最終話;宿命
「母さん!!」
吉田は溜まらずそう叫び、母親の下に駆けつけた。
血に染まった右手で吉田の顔に触れる母親の体は震えていた。
「優二…。」
吉田の左頬は彼女の血で真っ赤に染まり、母親は悲しそうな、しかし、穏やかな表情を浮かべた。
その時、佐藤は家の固定電話を探していた。
「ご免なさい…。あなたを巻き込んでしまうとは思ってなかった。雄一がくれた手紙を読んで、あなたの存在を知ったわ。まさか、あなたがあの町に住んでいたなんて…思ってもみなかった…。」
「…母さん……。」
「優二…。ご免なさい…。あなたは、どうか生き続けて…。あなたは、私の復讐とは関係ない人生を歩んで…。あなたは…私を母さんと呼んではいけない…。」
「…………。」
「私はあなたの中に、私の鬼を移す気はなかったの……。」
「…………!」
吉田はその言葉に、孤児になった理由を知った。
「吉田君!急いでお母さんを車に運ぶぞ!」
固定電話がない事に気付いた佐藤は2人の下に駆けつけ、母親を病院に搬送しようとした。
「刑事さん…。私は、助かるつもりはありません…。迷惑を掛けて、本当に済みませんでした。」
母親はそこまで伝えると、もう1度形相を変えた。
腹の傷が痛むのか、男達の事を思い出したのかその形相は、正しく鬼だった。
「それでも私は、男達を殺した事を間違いだとは思っていない!私が鬼なら、奴らは悪魔だった!この世に居てはいけない存在だった!!」
「……。」
「だから私は!奴らが…私の中に植え付けた命を…雄一を!悪魔と鬼の子として育てた!奴らよりも強く!奴らよりも残忍な者に…育てた!」
佐藤は、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
佐藤が動かないのを確認すると、母親はもう1度表情を変え、今度は優しい表情を作った。
「優二…。あなたの、今の名前は……?」
「……吉田…吉田一哉です。」
「そう…良い名前ね…?あなたはこれからも、一哉として生きて頂戴。あなたは、あなたに与えられた人生を歩んで…。決して私や雄一のように、鬼を背負わないで……。」
「…………。」
「ご免なさい…。鬼となった私はあなたに、母親として何もしてあげられなかった。だからせめて…誰かの手で、普通の人として育って欲しかったの…。」
「!?……母さん……!」
母親は気を失い、吉田の頬に当てていた手は床に落ちた。
「母さん!」
「一哉君!急いで車に運ぼう。まだ間に合う!」
「!!?」
吉田はこの時、母親が命を落としたと勘違いした。
しかし人は、腹を切ったぐらいで即死はしない。出血が酷いので気を失っただけだと、佐藤は母親を持ち上げ、車へと移動しようとした。
「…………。」
「何をしている!?急ぐんだ!」
呆然として動かない吉田を大声で急き立て、佐藤は急いで車に向かった。吉田と母親を後部席に乗せ、吉田には、彼女の腹を押さえるように指示した。そして、電話の電波が繋がる場所を探した。
「くそ!アンテナが立たない!」
「母さん!しっかりして!」
佐藤は急いで車を走らせ、吉田は必死に母親に語り掛けた。
村の入り口まで来たところで電話がやっと繋がり、佐藤は救急番号へ連絡を取った。
しかし集落の地理感がない佐藤は、誤った行動を執った。病院は村の中心から見て、向った場所とは逆の方向に存在していた。
佐藤は病院と連絡を取り合い、先程訪れた神社の入り口で落ち合う事にした。
彼女が腹を刺してから、既に20分が経過していた。
「母さん……。母さん!!」
吉田は彼女に声を掛け続けながら、その手が冷たくなって行く事に気付いていた。
10分もしない内に神社に到着したが、救急車はまだ来ない。2人は母親を車の外に出し、いつでも搬送出来る準備をした。
「急いで、この人を病院に搬送してくれ!自ら腹を刃物で突き刺した!」
救急隊が到着するなり佐藤は彼らに指示をし、吉田と共に母親を救急車へと運んだ。
吉田はそのまま救急車に乗って病院に向かい、佐藤は1人で救急車の後を追う事にした。
無事、病院に到着した2台の車だったが、母親は既に手遅れだった。吉田は何度も彼女の事を呼んでみたが何の反応もなく、病院に到着する直前に、救急車の中で母親の死亡を確認させられた。
「………。」
病院の外で呆然とする吉田の側には佐藤がいた。だが彼も、吉田に励ましの言葉も掛けられず、ただただ呆然としていた。
佐藤は考えた。こんなはずではなかったと…。
「母は…20年前に男達に辱められた…。そして、僕と兄さんが生まれたんですね…?」
日も暮れ始めた頃に、吉田がやっと重い口を開いた。そこから出た言葉に佐藤は、先ほど以上に肩が重くなった。
「…そうだ……。」
「警察は、この事を知っていたんですか…?」
「……。」
吉田は佐藤の顔を伺った。
佐藤は吉田の顔を見返し、悲しい顔をしていた。
「あくまで…推理の範囲でそう考えていた。それを確認する為に、ここへ来たんだ。」
「…そうですか……。」
「……。」
吉田は下を向き、また黙り込んでしまった。
『プルルルッ!プルルルッ!』
佐藤の携帯電話が鳴った。安田からだ。
「母親の身元が分かった。」
佐藤は病院に到着した後、全ての事情を安田に伝えていた。
安田は近所の警察の協力を得て、母親の素性などを調べた。
「戸籍を調べたが…残念ながら子供は、1人として存在していない。また…当然かも知れないが、結婚して籍を移した過去もなく、両親の戸籍に残っていた。吉田は勿論、犯人である雄一も……戸籍がない人間だ。」
「…そうですか……。」
「吉田は、全てを知ったのか?」
「………。母親の話を聞いただけでも、状況は把握出来ました。」
「そうか…。彼は、全ての事を知ってしまったんだな?」
「………はい……。」
「そうか…。辛いかも知れんが、彼の側にいてやれ。」
「……了解しました。…勝手な行動を執って、本当に済みませんでした。」
「……。」
佐藤は、吉田をここに連れて来た事を後悔していた。
「??ところで、吉田は何処にいる?」
「病院の外にあるベンチで、頭を冷やしています。」
「何!?早く戻ってやれ!彼を1人にすると、何を仕出かすか分からんぞ!」
「!!」
安田の言葉に佐藤は焦った。吉田の下を離れるべきではなかった。
(一哉君……!)
佐藤は電話を切り、全速力で吉田がいるベンチへと向った。
「一哉君!」
ベンチに戻ると、吉田は先程と同じ体勢で座っていた。佐藤が戻って来た事も知らず、ただ呆然と空を仰ぎ、顔には一切の表情がなかった。
それから1年後…。
町は平穏を取り戻し、連続殺人事件の恐怖も記憶から消え去ろうとしていた。
警察署はいつものように忙しく、佐藤と安田は、この日も凶悪事件の調査に向っていた。
「…もしもし?佐藤ですが?」
車で昼食を取っていた佐藤の携帯電話に、一通の電話が掛かって来た。
「あっ、佐藤さんですか?お久し振りです。」
「……一哉君か……。」
電話の主は吉田だった。
「仕事は上手く行ってるかな?大切なのは、周囲との人間関係だよ?」
「ははは。仕事も人間関係も順調です。深川さんも優しい人ですし、この施設にいる子供達は、皆、素直で良い子ばかりです。」
「……それは何よりだね。」
吉田は見事に立ち直り、深川が園長を務める施設で勤務を始めた。
努め始めて1ヶ月が経過しており、覚える事が多くて余裕がなかった吉田だが、最近は少しの余裕が出来たので、久し振りに佐藤へ電話を掛けたのだ。
2人は、少しの間会話を交わすと笑顔で電話を切り、仕事に戻った。
「…お前、彼と連絡を取っているのか?」
安田が電話相手に気付き、佐藤に尋ねる。
「ええ。事件が全ての決着を見せた後、彼の方から連絡がありまして…。」
「……そうか……。」
「彼は、本当に強い人です。あれほどの悲劇を体験したのに見事に立ち上がって、今は、彼の人生を正しく歩んでいます。」
「…………。」
吉田は母親を失ったあの日、佐藤と共に病院に戻り、数週間の養生をした。その間も、佐藤は暇を見つけては彼の下を訪れた。
その後の彼を心配した佐藤だったが、予想を裏切り、吉田は回復の一途を辿った。
担当医が面会に問題はないと判断した頃、彼らは長話をした。
『佐藤さん。僕はこのまま…吉田一哉として生きて行こうと思います。』
『………?』
『本当の名前が宮元優二だと分かった時、僕は迷いました…。果たして僕は…誰なのか?って…。』
『………。』
『でも分かったんです。あの時、母さんが話してくれました。だから僕は、吉田一哉のまま生きて行こうと思います。』
『………。』
『この名前は、僕を育ててくれた両親ではなく、本当の母さんが付けてくれた名前なんだって…それが分かりました。僕を育ててくれた両親には、恩を感じています。本当の父さんと母さんだと思っています。でも、僕が吉田の家で養子として育てられたのは…全て、本当の母さんが望んだ事だったんです。』
『……。』
『兄には、与えられた宿命がありました。彼はそれから逃げる事もなく、また、逃げる事も出来ずに命を落としました。兄に対しては……今でも残念な気持ちでいっぱいです。だけど僕には!僕にも…与えられた宿命があるって気付いたんです!だから僕は、吉田一哉のまま生きて行きます。これが…母さんが願った僕の人生なんだって、今はそう思えるんです。』
『………そうか……。』
『………はい!』
自分の事を伝えた吉田の表情は明るかった。全てを悟り、全てを受け入れた表情を見せていた。
「宿命か……。」
安田は昼食を取りながら、佐藤の話を聞いていた。
「施設で勤務した事も…宿命だったのか…?」
そして安田は人間の、奇妙な因果や巡り合わせを考えた。吉田は、彼が1歳の頃まで預けられていた施設に就職したのだ。
「彼なら……きっと良い保育士になるんだろうな…。」
「??」
「誰よりも、家族の悲しみを知っている。お前が言うように、彼は強いんだろう…。」
「……ええ。きっと彼は、良い保育士になるでしょう。」
「…………。」
20年後…。
佐藤は、取調室で事情聴取を行っていた。
「何故…一体どうして君が…罪を犯した!?」
「…………。」
「どうしてなんだ!!?」
取調室の窓の向こうでは、ベテランながらも現場で活躍する安田と、若手の刑事が2人の様子を見ていた。
「つまり…あの容疑者が犯人で間違いないんだな?」
「絶叫が聞こえ、通報が入りました。急いで現場に向かうと、泣き崩れた容疑者の姿があり、真っ赤に染まった手には…凶器である刃物が握られていました。」
「被害者は若い男女。…アベックだったのか?」
「それはまだ分かりません。ただ女性には…性的暴行が加えられた痕跡があります。」
「つまり…被害者の男が暴行したか……容疑者が男を殺した後、女性に暴行を加えたのか……。……まだ分からないのか?」
「死体は解剖中です。それが終われば結果が分かるはずです。」
「………。そうか…。」
若い刑事の報告を聞き、安田は窓越しに容疑者を睨んだ。だが、何故か目は悲しそうな目をしていた。
「………。全ては…宿命のせいですよ…。人間は与えられた宿命から…逃れる事なんて出来ないんです……。」
安田と佐藤に睨まれた容疑者は、小さな声でそう呟いた。
宿命、完
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