送った真由子の目には、車にいた母が急に狡猾な女に映って見える。父親と別れて何年にもなる母の恋路を思いがけず目撃した時の第一印象は、微笑ましいというより、薄暗さを持つ艶かしい、スキャンダラスなものに近かった。
真由子は車が通り過ぎたあとも、昼間の穏やかなドラッグストアの前で立ちつくした。若い男の隣にいた母の映像が自動的に何度も頭の中で繰り返される。
いま自分のレジ袋の中にある口紅の色と、母の口紅の色が似ている気がした。
壁にかけてある木で掘られたフクロウ型時計から、カッチカッチと時刻をいつも通り刻む音が部屋に響いた。
Gペンをインクに浸し、ゆっくりと鋭いペン先を登場させる。先ほどまで下書きのボヤけた線だった裸の男性が、輪郭、目、生え際の順番で次々と黒の一本線で洗練され、下書きの余計な部分を一瞬で削ぎ落として行く。真由子は原稿用紙を回しながら、次々と用紙にペン入れを続けた。逆さまに回したり、横に向けたり、原稿用紙に描かれた漫画の世界は真由子の手によってぐるぐると何度も回転される。鋭いペン先は男性の身体の乳輪の部分まで手を抜くことなく、くっきりと輪郭をつける。逞しい肩、美しい鎖骨、厚い胸筋、しなやかな太腿、黒く魅力的な陰毛、瞬き一つせず線を入れ続けた。
「ふぅ、」と、少しホッとしたようなため息を吐く。一枚の漫画の原稿が完成した。
フレームのない透明な眼鏡に、美容院に行くのが苦手で伸ばしっぱなしの黒髪を雑に一つにまとめ、前髪は視界の妨げにならないようにと、ヘアバンドをつけた真由子は、机の上に置かれた平面の世界を上から眺めながら、昼間の母を思い出し、ペンを置いた。
「あー…もー…」
手を止め、回転椅子を机から少し引き、椅子の背に全力でもたれかかると、顔に手をあてて作業を中断した。描けば描くほど虚しくなる。真由子が描いている漫画は、男子高校生二人の甘酸っぱいボーイズラブであった。頭の中では恋愛が入り乱れているにも関わらず自分はフリーターで、自宅住まいで、家とバイト先を往復する現実。
紙の中では恋愛に振り回されながらも最終的には幸せになるキャラクター達。頭の中と、現実との乖離がいま初めて苦痛を与えている。
「…好きなのに現実が邪魔する、」と真由子は不満そうに呟く。
「恋愛なんて生きてれば自然と出来ますよぉ」
先週、コンビニのバイト先の女子高校生が言った言葉が頭に響いた。
「そういうもんかな」
「だって人は恋愛する生き物ですもん」
恋愛なんて生きていれば自然と出来る、果たしてそうだろうか。犬なんかだとお互いの匂いを嗅いで雄も雌も許せばすぐに交尾という流れになるが、人間だとそういうわけにはいかない。自然に出来るとはそういう本能による行動のことを言うのだ。つまり、一般的には結婚の前に必ず恋愛があり、セックスの前にもどんな形であれ大体恋愛がある。真由子は、恋愛は人間にしか出来ないことなのだと思うと、それをしていない自分が人間から外れたような不思議な疎外感を持つ。
「…あいつはジョシコーコーセーだからそういうことが言えるんだ」
でも待てよ、と真由子は自分のジョシコーコーセーの時を思い出してみる。
高校生の頃の真由子は、頭の中だけで恋愛の洪水が起こっていた。恋愛の洪水とは、つまり妄想だ。
この時の妄想は男同士のものではなく、クラスメイトの男子と自分という少女の夢のつまった洪水だった。例えば、自分の前の席にいた素行が悪い男子生徒と自分がふとしたことで仲良くなり、授業中に小さな声で会話をしたり、男子生徒がボケ、真由子がツッコみを入れたりするという微笑ましい日常から、体育祭の時にスポーツ万能の男子生徒がサッカーゴールにシュートを決めた瞬間に、応援している女子の中から自分を見てウィンクしてくれるなどの妄想だ。現実はもちろんそんな事にはならない。
クラスの中で地味だった真由子は、自分から彼らに話しかけるようなことは一度もしなかった。クラスの生徒には階級があり、真由子は最初から自分と彼らとの恋愛など現実では全く無理なことだと決めつけていた。自分の恋愛感情よりも周りの空気を読むことを選んだのだ。
妄想は、真由子にとって恋愛だった。
見ているだけで良いという気持ちでは収まりがつかなくなった高校生の真由子は、そこで実際に行動するのではなく、自分の頭の中で恋愛をしていた。
チラリと卓上カレンダーを見る。今日から五日後の日にちに赤い星のシールが貼られていた。赤い星、それは真由子が初めて女性風俗というものを体験する日。その日のことを考えると、真由子はいつも少し心が軽くなった。
女性風俗なるものを知ったのは、例の同じバイト先の女子高生だ。
「てかぁ、女性用の風俗?ってのもあるらしいですよぉ」
「え、そんなのあるの?」
「なんかぁ、友達の彼氏が、年上で超イケメンな人だったんですけどぉ、どうやら女の人を相手にエッチする仕事をやってたんですって。風俗かよって話で、マジありえないですよね。さすがに超引きました」
手順は簡単だ。インターネットの検索欄に「女性向け 風俗」と検索して出てきたサイトを手始めにそこからネットサーフィンをしていく。手続きは全てメールで行い、日時と待ち合わせ場所も決まった。
ネット掲示板で、女性向け風俗について調べてみると、何も知らない相手と当日会うなんてやめた方がいいというコメントがちらほらあったが、出会うまでのこの非接触的なかたちが逆に真由子を積極的にした。
そして、真由子には誰にも言えない趣味がボーイズラブの他にもう一つある。
原稿を行う集中力が切れた真由子は、無心でインターネットの検索欄にてきとうなアダルト用語を打ち、エンターキーを押す。インターネットはアダルト動画サイトに繋がった。真由子はサイトに上がっている中途半端の長さの動画の再生ボタンをクリックすると、裸の女が整体師の男に卑猥なマッサージを受けている動画が再生された。
快感がどういうものなのか真由子は二十四年間生きてきて、知らない。
元々引っ込み自案の真由子の性格は、体感したいと思う感情からいつも遠い位置に立っていた。知ってみたいとは思う。だが、知るためには恋愛が必要だ。真由子はアダルトサイトで画面に映る人達を見て、そこからどういう風なのかを何となく掴む程度でいつも済み、自分で自分を愛撫することはしなかった。自分のものに直接触るのは何だか恥ずかしいし、怖かった。
そういうこともあり、視覚的に一つの情報として与えられる性を求めに行っているのが真由子の現状となっている。だから、女性風俗なるものに興味を持った。
真由子はたまに処女である自分を繭の中で眠る姿に例えた。閉じこもる性、狭い場所で眠り続ける自分、白い繭の中で肥え太っていく。
(…こうやって、どんどん繭の中で太っていくんだ)、と、内心で呟いた。
少し開けた窓から金木犀の甘い蜜のような匂いがほのかに入ってくる。真由子の部屋がある二階の窓から、家の前に植えてある金木犀の木の枝が近くで見える。インクを零したような真っ黒な夜空に、窓から漏れる部屋の白い蛍光灯の寒々しい明かりで金木犀が味気なく照らされた。
「ねぇー今回も乳首のトーン貼るのー」
「そりゃあ入れるわよ。グラデトーンね」
歩美は、ゆるく巻いてある髪を指に絡ませながら、だるそうな顔をした。
「いいじゃん。野郎の乳首なんてトーン無くても」
「乳首なんて、って言わないでよ。みんな濡場では意外とそこを見てるんだから」
歩美はため息をついて、真由子が描いた原稿を見る。白黒のため色は分からないが、おそらく金髪の男子高校生が、黒髪で眼鏡をかけた男子高校生の乳首を指で摘みあげている。
「ボーイズラブの世界は色々と細かいんですねぇ」と、歩美。
「そう言えば来月のコミケ、当日は売り子してくれるの?」
「出来るよーその日は撮影ないし」
歩美の言う「撮影」とはアダルトビデオの撮影である。真由子の妹である歩美は女優を志望していたが途中でAV女優に転身したのだ。勿論真由子はアダルトサイトの動画を見るのが趣味だが、妹のものは身内の気まずさから決して見ないようにしている。
「原稿を手伝う妹に感謝してよね。まぁ、お母さんが旅行中じゃなかったら絶対家に来ないけど」
歩美は都内にある自宅を出て一人暮らしをしていた。アダルト業界に転身してから妹と母は絶縁状態にある。
「ね、お母さん、家で歩美のことについてなんか言ってた?」
「あー!」
歩美の質問に、真由子が大きな声を被せた。
「歩美、違う! ここの乳首のトーンはグラデが一段階濃いトーンだって!」
真由子は原稿のあるコマを指差し、真由子が歩美の方を見た。
「え?」
「え? じゃない! 感じてる時の乳首は、最初のよりも濃いグラデのトーンにするんだって!」
真由子は額に手をあてて、「あーもう」と、呟き、もう何もかもが台無しと言った様子だ。
「そんなの教えてくれなきゃ分かるわけないでしょ。歩美は作家じゃないんだから」
「これ乳首攻めの本なんだからさぁ、」
真由子は乳首のトーンにかなりダメージを受けた様子である。それに対して歩美は、姉のこの落胆振りに少しムッとする。
「あ、ごめん、いま何か聞いた?」
「…別に、なにも」
歩美は不満気な顔で返す。
「…あ、そう」
二人の間に沈黙が流れると、歩美は、ふぅ、とわざとらしくため息をついた。
「もう歩美は他人って感じなのかなぁ」
歩美は腕を上にあげて伸びをした。服の上からDカップの胸が少しだけ上に釣り上がる。真由子は歩美の豊かな胸の大きさを綺麗だ、と思った。
「私みたいな出来損ないの娘を持って、お母さんも可哀想だよね」
皮肉と同情が混じった声色で歩美は呟く。
「…それは、私も」
真由子は大学を途中退学した身だった。女医である母が強く勧めた薬学部になんとか合格はしたものの、文系脳であった真由子は授業について行けず、一年留年したのち情けなく自主退学の道を選んだ。
姉妹は顔から表情を無くし、口を閉ざす。真由子は昼間に若い男を助手席に乗せていた母を思い出した。母はわたしの不甲斐なさについに希望を捨て、これからあの男を育てることに全力を尽くすかもしれない、と、若い男の面倒を見る母をぼんやり空想する。
部屋の金木犀の匂いだけが、甘く、幼かった。
真由子が松原聡(さとる)を見かけたのは近所のコンビニでのこと。松原とは中学の時に一度同じクラスになり、性格が明るい、おちゃらけた不良生徒だった。
深夜一時、原稿の作業中に小腹が空いたので、徒歩二分のコンビニへ行こうと手に財布だけを持ってこっそり家を出た。そのとき、コンビニの前にある駐車場の縁石に腰をかけて煙草をふかしている松原を見た。店内の蛍光灯の白い冷え冷えとした光が外の肌寒い夜をより寒くさせ、松原のふかしている煙草だけが熱を持っている。
真由子はすぐに彼が松原だと分かったが、当然声をかける気はなく、そのまま入ろうと視線を自然に松原から逸らした。
「北条だろ」
そのまま足を止めずに素知らぬ顔をして通り過ぎればよかった、と真由子は思わず足を止めてしまったことを後悔した。松原の髪は赤色。少し細いつり目は、鈍く光る中に鋭さを隠していた。蛇のような男だ。
赤い髪に蛇の目、この二つの要素だけで松原は他人を十分に威嚇出来る。
「中三の時に同じクラスだったろ」
松原の言葉には親和の気はなく、人を小馬鹿にしたような、ただの暇潰しに声をかけたこの地味な女がどんな反応をして自分の暇を楽しませてくれるかといった様子だ。そして、繭子はそれをすぐに感じ取った。
「松原君、」
「そう、それ。お前見た目全然変わんねぇな」
真由子は松原と決して親しい間柄でもなければ訳ありの関係でもない。真由子にとって松原は他人同様で、松原にとってもそれは同じである。
「なに? また変な漫画描いてんのか?」
ニヤニヤしながら松原が言い、語尾に「ハハハ、」とあざ笑う声をつける。真由子は、松原に対して随分暇な奴なんだな、と呆れた。
変な漫画というのは、真由子が描いている男同士の恋愛漫画のことだ。
中学三年生の六月に席替えで松原と隣の席になった。それは三限目の英語の時間。窓際の一番後ろの席だった真由子がノートに落書きをしていた。真由子は板書を取る気は一切なく、英語のノートに漫画を描いていた。ノートに描かれた世界に意識を傾け、ふと、前を向こうと顔を上げた時、右に松原の顔が見える。まだ黒い髪をしていたが右耳にピアスの小さな黒い穴が二つもあいていた。
「これ男同士?」
茶化した声音ではなく、素朴な疑問を口にした。教師は生徒に背を向けて黒板にチョークを走らせているため気付かない。松原は教師が黒板に長々と英文を書き始めるタイミングを見計らい、椅子を移動させて真由子のすぐ隣に来ていたのだ。
真由子は慌ててノートを教科書で隠した。自分の頭の中を見られた事が恥ずかしさは、恐怖と少し似ている。
「嫌、」
顔が火照るのを感じた真由子は俯いて、ただ「嫌」と言った。咄嗟に出た言葉だった。
「嫌なの、」
その後、教師が松原に気づき、注意をすると「さーせーん」と言って松原は自分の席に戻って行く。これが松原との最初で最後の会話となった。
「描いてるよ。たまにコミケで売る」
学校という拘束された場所にもう戻ることはないとなると、真由子は自然と松原に言葉を返せた。
「マジで? 描いてんの?」
松原は好奇の目を向ける。
「あ、俺、コミケって知ってる」
エヌエッチケーで特集してんの見たよ、と松原。真由子は松原がNHKを見ているという事に意外性を感じていると、松原は立ったままの真由子に「まぁ、座れば」と言って手招きをした。手招きをした指の間に煙草が挟まり、いびつな煙が静かな風に流されて行く。真由子は戸惑ったが、松原が「早く早く」と急かすので仕方なく松原の隣に腰を下ろす。
「中学の同級生に会うのって、この年だと滅多にないことだろ」
中学の時は殆ど会話をしなかった松原がいまこうして自然に話しかけてきたのが真由子には不思議で仕方なかった。だが、松原は確か気分屋で、よくケタケタ笑っているばかりで何も考えていないような男子だったことを思い出す。
「松原君は、ここでなにしてたの」
隣に腰をおろしたからには、何か話さねば、と真由子は障りの無いことを聞く。松原は煙草を口に入れ、ビニール袋の中から缶コーヒーを繭子に渡した。
「逃げてきた」
「なにから?」
赤い髪をした派手な男が、逃げてきたと言うのだ。取り立てに追われているのだろうかと、今度は真由子が好奇な目を松原に向ける。
「なにかな、色んなことから」
松原の耳には黒いリングのピアスが二つ右耳に揺れていた。
「色んなことって?」
「えー…彼女とか」
「…なんだ、」
「おいおい、なんだとは何だ」
真由子が落胆すると、松原は心外そうに言葉を返す。
「もっと人生とか、命に関わることだと思ったのに」
「いやぁ、まぁ、人生っちゃ人生かな」
松原は困ったように笑いながら、赤い髪を右手で掻いてから左手で鼻も描く。松原の鼻筋は通っていて、冷える深夜の空気におじけることなく凛々しく突き出ていた。
「子どもが出来たそうだ」
「え、」
なぜか真由子の方が戸惑ってしまった。てっきり彼女と喧嘩をした程度のことだと思っていたのだ。
「お、おめでとう」
「…ふん、」
皮肉交じりに松原は鼻を鳴らした。髑髏のシルバーリングをはめた彼の骨ばった指が煙草を地面に押し付ける。
「めでたくなんかねぇ」
松原は煙草を容赦なく地面に押し付け続けた。火はとっくに消えていたが松原は手から煙草を離さず地面に惨たらしく押し付ける。松原は無表情で煙草を地面に押しつけ続け、真由子はその光景から残虐さを何となく感じとった。真由子がへし折れた煙草からふと顔を上げると、真由子達より二歳ほど若い青年達二三人が雑談しながら車から降りてきた。青年達が赤い髪をした松原と地味な見た目の真由子の二人をちらりと見ると、松原はすぐに青年達を見返す。青年達はすぐに視線を逸らし、コンビニに入っていく。
「俺がさっき言ったことに怒らないの? 女はこういう事言うと怒るだろ」と松原。
「…わたしには分からないから」
素直に返事をすると、松原は「そうか、」とだけ返事をした。
「わたしは松原君よりずっとダメだよ」
恋愛をして、セックスをして、子どもが出来た。真由子は松原がこの三つのことを実際に体験していること、それ事態が単純に偉い、と思った。
「彼女と一緒に住んでるんだけど、帰りたくなくてよ」
松原は毎日誰かと一緒に過ごしている。元は他人で、血が繋がっていない知らない人と同じ部屋で暮らしている。松原の悩みが分からなかった。ただ、同い年の松原が真由子には生き生きとして見えた。誰かと愛し合い、生活し、悩む姿は生そのものである。
「北条は? 漫画以外で」
「わたし?」
「おぉ」
「わたしは、」
真由子は言葉に詰まる。松原の人生に比べたら自分など生きていないように思えてきた。惨めだ。
吐く息が白くなるにはまだ早い季節で、息は目には見えず、はぁ、と息を吐いた音だけが聞こえた。
「他には何も」
「ハッ、」
松原は鼻で笑うと、ポケットから二本めの煙草を取りだし、再び口に咥えた。松原の目は落ち着かず、黒目だけがチラチラと忙しなく動く。口からゆっくりと煙を吐き出す。目の動きだけが妙だった。
「北条が言いそうなことだなぁ」
煙草の匂いが真由子の鼻につく。何かを腐らせていくような匂いだった。
真由子は何となくではあるが、松原が、いつか生まれた赤ん坊を殺すのではないかという考えが一瞬頭を過った。
上村和人(かずと)が店長から連絡を受け取ったのは、朝、喫茶店で煙草を吹かしながら週刊誌のグラビアページを流し読みしているとき。スマートフォンの画面に店長からの着信があり、「久しぶりの客だぞ」と少し枯れた、凄みのある声音が聞こえた。
「あ、マジすか」
上村は雑誌を閉じて電話に集中した。上村は「はい、はい」と返事をしながら喫茶店の窓ガラスから外にいる人々をちらりと見る。茶髪のセミロングの髪を揺らしながら歩いている女性がすぐ横を通りすぎ、上村は自然とその女性を目で追いながら、
「あ、はい聞いてますよ」と、笑う。
「え、今日すか? は? いや、何でもっと早く連絡くれないんすか」
上村は薄ら笑いを浮かべた。
「いや、まぁ暇ですけどね。確かに俺は。…え?ハハハ、いや、あんた連絡してくんのギリギリすぎでしょ」
煙草の灰を灰皿に落としながら上村は乾いた笑いを零す。
「えーっと、じゃあ今日の三時に新宿の目、っすね」
紙ナプキンに場所と時間を書き、上村は通話を切る。今年で三十六歳になる上村の頭は茶色の短髪に、金髪のメッシュが所々入っている。太っているわけではないが、頬は少しふっくらし、鼻の下には黒い髭、首にはシルバーのネックレス。上村の目はこの時、ある種の光、例えば家族が公園で遊んでいる時の太陽の光や、その公園の美しい木漏れ日などは一切目に通さないような、薄暗さをしていた。上村が喫茶店で纏っていた雰囲気は、どこか暴力的で、不穏なものを漂わせている。
依頼者の年齢は二十四歳。上村は週刊誌のグラビアページを再びめくりながら、紙面の女の白い、上等な太ももを眺めた。
上村の仕事は見知らぬ女性と会い、ホテルに行き、女性に満足してもらえるよう真心込めてサービスをすることだ。
新宿の目。新宿西口をでて、高層ビル街に向かう地下通路の右側入口のところにある目だ。壁に張付いた大きな怪物のようなアクリル製の目のオブジェがある場所を、真由子は男との待ち合わせに指定した。
新宿の目の前に立ち、真由子は鞄から鏡を取り出して自分の顔を見る。化粧は歩美に教えてもらい、普段は手をつけない目もとまでメイクをした。ドラッグストアで買った真っ赤な口紅はつけていない。歩美曰く、その色はキツすぎて真由子には合わないらしい。
「マユコさん、っすか?」
サングラスをかけた男が覗き込むように自分を見て来たので真由子は驚いて思わず男と距離を取った。この男とは、上村である。
「は、はい」
「あっぶねぇ。間違えたかと思ったー」と、上村が大きな声で安堵した。
真由子は上村の姿を上から下までチェックをするかのように眺める。紳士的とは程遠く、優しい顔をした柔らかい物腰のホストとも違う。いい年して何をやってるんだという印象が強いが、真由子は我が身を振り返ると、人のことは言えないので上村を品定めするのを止めた。
「僕、依頼をお受けしたカズです」
上村が差し出した名刺を取ろうか躊躇ったが、男は引く様子がないので仕方なく受け取る。名刺には「女性風俗*ソフィア カズ」と書いてある。真由子は無言で会釈をした。
「てか、スタイルいいですよね」
「え、いやいや、そんなことは…」
褒められ慣れていない真由子は気まずそうに返す。
「ほんとに、ほんとに私そんなことないので」
「…あ、はぁ」
照れているのではなく、念を押すように真由子が否定をするので、上村もそれ以上この話題で場を盛り上げようとはしなかった。二人の間に気まずい間が流れる。
月曜の午後三時。まだ帰宅ラッシュの時刻ではないが、真由子と上村の前を通りすぎる人は絶えない。コンクリートを歩く無数の靴の音、ヒールの高い音が二人の間を埋めた。真由子は家の金木犀を思い出して、同じ東京でも新宿駅の近くはこんなに違うのか、と驚いた。
この街に季節などない。
「じゃあ、ずっと立っててもアレなんで、行きますか」
真由子は顔を上げて上村を見る。上村と目が合い、無言で頷いた。
上村は真由子の手を握った。エネルギーに満ち溢れた新宿の目の前から、二人は足早に立ち去る。
上村は優しく誘導するように歩き、歌舞伎町一番街を北に進む。歌舞伎町を歩いたことがない真由子には看板の一つ一つが新鮮で目を引いた。「のぞきクラブ」、「テレクラ」、「ファッションヘルス」。真由子はそれらの古ぼけた看板を興味深そうに眺めながら歩く。
「あんま、こういうとこ来ないですか」
「…あ、はい」
小さく返す真由子に上村は「ですよね、」と言い、それで会話は途切れた。日の下の歓楽街はどこかあっけらかんとしていて、真由子はまだ街が眠っているような印象を受けた。
「ここです」と、言って上村は手を離した。
外見は少し古いビジネスホテルと変わらない。ラブホテルと聞くと、もっと派手な装飾をした建物だと思っていた真由子は、目の前のこじんまりとしたホテルに拍子抜けをした。
「じゃあ、…」と上村が言う。
シャワーの水圧が肌を刺した。真由子は手に泡立つボディソープを大量に取り、素早く尻の割れ目に後ろから手を入れて念入りに洗うと、下着をつけずバスローブを身につけてドアを開けた。
上村はダブルベッドで胡座をかきながら煙草を吹かしている。部屋の窓には重たそうなカーテンが窓を隠し、天井に取り付けられた楕円形の照明が部屋を明るく照らしていた。真由子は自分がどこに座るのが自然か分からず、とりあえずソファに腰を降ろそうとすると、上村が手招きをする。
「希望はありますか? クンニ、潮吹き、ソフトSM、バイブ、」と、上村が思い出しながら候補を上げて行くのを真由子は黙って聞いていた。
「えーっと、あとは、」
「…あの、本番は、」
「え?」
「本番は、あの、メニューにないのでしょうか」
普通に質問したかったが、「本番は」と聞いた真由子の声は変に力んだ。この問いに上村は「あー…うち本番はちょっと、やってないんすよね」と渋い顔をする。真由子は急に身体の力が抜けて、そうですか、と落ちた声で俯いた。上村は、バスローブ一枚で自分と一定の距離を取り、正座をしている真由子をしげしげと眺める。
「あのー、…ほんとに大丈夫ですか」
「…え、」
「いや、風俗って、スケベな人が利用するもんなんですよ」
上村は囁く。
「あなたを見てると、なんかちょっと違うような気がして、」
無理しない方がいいですよ、と上村は言う。
「女性向けなんで、中には心を満たしてあげたい的なのもありますけど。でも基本的に、こういうのってなんだかんだ言ってスケベな女性が来るんです」
真由子は俯いたまま、右手で左腕を触った。
「どうしますか」
上村が真由子に問う。何事も事前に確認するに越したことは無いのだ。
「…わたし、処女なんです」
「は?」
「だから、その、気持ち良いとかが、その、分からなくて」
上村は真由子が処女と聞いて目を丸くしたが、すぐにいつもの一定の暗さをもつ眼差しに変わった。
「でも、そういうことに実はすごく興味はあって、でも恋愛はしたくないっていうか、たぶんもう出来なくて。だから、その、あなたに会ったんです」
言葉が少し震えた。気丈に話そうと思えば思うほど震えは目立つ。上村は正直に話す真由子をじっと見た。
自分の告白に対する相手の沈黙が怖くなり、真由子の口が自然と動く。
「…ア、アダルトサイトで動画とか、ネットでよく見てたりしてるんです。中には飛んじゃう人もいて、でもそれ位何も考えられなくなるのって、すごく素敵なことだなって、」
画面の女達が自分から解放されている瞬間、快楽だけを得ている時の表情、頭じゃなく、身体で感じるもの。それは常に距離を取りたい真由子にとって遠い願望だった。
ここまで話すと、真由子は自嘲気味に小さく笑う。
「…い、痛いですよね、恋愛は嫌だけどこういう事はしてみたいって。ほんと、喪女っていうか」
「…も?」
喪女の言葉の意味が分からず、思わず聞き返した上村に真由子は「あ、いえ、いいんです」と言う。上村は頭を掻いて真由子を見た。
「マユコさんはスケベになりたいんですか?」
上村の暗い目が真由子を見る。ベッドでの上村と真由子の物理的な距離が開くのが縮まるのか、この質問の答えにかかっている。
開くのか縮まるのか。
真由子はいつも見ているばかりだった。母と若い男の恋愛を目撃し、松原の人生にのし掛かる苦悩を目の当たりにし、歩美のしている仕事については、あまり踏み込まない。古い電柱についている、街路灯の細やかで、今にも消えてしまいそうな灯りの元にいる彼らを、真由子はその灯りの外れた暗闇から見ているだけだった。
「なりたい」
真由子は言った。
「スケベになりたいんです、わたし」
そう口にすると、心は軽くなり、目が煌めいた。
「じゃあ、シャワー浴びて来ます」
上村は無表情で言い、ベッドから降りる。
誰もいなくなったベッドに真由子は一人座り、部屋の照明を今より暗くならないかと照明のボタンを探し、枕もとに並んでいるボタンを手っ取り早く順番に押してみた。一つのボタンを押すと、どこにスピーカーがあるのか、部屋全体に小さな音でクラッシック音楽がかかる。真由子は一瞬ギョッとしたが、小さな音で流れるクラシック音楽を聴いていると子どもの頃に連れて行かれた、母が勤める内科病院の待合い室を何となく思い出す。
聞いたことのない曲だった。元々クラシック音楽とは縁がない真由子だが、いま部屋に流れる曲はコマーシャルやドラマの挿入歌としても耳にしたことがない。
ハープと弦楽器のみで演奏される、静寂感に満ちた美しい曲だ。誰かの葬列を思わせるような孤独と、深い悲しみが徐々に晴れて行くような牧歌的な素朴さも含んでいる。
真由子は雄大な音楽を聞くうちに気持ちが落ち着き、バスローブを脱ぐ。裸のままシーツに横になるのは心地よかった。音楽を聴きながら横になっていると、部屋の電気のトーンが落ち、ベッドの隣にあるスタンドランプの柔らかな灯が一番明るい光となる。真由子は部屋の照明が勝手に落とされたことから上村がシャワーから戻って来たことを知った。上村は腰にバスタオルを巻き、上は裸の姿でベッドの上に乗る。
上村が動くたびにシーツが擦れる音が聞こえ、真由子には所作の音が妙に耳に響く。上村の指が頬に触れた時、音楽はハープの優雅で、柔らかな音色が鳴る。
「しゃぶって」
指が頬を撫で、顎に触れ、上村は人差指と中指をぴたりと合わせ、真由子の口の中に自分の指を入れた。
口の中に男の厚い皮膚の指が入り、真由子は表情を強張らせる。
「舐めて」
上村はそう言いながら乳頭を舌で柔らかく突く。
「んっ、」
小さな刺激を受けた真由子は上ずった声をあげる。スタンドランプに照らされた身体は、身体の線をぼかし、白く見せた。上村は乳頭を舐め、繭子の口から指を抜くと唾液がついたままの手で乳房を両手で大きく揉んだ。
真由子は触覚だけを感じようと目を閉じた。暗闇の中で美しく悲しい音楽が流れ、身体は敏感に小さく反応する。
目を閉じたまま足を閉じようとしたが、上村は繭子の股の間で両足を掴み、自分の肩に乗せる。真由子の瞼は恥で閉じられたまま小さく震えていた。上村は真顔で言う。
「濡れてるよ」
足を強制的に開かれた時、真由子は自分の内に今まで潜んでいた熱いものがじわりじわりと漏れたのを感じた。まるで強引に開かれるのを待っていたと言わんばかりに、開脚した途端、下半身がキュン、締まる感覚を受けた。
「ひくついてる」
上村はまるで観察するかのように感情なく言うと、真由子の股に顔をつける。少し湿気を帯びた彼女の黒い陰毛が上村の鼻の頭に触れ、上村は舌で陰部を舐めながら指で陰毛をなぞった。
音楽は、静寂なものから悲痛さだけが美しく突出した、強い悲鳴に変わる。
「あっ、」
自分からこんな声が出るとは思わなかった。いつもアダルトサイトで見ている女達の声と少しも違わない。繭子は、母も妹も、みんなこの声を出しているのかとぼんやり思う。
上村は顔を上げて真由子を見た。胸が呼吸で上下し、黒目が潤んでいる。上村は淫らな処女の陰部に中指を挿入すると身体は分かりやすく反応する。
「早くスケベになっちゃえよ」
上村の声は、身体が熱い真由子に冷たく響く。その冷たさが丁度良かった。身体はぽわっとするほど熱いのに、上村が何か口にするたび足先が冷えていく。
クラシック音楽は同じ曲が繰り返し、繰り返し流れている。真由子は全身で感じた。自分から何が出ようと、恥ずかしくはないと思った。どんなものでも上村なら無関心に対処してくれるに違いないのだ。上村の冷たい無関心が不思議と真由子を楽にした。
それから体位を変えても上村の指は真由子の陰部を刺激し続けた。真由子は騎乗位の体勢から、大声で喘いだ。今までの鬱屈を全て晴らすかのように。自分の中の停滞している、怠けて身動きが出来ず固まっていた薄汚れた透明なものを吐き出すかのように。
「あぁっ、!」
今頃母は、妹は、松原は、どうしているだろう。
母は仕事中で、診察の合間に若い男とメールのやり取りをしているかもしれない。
妹はもう、家に帰ってこないのかもしれない。
松原は、子どもを堕ろせと彼女に話したのだろうか。
馬鹿みたいに綺麗で、笑ってしまうくらい可愛い頭の中の男子高校生達。
「ぁああああああ!」
なぜか鼻先がツンとなる。涙が出る予兆だった。漠然と何もかもが寂しいと感じ、そう思ってしまう自分はまだ子どもなのかもしれない、と真由子は思った。
涙が頬に垂れた瞬間、上村が気付いて涙をすぐに舐めた。
部屋に流れていたクラシック音楽は止まりテレビがついている。テレビの雑音がこの空間を日常へと戻した。
目を開けると、上村の顔がすぐ近くにあり、真由子は驚いて目を丸くした。上村も真由子も裸のまま一つのベッドの中にいる。
「わっ、」
「あ、起きた」
「…え、わたし、あのどれくらい眠ってましたか」
真由子はベットの横のカーペットに落ちていたバスローブを慌てて着た。
「いや、そんなにすぐ隠さなくても」
上村は少し笑いながら言う。
財布から三万円を取り出して上村に渡すと、上村は真由子の顔を興味深そうに見てから、どうも、と言う。上村が黒い革の折り畳み財布を開いた時、白いカードが真由子の足元に落ちた。免許証である。真由子は自然に広いあげ、上村に渡した。
「ありがとうございます」
男は形式だけのお礼を言い、免許証を受け取る時に真由子の顔をまじまじと見た。
免許証に記載してある、上村という苗字が真由子の視界に入る。
「わたしの顔、なにかついてますか…」
「いや、」
「…はぁ」
「俺と同じ目してますよ」
真由子はこの言葉に恍惚とした。上村に認められたような気持ちになったのである。そして、真由子は最初から最後まで心が通い合うことの無かった男と別れ、ホテルを出た。
出ると、歌舞伎町のネオン街だった。ホテルに入る前は錆びた印象だった歓楽街は仮の姿で、今はどの看板もどぎつく光り、黒い夜空をいやらしい電燈で彩っている。真由子の耳にはホテルで聞いたクラシック音楽がずっと残っていた。
ホテルから一人で出てきた真由子を見た酔っ払いが口笛を吹く。キャッチの男が派手なメイクをした若い女性を呼び止め、饅頭のような顔の形の中年のサラリーマンが桃色の顔をして、下品に笑っている。
真由子は歩いた。
歓楽街の汚いコンクリートを。
季節のない雑踏の街を。
壁にかけてある木で掘られたフクロウ型時計から、カッチカッチと時刻をいつも通り刻む音が部屋に響いた。
ペン先が下書きの男の裸体をなぞる。真由子は自分で書いた線をなぞりながら、上村の身体を思い出した。自分の漫画の男のように腹筋が割れているわけでも、鎖骨が美しいわけでもなかったが、腕は太くて逞しく、右腕に、赤い趣味の悪い厳ついハートの刺青があった。
深夜番組で見た、刺青は青色よりも赤色の方が肌に馴染みにくいため、入れる時に痛みが強いということを思い出し、真由子は今頃になって上村の右腕にうっとりする。
回転椅子に座ったまま手を躊躇いがちにスウェットのズボンの中に入れる。自分の下着の上から性器をそっと撫でた。はぁ、と熱い吐息が漏れる。頭を机の上に乗せ、唇が感じるたびに閉じられ、「ん、」という小さく幼い声が出た。片方の手はスウェットの中に、もう片方の手は机上にある。
身体が小さく反応した時、机上にあった手が動き、インクが横に倒れた。裸の男達が絡み合っている美しい世界は、有無を言わせぬ黒で消されて行く。真由子はそれを気にも止めず、じれったくなったのか、回転椅子から降り、床に仰向けに横になった。なりながら手を動かし続けた。
「俺と同じ目してますよ」
その言葉がなぜか忘れられなかった。「…俺と同じ、」と真由子は呟く。
ホテルで上村はいかなかった。いったのは真由子だけである。真由子は、上村がいく時はどんな顔をするのだろうと妄想をしながら股の間にある指を動かした。
情けない声を出すのだろうか。それとも男性特有の声にならない吐息なのか。真由子はどれも違う気がした。見たい。上村のいく時の顔が見てみたい。興味がむくむく沸くと同時に身体が熱くなった。
カズだ、
真由子は直感した。わたしにはカズしかいない。妄想だけでは満たされない身体にしたのは彼なのだ。
湿気をおびた息を吐き、眉を微妙に引きつらせ、部屋の白い蛍光灯が真由子の全身を隈なく照らす。真由子は上村の熱のない言葉と暗い目を思いだす。
「はぁ、はぁ、…はっ、」
真由子と上村の間には物語が足りなかった。恋愛という物語だ。
母や松原がしている恋愛が二人にはない。真由子は素直に女性の性欲だけを上村にさらけ出し、上村はそれに冷静に応えた。
サイトからメールを送ればまた上村に客として会える。次に会うときは赤い口紅をして行こう、と真由子は決めた。
自分が上村とこれからどうなるのか、どうなりたいのか真由子には想像がつかない。恋愛が抜けている二人から生まれてくるのは一体どんなものか、真由子には分からない。
真由子は手を止めて、最後に、はぁ、と熱っぽく気だるい女の息を漏らした。
眠り続けていた繭が裂けた。母の口紅と、松原の髪色と、上村のハートの刺青。白い繭に一筋、血が流れる。
その血は、彼らの色だ。
繭子 泉るい @izumirui
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