アジアの辺境で愛を叫ぶ(仮)

@ma_yoshikawa

第1話

    今までにこんな愛され方をしたことがあっただろうか....?


 朝起きて仕事に行く前に彼女にメールを打つ、仕事が終わればまたメールを打つ。メールの終わりには決まって「I love U.」か「I miss U.」の文字。その後、うっかりして何も言わないでいると....「何でメールくれないの?!」と怒られる。夜中の3時半頃になると毎日のように携帯が鳴る。眠さに負けてぞんざいに相手をしていると、また怒られる。電話を切る際にこちらが黙っていると「I love U. は?」と催促をされる。

 仕事を終えて飲みに行くと、また携帯が鳴る。「どこにいる?!」


 どうやら彼女は俺がどこで何をしているか、全てを把握していないと気が済まないらしい。


 俺は芸術家の端くれを自負している。芸術家たるもの自由人であるべきで、誰かに束縛されるなんぞ、もっての外だと考えていた。そんな俺がこんな事になるなんて。しかし不思議なことに、それを心地よく感じている自分に気付き始めている。


      俺はもう日本人は愛せないかもしれない....。


                 *


 元来、俺の神経はtoughな方ではない。今の仕事も果たして向いているか怪しいものだ。俺はコンピュータのプログラムを書いて飯を食っている。ガキの頃は絵描きになりたかった。しかし、才能がないことに気付き、あきらめた。学生時代に友人から「おまえ、コンピュータやれへんか?」と言われ、「せやな、コンピュータなら今後、食いっぱぐれることはないやろ。空いた時間に絵を描いとったらええわ。」と思い、安易に選んだ道だ。天職な訳がない。(さっき、芸術家の端くれといったのは趣味ではあるが絵を描き続けているからだ。)

 それでもこの20年近く、この仕事を続けてきた。自分の責任は果たそうと、お客の要求に応えるべく、良い製品を世に出そうと努力してきたはずだった。しかし、数年ほど前にそんな情熱もどこかへ消え失せてしまっていることをふっと自覚したのだった。それから苦痛がはじまった。


 ひとつの製品を世に送り出すのは並大抵のことではない。人手不足、予算不足からプロジェクトメンバーは毎日何時間もの残業をしなければならないほどの仕事量を抱え込む。そして、発売日までの時間との戦いを余儀なくされる。もちろん最初にスケジュールを組むが、我々がプロジェクトをスタートさせる頃には発売日が決まっていて、既にスケジュールに無理があることが多い、おまけにプロジェクトの途中では予想外のアクシデントがまるで地雷のようにそこら中で待ち受けている。こんな状態でまともに仕事が進むわけがない。

 3年ほど前にあるプロジェクトの話が持ち上がった。当時、手の空いている要員がいなかったため、無理を承知で中途採用を2名補充し、頭数だけをそろえて、そのプロジェクトを強引にスタートさせた。俺が重要な部分を作れば何とかなるだろうと安易に考えて。ところがそれがいけなかった。

 プロジェクトが進むに連れて日に日に増えるプログラムの変更依頼、動かないメカ、そして動かないプログラム。もともと情熱の消え失せていた俺の心は追いつめられ、ついには現実逃避を始めた。


 「あぁ、死んでしまえば楽になるな....。」


 はてさて、これが世間で今話題になっている「うつ」って奴か?


                 *


 俺はもう世間で言うところの中年である。(本人はあまり自覚していないが、そうなのだ。)おまけに妻もいれば子供も二人いる。ごく普通の平和な中年親父である。ところが俺の心が現実から逃げ始めたのは実はここにも原因がある。


 妻と知り合ったのは俺が二十歳そこそこの頃だった。彼女には友人も多く、両親と一緒に暮らしているにもかかわらず、家に帰らないことはしょっちゅうだった。もしかするとプチ家出のパイオニアかもしれない。そしてそれは俺とつきあい始めてからも変わらなかった。

 今にして思えば、彼女も心の中の満たされない何かを埋めようとしていたのかもしれない。しかし、二十歳そこそこの若造の俺にそんなことが理解できようはずがない。

 自分とつきあっている女が今どこで、誰と何をしているのかわからない。かと思うと、気まぐれに俺のところに転がり込んでくる。朝、仕事に出かけるときに小田急線から窓の外を眺めていると線路脇に彼女の車が停まっている。「アイツ、またどっかに泊まったな。」俺の心は嫉妬で狂いそうだった。そんな状態が続けば誰でもおかしくなるかもしれない。さらに俺はそんな状態を彼女に悟られるのを極度に嫌った。俺は常に平静を装った。完璧だったと思う。自慢ではないが、いつだったか妻が俺にこんな事を言ったことがある。「たまには嫉妬して欲しかった。」と。もしかしたら、俺は役者になれるかもしれない。(^^;)


 しかし、外見はごまかせても俺の心の中はぐちゃぐちゃである。あるとき何かをきっかけに俺は手首を切ろうとした。一度目の自殺未遂である。

 もともと何か上手くいかないことがあると、しばらくは我慢するが、我慢の限界を超えたときに今まで築いてきたものも含めて全てをぶち壊すところがある。あのときはぶち壊す対象が自分だった。まぁ、できなかったから今こんな事を書いているんだけど。


 その後も彼女との妙なつきあい方は続き、長男ができたことで結婚と相成った。


 おそらく俺は彼女を愛していたんだろう。

        では、今はどうだ?

              彼女は俺をどう思っていたのだ?

                       そして今はどうだ?


 あれから十数年、妻との結婚生活は今も続いている。途中5年ほど別居し、お互いに満たされない何かを感じながら、それでもなぜか続いている。

 妻にしてみれば、今更別れて子連れで生きてゆくことを考えれば、多少のことは我慢して続けていた方が良いという判断かもしれない。では、俺の方はどうか?おそらく妻に惚れていたんだと思う。しかし、愛していたのだろうか?この年になって感じることだが、愛していたと言うにはあまりにも妻に対して身勝手であったかもしれない。そして、今は愛しているのだろうか?



             愛って、いったい何?



 最近になって思い出したことだが、俺はかつて妻にこんな事を尋ねたことがある。

 「なぜ、好きって言ってくれないの?」

 「なぜ、愛してるって言ってくれないの?」

 それでも妻は答えてはくれなかった。そのうち俺も尋ねなくなってしまった。


 それで、ようやく俺は気がついた。俺は淋しかったんだと。愛して欲しかったんだと。いや、愛されていることを実感させて欲しかったんだと。


                 *


 結婚して十数年経っても妻との関係は続けていた。何せ俺はスケベだと自覚している。いつだったか、喧嘩したときに言われたことがある。「あたしは正真正銘のダッチワイフなのよ。」(>_<;)

 おそらく彼女も同じなのだ。愛して欲しいと願っていたに違いない。ただし、彼女が望んでいる形で....。しかし、妻との関係は会話もなく、ただそれのみとなっていたのも確かである。彼女が望まないのも当然だ。そしてそれは俺が望んでいた形とも違う。ここに俺達の修復しがたい行き違いがあった。


 先にも書いたように、どうやら俺は愛に飢えていたようだ。それを実感できない俺は妻を求めた。しかし、いくら回数を重ねても愛されているという実感は得られなかった。根本的に間違っているのだから至極当然なのであるが、それでも藁をもすがる思いで彼女を求め続けた。彼女の気持ちなどお構いなしに。彼女はその行為を嫌っていた。

 俺に「外で他の女とやって来て。」と言うぐらいに嫌っている。(実際にそんなことをしようものなら、バレたら大変なことになるのだが....。女心はようわからん。)そんな妻だから、できればやりたくないのである。俺が求めれば大きなため息をひとつ。彼女の心の声が聞こえてくる。


          「しょーがねぇな。またかよ。」


 これでは俺もたまらない。

 結婚したばかりの頃、妻が妻の友人に言ったことがある。俺にさわられると鳥肌が立つと。そして実際に立てた。

 さすがに俺は傷ついた。なにせ十年以上経つ今でも憶えているのだからかなりのものだ。


    ダメじゃんなぁ、こんなの。何で夫婦やってんだ?俺達。


 また、こんなこともあった。

 別居していた俺達が一緒に住もうということになり、程なく二人目ができた。内心、これからは上手くいくのかという期待があった。しかし、甘かった。

 一緒に住み始めた頃から妻の態度がおかしい。俺を他の女と引き合わせようとする。喧嘩の種(通称:地雷、命名者:妻)を家中にばらまく。いくら俺でもここまでやられれば、いい加減に気づきもする。どうやら男がいるらしい。俺と別れて、そいつと一緒になるためにいろいろと画策しているようだ。

 しかし、俺は黙って耐えた。何でって?愛してるから?さぁ、わからない。でも、好きだったことは確か。なんでかねぇ。(-.-)y-~

 しばらくして妻と男は切れたらしい。詳しい話は知らん。知りたきゃ、誰か妻に聞いてくれ。ただし、俺は知りたくないが。


 こんな妻との関係があった上での先に書いた仕事の状況である。

 3年前に立ち上げたプロジェクトが1年経過しても上手く進んでいかなかったとき、百戦錬磨の俺もこのときだけはさすがにダメだと思った。それぐらいピンチだった。さらに妻との関係も悪化した。

 原因は些細なことだと思う。ハッキリ言って覚えていない。しかし、妻との関係にすがっていた俺にとって、妻に拒絶されることはこの上ない苦痛だった。ましてやそんな精神状態である。俺の現実逃避に拍車がかかった。


 やる気が出ない。

 記憶力が低下する。

 仕事をしていても、自分が何をやっているのかわからなくなる。

 電車を見れば飛び込みたくなる。

 道を歩けば、どの車でも良いからひいてくれと思う。

 誰にも会いたくはない。

 外に出るのが苦痛になる。

 休みの日には昼間から酒をあおる。


 そんなとき妻がマンションを買いたいと言い出した。妻の実家の近くに手ごろな価格で新築のマンションができたそうだ。俺の方はそんな精神状態であるからしてマンションなんぞ、どうでも良かった。だから妻の好きにさせた。要するに買ったのである。35年ローンで。

 そのマンション契約の時にこんな説明を受けた。俺が死ねば保険が下りてローンが一切チャラになると。


           「へ~え。いいじゃん。」


 それに生命保険にも入っているし、いくらか家族に残してやれると。


 その数日後、あいかわらず「うつ」状態の時に「家具を見るから。」とかで俺は妻に連れ出された。「外に出たくないのに、誰とも話したくないのに。」と心の中で叫んでいたが、「彼女に伝えても理解されない。」いつからかそう思いこんでいた俺は自分が思っていることを全く伝えることができなくなっていた。話すことが恐かったのだ。仕方なく渋々ついて行った。

 後悔した。来るんじゃなかったと。彼女の友人が話しかけてくる。俺はまともに受け答えなどできないのに。


            「勘弁してくれ!」


 そして夕方、「もう限界」と思った俺は妻や子供と別れ、一人で飲みに行ったのである。まぁ、そのときの飲み方たるや、すさまじいものだった。一時間足らずの間にボトルを一本空けた俺は今まで経験したことがないぐらいの騒ぎようだった。「うつ」が「そう」に転じたのである。

 「うつ」も「そう」も本質的に心の中に抱えている問題に変わりはない。ただ、表面上の症状の現れ方が異なるだけなのだ。「うつ」のときには何もする気にならないが、「そう」のときには何でもできる気がする。だから危険なのだ。


 歩けなくなるまで酔っぱらった俺は夕方7時頃には酩酊状態でタクシーでうちに帰った。そして家に誰もいないことに気がついた次の瞬間、包丁を持って台所に立っていた。2回目の自殺未遂である。


 しかし、いざとなるとさすがに生き物としての死への恐怖感が出るようだ。冷や汗が流れ出し、なかなか深い傷をつけられない。包丁もなまくらで切れねーしな。


 今にして思えば、やはりその時はどうかしていたのであろう。夏目漱石の「こころ」では先生の親友は頸動脈を切っているし、もっと楽に死ねるのは首吊りだと知っている。手首は致死率が低い。そんなことを知っていながら、その時は頭の中になかった。


 ためらい傷を重ねていると、程なく妻が帰ってきて、結局、取り押さえられてしまった。妻に感謝すべきであろう。が、妻が帰ってこなくとも、俺は死ななかったと思う。なにせ俺は意気地なしだから。

 この二度の経験から俺は自分では死ねないということを悟った。それからは少しはマシになったものの、現実から逃げたがっている自分を感じながら一年半近い日々が過ぎていった。そう、彼女に出会ったその日まで。


                 *


 学生時代に絵描きをあきらめてからも趣味では描き続けていた。ある日、飲み屋で知り合った画家さんと仲良くなり、ちょくちょく一緒に飲み歩くことがあった。

 1月の話である。その画家さんの個展があり、当然、俺も顔を出した。しかも終了1時間ほど前に。その後、どうなったか?飲みに行かないわけがないでしょう。確信犯である。2軒ほど梯子した後に、とある店へ飲みに行った。


 もともと俺は酒が大好きだが、おねえちゃんのいる店ではほとんど飲んだことがなかった。本当である。酒そのものを楽しもうというのが目的なので、そういった店には足が向かなかったのである。重ねて言うが、本当である。

 ところが、その知り合いはどこへ行くとも告げずに「とにかく、ついて来い。」とだけ言い、俺ものこのこついて行った。そして、その店に入ったとき、正直、面食らった。ただでさえ、おねえちゃんのいる店になんぞ行かない上に、その店にいた娘たちは日本人でなく、フィリピン人だったのだ。なにせ、俺は生まれてこの方、外人さんとはろくにしゃべったことがない。英語だって苦手だし。( ̄▽ ̄;)そう思って気が引けたまま、横に座った娘と恐る恐る話し始めたのである。


 ところが、これが結構楽しかった。まぁ、しこたま酔っぱらっていたこともあるが。「うつ」のひどいときには人と会うことを忌み嫌っていた俺が、酒の力はあるにせよ、言葉の通じない相手に苦手な英語でコミュニケーションを取るなんて、想像もできなかったことだ。別におねえちゃんを口説こう等という気は更々なかった。話すのがやっとで、それどころではないのだ。実際の話。


 そんな希有なひとときを過ごした店だが、当時抱えていたプロジェクトが忙しかったこともあり、そのあとしばらくは足が遠のいていた。

 それから1ヶ月ほどしたある日、あまりの忙しさに嫌気がさした俺は一人でふらっとその店を訪ねてみた。そこに彼女がいたのである。


 初めて彼女が俺の横に座ったとき、その顔を見てドキッとした。


            「タイプやがな。」


 最近になって知ったのだが、彼女はこう思っていたらしい。


         「胸ばっかり見てスケベな親父。」


 ごめんなさい。見てはイカンと意識していたのだが、やはり目はそこへ行ってしまった。しかも、しっかり見抜かれていた。最悪じゃ~。(>_<)


 こういった店では当然のように女の子達は客の電話番号を聞いてくる。リピーターとして確保するためだ。彼女も同様に聞いてきた。しかし、仕事中に電話されるのも困ると思った俺は、電話番号はかたくなに教えなかった。メアドは教えたけど。(^^;) それから週に一度ぐらいは必ずメールが来るようになった。仕事熱心なことである。俺とは一回会ったきりなので、共通の話題などあるわけもなく、メールの内容も「お仕事がんばってね。」とか「体に気をつけてね。」といった当たり障りのない内容であった。しかも日本語で。ますます仕事熱心なことである。

 元来、俺は几帳面な性格である。メールをもらえばきっちりとお答えするのが俺の主義である。しかし内容が他愛もないので正直、返事に困ることも多々あった。それでもなんとか返事をし、他愛もないやりとりは続いていた。


 それからしばらくは、また足が遠のいていた。プロジェクトが一段落するまではそうそうは行けなかったし、安月給の俺には決してひょいひょいといける店ではないと思っていたからである。


 忙しい日が続いたある日のこと、会議が終わって出張先へ戻る新幹線の中、誰かに愚痴をこぼしたくなった。そのとき浮かんだのは妻ではなく彼女だった。なぜだろう?いや、既に妻には自分の本心など打ち明けられなくなっていた俺のことだから、それも当然かもしれない。「甘えてみよう。」そう思った。

 「仕事が忙しくて、やってらんない。(>_<)」

 今にして思えば、だいの大人がみっともないもんである。


 返事をくれるだろうか....?

 俺の不安など吹き消すように、すぐさま返事が返ってきた。

 「がんばってください。」

 なんとも仕事熱心なことである。それと同時に俺はなんとなく救われたような気がした。


 向こうが商売なのはわかっちゃいるが、ちょいちょいメールをもらえば悪い気はしないものである。忙しかったプロジェクトが3月に一段落し、それを祝った飲み会の後で、また彼女に会いに行った。


 「久しぶり~。」

 「俺のこと憶えてるの?」

 「そーよ。だって、メールしてたじゃん。」


 どえらい仕事熱心なことである。


 彼女は日本語が流暢である。一生懸命、英語を話さなくてもいいことで少しは楽だったし、また、メールのやりとりも続いていたこともあり、俺が店を訪れる間隔は徐々に1ヶ月が2週間、2週間が1週間と短くなっていった。


 4月に入ってからはメールの内容が徐々に変わりつつあった。これまでの社交辞令的な内容から少しずつお互いのことを話し始めていた。そんなある日、彼女が

 「風邪を引いて休んでいる。」

と言ってきた。

 「あんまり具合が悪いのなら医者に行った方がいいよ。」

 と、答えた後で、ハタと気がついた。

 「あいつら健康保険ねーよなぁ。」

 それじゃ、医者に行けというのは無理な話だと思った俺はう~んと考え出した。「じゅあ、どうする?薬は持っているのか?もし無いなら、譲ってやるか。」と。もともと英語を学びたいと思っていたこともあって、このころにはメールをできるだけ英語でやりとりしていた俺はこの言葉をどう訳せばいいか、またまた考え込んだ。挙げ句の果てに打ったメールが、

 「If you have a trouble, Call me please. This is my phone number.

090-****-****.」

 まったく、トンチンカンである。

 これを受け取った彼女の方は

 「はぁ?trouble?」

 で、返ってきた返事が、

 「I have many troubles, business, family, ....(以下、省略)」

 「あれれ、伝わってない。」

 あたりめーだっつうの。


                 *


 それからというもの、彼女の健康状態が妙に気になりだした。また、彼女からメールが送られてくる間隔も次第に短くなっていった。

 「おはよう。」

 「How are you feeling today?」

 「fine.」

 となればホッとするのだが、

 「No. I have a headache.」

 とか来た暁にゃ、気になって、気になって、いてもたってもいられないのである。

 「Did you drink last night?」

 「No.」

 酒を飲んだ訳でもなけりゃ、なんなんだ?


 当時の俺はまだ彼女の生活リズムを把握していなかった。店の営業時間は夜8時から翌2時まで。店を終えた彼女たちはアパートに帰って食事をしたり、あるいはみんなで飯を食いに行ったり、なんだかんだで寝るのは明け方から午前中。午後、もしくは夕方に起きて店へ行く準備をする。ただでさえ生活が普通の人間と逆転している上に不規則である。寝不足にもなる。そりゃ頭も痛くなるわな。

 ある日、こんな事があった。明け方4時頃に彼女からメールが来たのである。向こうにしてみれば仕事の後のリラックスタイムだろうが、こちとら爆睡中である。「こりゃ、たまらん。」プログラマは頭脳労働である。頭がボケていては仕事にならない。困った俺は彼女に「朝4時のメールは勘弁してくれ。」と、言ったことがある。今じゃ、メールどころか電話なのだが。


 それからしばらくすると店にいるときの彼女の俺への対応が以前と変わってきた。手をつなぐ、よりそう。別に俺が求めたわけではない。

 「あたし、あなた以外のお客さんには、こんなことしないよ。」

 「?!」

 実際、他のお客さんといるところを見ても、ただ横に座って話をしているだけである。俺への対応とは明らかに違う。まぁ、手ぐらいは握らせることはあるが。

(-.-;)


 「どういうこと?」

 「あなたはいつも私のことをtake careしてくれるでしょう。」


 それって、好意があるって事??????


 女の子によってはお客さんを確保するためにいろいろな必殺技を駆使する娘もいるようだが、彼女は違っていた。とにかくプライドが高い。汚い手段は嫌い。よく、そんなんで水商売ができるもんである。もっとも酢いも甘いも知っているので、多少の夢はお客さんに見せるようだが....。


                 *


 4月も終わりかけ、ゴールデンウィーク間近となった頃、俺は仕事仲間と行きつけの店へ飲みに出かけた。そこへ彼女からメールが届き、いつものようにやりとりをしていたら、ついには携帯が鳴った。

 「なにしてるの?」

 「仕事仲間と飲みに来てる。」

 「ふ~ん。」

 ところが、あいにく携帯のバッテリーがなくなってしまい、もの足らない俺は酔った勢いにもあおられて、一緒にいた仲間と彼女の店に奇襲をかけることにした。おととい会ったばかりなのに。


 店に入って彼女の姿を探していると、チーママがやって来て「彼女はいません。今日は休みです。」と言うではないか。「えー!?さっき電話で話してたのに。」トラトラトラどころか玉砕である。

 帰ろうかと思ったが、仲間を連れてきた手前、そーもいかんなぁと困っていたところ、チーママが来て「彼女、もうすぐ来ますから。」と俺に伝えた。「え?休みなのに?」


 彼女たちはJapan moneyを稼ぎに来ている。たとえ自分が休んでいる日でも、自分のお客さんが店に来たのであれば出勤するそうだ。全く持って仕事熱心なことである。


 しかし、ここでふと思い出したことがある。「そーいや彼女、ここんとこ調子悪いって言ってなかったっけか?」そーなると俺の思考は止まらない。彼女は具合が悪いに違いないと勝手に思い込んでしまったのである。一緒にいた仲間には「彼女の具合が悪かったら、俺が家まで送って帰る。」とまで言い出していた。

 元来、俺は思い込みの激しい方である。何かをきっかけに考え始めると、その周りにある事象を並べ立て、どういう状況にあるのか?何かが起こっているのであれば、その原因は何なのか?を推測し始める癖がある。プログラム屋の悲しい性かもしれない。しかし、この性分が功を奏して、先読みをする事で仕事が上手くいったケースが何度もある。もちろん逆に赤っ恥をかいたことも少なくない。

 しはらくすると彼女がやってきた。

 「何してる?」

 赤っ恥だった。

 彼女はいたって元気だった。そーいや、さっきまで電話で話してたじゃねーか。あほか俺は。穴があったら入りたかった。そんな俺の様子を見た彼女は

 「飲みに行くか?」

 「えっ?」

 彼女の方から誘ってきたのである。


 閉店時間になり二人で飲みに行こうとしたところ、一緒にいた仲間が「これから、どこ行くの?俺もつれてってよ。」と言い出した。しかし、邪魔されてなるものかと思った俺は

 「気を効かせてくださいよ。」

 「何、それは来るなってこと?」

 「その通り!」

 と物腰も柔らかく、頑固に拒否した。

 元来、俺はやさしい性格である。(^^;)


 さて、困ったもんだ。店以外の場所で二人きりになるのは初めてだし、この街は夜中の2時を過ぎてやっている店なんて限られている。とりあえずは以前、行ったことのあるショットバーへでも行ってみるか。と彼女を連れて、その店に入った。

 「はてさて何を話したものやら。」と思っていた矢先、どこかで見覚えのあるスキンヘッドが現れた。彼は俺が行き付けている別のバーのマスターである。

 「なんてこった。よりによってこんな時に。」

 いや、そのスキンヘッド、見てくれはちょいと恐いのだが、とってもいい人なのだ。現に俺はこの街に来てからはその人に良くしてもらっている。しかし、何も今、現れることはないだろう。

 結局、その日はろくに話しもしないで、彼女をアパートまで送って、おしまい。


          「なにやってんだかなぁ。俺は。」


                 *


 2月、3月と大変な忙しさだったために、嫌気がさした俺はコールデンウィークは休んでやると、有給休暇を追加して10連休にしていた。ハッキリ言って失敗だった。だって、彼女のことがこんなに気になるなんて思っても見なかったんだもん。


 俺は普段、仕事の都合で他県に単身赴任しており、週末は家に帰るという生活をしている。彼女と出会ったのも単身赴任先だ。つまり10連休を取ると言うことは、その間、彼女に会えんちゅーことやがな。しかも家にいるから連絡もできない。ちなみに俺の妻は携帯のメールを抜き打ちでチェックするのだ。これは困った。こんなに休みなんか取るんじゃなかった。

 結局、ゴールデンウィーク中に俺がやっていたことといえば、絵を描くか、妻の目を盗んでパソコンから彼女にメールを打つか、インターネットでフィリピンに関する記事ばかり読んでいた。


          「あかん。完全にハマっとるわ。」


                 *


 元来、俺は悪人ではない。と、自分では思う。だからさすがに妻への後ろめたさも感じていた。2度目の自殺未遂以降は「この後の人生は妻のために捧げよう。」と本気で思っていたのだ。だから「浮気はすまい。」と心に決めていた。しかし、このていたらくである。が、彼女に会いに行っても本当に口説く気はなかったのである。ただ、疲れた心を癒しに行っていただけなのだ。はじめのウチは。しかし、ここまで来ると俺の心の中に彼女が入り込んでいることを認めざるを得なかった。

 それでも、彼女に対する言葉には気をつけた。決してloveは使わない。likeだと。

 また、俺が結婚していることは最初に彼女に話してあった。嘘はつきたくなかったから。「変に期待を持たせてはいけない。俺は結婚しているんだ。」と自分にも言い聞かせていた。ところがある日のメールで....。


 「あなたは私が好き?」

 「I like you.だよ。」

 「1 question. 本当に私でいいの?」

 「○×△□+*@¥!」


 あせった。彼女は前回、日本に来たときに日本人の男と結婚の約束をしたそうだ。しかし、そいつは既に結婚していた。傷ついた彼女はその後、何ヶ月も日本には戻ってこなかった。このことを彼女から聞いて知っていた俺は同じ日本人がまた彼女を騙すようなことがあってはならないと心底思っていた。


 「I like you. But, too fast.だよ。I have a family.だし。」

 「あなたがね、いつも私を take care してくれるから、同じ気持ちだったら始

  められるって思ったの。ごめんなさい。」


 ....さくらぁ、男はつらいよ。


                 *


 それからというもの、俺は悩んだ。全く持って彼女のことが頭から離れない。仕事中でも気がつけば彼女からのメールが来ていないかと気にして携帯をパカパカやっている。そう、ものの見事に心を奪われていた。「いい年こいて何をやってるんだ!妻を裏切るのか?俺に子供を捨てることができるのか?」

 元来、俺はまじめな性格である。彼女に対しては遊ぶという発想が全くなかった。何よりも、彼女の前の男のことがある。彼女に二度と同じ思いはさせたくなかった。

 決して前の男と俺が同じ様な人間だとは思わない。しかし、妻がいるというsituationに変わりはないのだ。いくら気持ちが違っていても、結果的には前の男と同じになってしまうのではないか?いくら言葉できれい事を並べてみても、また、彼女につらい思いをさせるだけではないのか?そんなことを考えていた。しかし、既に俺の頭の中は彼女のことでいっぱいである。この事実をどう受け止めればいいのだ?


................考え中...................


 そんなある日、知り合いにポロッと言われた。

 「そんなに好きなら別に我慢しなくてもいいんじゃないの。」

 「え?そうなの?」

 そう、いくら考えても都合のいい答えなど出るわけはないのだ。既に心は奪われているのだから。無理に心を閉ざせば、返って痛くなるのは目に見えていた。


 以外に俺は単純である。その一言で完全に開き直ってしまった。そしてついに彼女にこんなメールを打った。


 「Recentry, I'm thinking that I'm not a good man for you.

Because I have a family. But, I can't tell a lie to myself.

Now I'll tell you my mind honestly. I really love you. 愛してる。」


 あーぁ、言っちゃった。

 いったい彼女はなんと答えてくれるのだろうか?

 そして、しばらくするとメール着信。来た!


 「Ok, I understand your situation. 」


えっ?それだけ?こっちはもっと感動的な答えを期待していたのに....。


                 *


 しかし、それからというものメール、電話の数が日増しに増えた。多いときは1日にメールを20通ぐらいはやりとりをする。彼女が仕事を終えてから電話してくることも徐々に増えていき、終いにゃ、ほぼ毎日になった。今では夜中の3時頃になると俺の目は自然に開く。


 彼女はストレートだ。「I love U. I miss U.」とハッキリ言ってくる。俺も言わされる。はじめは照れていたし、今でも少し照れがあるが、電話を切る際に言わないと怒るのだ。さすがに日本人とは違う。別に俺は日本人だ、フィリピン人だなどという意識を持って彼女を見てはいなかったし、接してもいなかった。が、これは明確に違う。妻に対してあれだけ懇願しても言ってもらえなかった言葉をハッキリと言ってくれるのだ。彼女の言葉はまるで150kmを超える剛速球のように俺の心にズドーンと入り込んだ。

 また、言葉だけではなく、俺をことをcareしてくれる。明日、会議があって朝が早いと言えば電話で起こしてくれる。暑いと言えばコンビニで350円で買ったアンパンマンの団扇であおいでくれる。(^_^;;;;;) 妻を愛している間、望んでもやってもらえなかったことを彼女は当たり前のようにしてくれる。そして、それらの行為に対して素直に「ありがとう」と言ったときの彼女の笑顔は例えようがないぐらい素晴らしかった。

 「こんなことがあるんだ。」

 好きな人に好きだと言われること、優しくされることに慣れていなかった俺はますますもって、彼女に惹かれていった。


 5月も終わりになり、例の仕事仲間の誕生会を行き付けの飲み屋でやることになり俺も出席した。40過ぎて誕生会もないもんであるが、まぁ、理由を付けては楽しく飲むというのが目的なのだから、良いではないか。

 その日の行動も彼女には報告してあった。会が始まったとたん携帯が鳴り、

 「あんまり飲まないでね。」

 「大丈夫、大丈夫。」


 全然、大丈夫ではなかった。

 元来、俺は酒は弱くない。親父も強い。じいちゃんは知らない。俺が物心ついたころにはこの世にいなかったから。しかし、きっと強かったに違いない。遺伝である。そういう家系なのだ。そんな俺が簡単に酔うわけがないのだが、この日はいつもと違っていた。あまり食わないまま飲み始めたのが良くなかったのか、あるいは疲れていたのか、11時頃には頭がくらくらしてきた。

 「こらあかん。帰って早よ寝よ。」

 そう思った俺はみんなより一足先に家路についた。しかし、このとき彼女に打ったメールがまずかった。

 「I'm down.」

 実際、down寸前だった。普通に歩けば15分もかからない道のりを30分以上かかり、おまけに道ばたで座り込んでたばこを吸っていたら、目が回り、しばらくは立ち上がれない始末だった。

 家に着いてからも彼女とメールをやり取りしていたのだが、酔っぱらっているせいもあり、いつの間にか寝てしまった。ところが夜中3時頃、携帯が鳴り....

 「だから、あんまり飲まないでって言ったでしょう!!」

 「すいません。」

 彼女はたいそうご立腹である。そして俺は平謝りである。俺は38歳、彼女は22歳。時折見せる彼女の表情はまだ子供である。にもかかわらず、ええ歳こいたおっさんの俺が二十歳そこそこの小娘にこっぴどく怒られるのである。しかも、最近ではしょっちゅう。しかし、それも彼女が俺のことを心配しているが故のことであるからして決して悪い気はしない。

 何とか許しをもらい、電話を切った後にメールをチェックしたら、あるわあるわ彼女からのメールが。

 「どうしたの?何で返事ないの?」

 「もう、寝たの?」

 「今日、デイトしようかな?」←誰とやねん。

     :

     :

 しまいには、

 「(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)」

 だいたい彼女は仕事の真っ最中のハズである。他のお客さんはどうしたのだ?それらを放ったらかして俺へのメールを打っていたのか?よっぽど心配したらしい。

 翌朝、酔いの醒めた頭で俺が送ったメールを見返してみた。相当、酔っぱらっていたのであろう、グダグダである。英語はスペルミスの嵐、日本語でさえも「何じゃこら?」の世界である。

 「こら、心配するわ。」

 海より深く反省した。


 しかし、どう考えても合点がいかない。いったい彼女はこんなさえない中年親父のどこがいいのだろう?彼女ぐらいの美人であれば、もっと他にいい男がいるだろうに。


 もしかして俺は騙されてるのか?


 しかし、彼女の行動や発言を見ていても、とても俺を騙しているようには思えない。気っ風がいいのだ。気も強い。俺のことを完璧に子供扱いする。そう言えばウチの奥さんも気が強いよな。何で俺の周りの女はみんな気が強いんだろう?

 さらに彼女は40近い俺を捕まえて、こんな事を言う。

 「かわいい。」

 と。

 元来、俺は決してかわいくはないと思う。だいたい、こんなおっさんを捕まえて、かわいいもないもんである。しかし、それでも彼女は俺のことを「babe」と呼ぶ。驚いた。そしてこっぱずかしかった。ところが人間は順応性が高い。慣れた。


                 *


 夜中に電話で話すのが日課になっていたある日、彼女がこんな事を言いだした。


 「友達がね、新しい男ができて、でもね、前の男の子供がいるの。で、新しい男

  はそれを知らないの。新しい男にそのことを話したら、どうなるかな。babeは

  どう思う?」

 「?その男次第だろうな。受け入れるかもしれんし、許さないかもしれん。」

 「babeはもし私に子供がいたらどうする?」

 「俺?受け入れざるを得ないでしょ。その子も君の一部として。俺だって子供が

  いるんだし、お互い様だね。」

 「でも、babeは子供嫌い言うたじゃん。」

 「嫌いとは言ってない。苦手だと言ったの。自分の子供は好きだよ。」

 「嫌いと苦手とどう違うの?」

 「嫌いは嫌い。苦手は好きではないということ。」

 「好きじゃないいうことは、嫌いってことでしょう。」

 「違う、好きじゃないってことは、好きでも嫌いでもない。普通ってこと。

  neutralだね。」

 「ふうん。」

 「何?子供いるの?」

 「いないよ、ばーか。」


 ?こいつ、なんでそんなに子供にこだわるんだ?


                 *


 元来、俺は女遊びには長けてはいない。「同伴って何?」という状態である。そんな俺が彼女と初めて同伴した。別に気の利いた店を知らないし、行き慣れたところでいいやと思った俺は、例のスキンヘッドの店で飯を食うことにした。彼女も既にあの人とは顔を合わせているしな。で、スキンヘッドも交えて話をしていると、話題が妙な方向へ行った。

 実はそのスキンヘッド、以前、胃を悪くして摘出しているのである。

 「いや、人間はおへそのところは切れないんだよ。だからよけて切るんだ。」

 「へぇ、そうなんですか?」

 「そーよ。」

 「いや、お嬢さん、よく知ってらっしゃる。普通の人は知りませんよ。」

 「えぇ?みんな知ってますよ。」

 「いやいや、普通知りませんよ。ねぇ。工藤ちゃん。」

 「うん。知らない。初めて聞いた。」


 ?こいつ、何でこんなこと知ってんだ?


 こうやって並べて書いてみると誰だって、「もしや?」ぐらいには思うものだが、実際にはこれらのことには時間差があった。だから、俺の頭の中で結びつくにはしばらく時間がかかったのだ。

 もっとも彼女はこのとき「バレたかな?」と思ったそうだ。


                 *


 彼女らの仕事はハタから見ている以上に過酷である。休みは月に2日。それも具合が悪いことでもない限り休まない。場合によっては休み無しに働いていることもあるそうだ。もちろん個人差はあるが。しかし、それって労働基準法違反じゃねーの?また、その休みも制約が多く、お客さんと会う時間は何時から何時までと決まっていた。

 6月に入り、彼女が休みを取ると言い出した。「せっかくだから、横浜にでも連れて行ってみるか。」もともと横浜は勝手知ったる場所だし、時間の制約はあるものの、少しは向こうで遊ぶ時間もあるだろう。なによりランドマークや観覧車から見える夜景を彼女にも見せたいと思っていた。

 ところが....

 「御殿場高原に行きたい。」

 「どこじゃい、そら?」

 俺は単身赴任で来ているだけなので、このあたりの地理には疎い。しかし、世の中、便利になったものである。レンタカーを借りたら、カーナビが付いているではないか。

 元来、俺は車の運転が嫌いだ。だって飲めないから。しかし、ここは彼女のため、およそ、2年ぶりでハンドルを握った。御殿場高原のレストランで晩飯を食い、しかるに御殿場高原の旨いビールは当然お預け(T_T)、その後、まだ時間があるので、

 「どこへ行きたい?」

 「日本ランド。」

 「どこじゃい、そら?」

 しかし、世の中、便利に....以下、略。

 その日本ランドがこれまた遠い。いや、横浜と比べれば全然近いのであるが、舗装はされてはいるものの山道である。間近で見る富士山がデカイの何の。2年ぶり、しかも近所のイトーヨーカドーぐらいまでしか運転したことのない俺には難儀なことである。それでもどうにかたどり着いたが、ことのほか車の数が少ない。それもそのハズ、休園日だった。

 「意味な~い。」

 あんたが行きたい、言うたんやがな。

 結局、折り返して戻ったあげく、「飲みに行こう」ということになり彼女の店へ。

 「でも、何でお店なの?」

 「戻ってきたことを報告すれば、1時まではbabeといられる。」

 策士である。


 休みの日にわざわざ自分の店に男連れでいるのだから他の常連客は面白がって彼女をからかい始めた。なにしろ彼女は負けず嫌いである。あっという間に常連客の挑発に乗った。

 「じゃあ、飲んでみろ。」

 「わかった、飲んでやる。」

 彼女はおもむろに自分のグラスに焼酎をつぎ足した。「あれれ、いつのまにそんなことになってるの?第一、君はろくに飲めないでしょ。」俺の立場としては止めるべきなのだが、彼女はどえらい頑固である。俺の言うことなど聞きゃあしない。ならばと、彼女がその客と話しているうちになみなみとついだ焼酎のグラスを一気に飲み干してやった。有無を言わせない実力行使である。

 「何やってる?!」

 「お客の挑発に簡単に乗るんじゃない。こんな飲み方は許さない!」

 俺の飲み方のほうがよっぽど良くないのだが....。

 しかし、これ以降、他の客は彼女にちょっかいを出さなくなった。


 さすがに彼女はびっくりしたようである。帰り道には俺を支えるようにして俺のアパートまで送ってきた。俺としてはいつもより多めに酔っぱらった程度なので、「大丈夫だ。」といっても彼女は納得しない。部屋に戻って、便所から出てくると彼女が俺の布団を敷いているではないか。

 「どうしたの?」

 「babe!タオル貸して!」

 「はい。」

 有無を言わせぬ勢いである。彼女は手にしたタオルを水道の水で濡らして、

 「babe!寝て!」

 え?何がはじまるの?でも雰囲気からして気持ちよいことではなさそう。完全に怒ってるもんな。そう思いつつ横になると、首筋にヒヤリとした感覚が走った。濡れたタオルを彼女があてがっているのである。

 「あんまり飲まないでね。」

 「大丈夫だって。」

 「babeのことが心配なの!」

 ハッとして見上げたその表情は今にも泣き出しそうだった。

 「わかりました。」

 「約束して。」

 「ハイ。」

 濡れたタオルを通して感じる彼女の手の存在がとても心地よかった。


 それからと言うものの月に一度は休みを取り、俺と一緒に出かける。俺が赴任先へ来る日曜日は同伴して一緒に過ごすというのが暗黙の約束になっていった。


                 *


 それでも体の関係はなかった。不思議なことである。あれだけ妻を求めていた俺が彼女に対しては不埒な考えが起こらないのである。信じられないと思っているそこのアナタ。俺が一番信じられないのだ。そりゃ、男だからしたいとは思う。が、焦りがないのだ。「そのうち、そんなことにもなるかもしれんなぁ。」ぐらいにしか感じないのである。


               なぜだろう?


 そう、彼女は知ってか知らずか(たぶん知らずに)俺のウィークポイントを完璧にとらえたのだ。つまり、俺に自分が愛されているということを実感させた。だから俺はその行為に頼る必要がなかったのだ。


          妻が知ったら、どう思うだろうか?


 今更、愛していることを実感させてくれと言っても、お互いに抱えていることがトラウマになって邪魔をするだろう。この十数年間、俺達は何度も同じことを繰り返し、何度も話し合い、何度も失敗してきたのだ。ただ今までと違うのは、俺が何を求めているのかをハッキリと自覚したこと、また、「愛してる」ということを相手に伝えることがどれだけ重要かということを理解したということである。これらは全て彼女が教えてくれた。


                 *


 まぁ、不埒な考えが起こらないとは言っても、そこは男と女である。いずれは自然にそういう流れになることはあるだろうと思っていた。

 ある日の夜、その日はいつもと違っていた。何がどうなったのか、いつのまにかほの暗い部屋の中で俺の右手は彼女の曲線に従っていた。しかし、その手が核心に触れようとしたところ、

 「No!」

 彼女はかたくなに拒絶した。

 「なんで?」

 俺にはその理由が理解ができなかった。ただ、「何かある。」とだけ感じた。


 「俺に何を隠している?言ってみな。」

 「何も隠してないよ。」


 しかし、やがて覚悟を決めたのか、

 「まぁ、いっか。」

 と言い、俺に腹部を見せた。帝王切開の後だった。


 「これがあたしの秘密。」


 やはり彼女には子供がいたのだ。これまでの彼女の言動や、俺が子供が苦手だということに対しての不自然なこだわりなど、これで全てに合点がいった。しかし、薄々感づいていた俺は特に驚きもしなかった。不思議なぐらい冷静に「やっぱりそうか。」とだけ思えた。


 「子供は?」

 「フィリピンにいる。」

 「淋しくないの?」

 「おばあちゃん達がいるから。」

 「そうじゃない、君がだよ。子供のそばにいたいだろう。」

 「だって、あたしが働かなけりゃ、あの子どうするの?」

 「そうか....。」

 「babeがいるもん。大丈夫だよ。babeがいなかったら、私どうなってたか、

  わからないよ。」


 と言って、彼女は俺の腕で泣いた。ほんの少しの間だけ。強い人である。俺はといえば....

 「つらかったね。」

 という言葉をかけるのがやっとだった。情けない話である。


 次の日が大変だった。仕事をしていても涙があふれてくる。取り返せない過去へのやるせなさ、彼女を傷つけた前の男に対する怒り、そして、最も大切な人を傷つけられた悔しさ。俺はパソコンのキーボードを叩きながらあくびをするふりをして涙を隠した。できるだけ、そのことは考えないように努力した。


                 *


 彼女とつきあい始めてから確かに幸せなのであるが、これまでの後遺症ですっかり軟弱になってしまった俺の心は嫌なことがあれば現実逃避を思い描くという悪癖が残っていた。さすがに実際にその行為に及ぶことはないのであるが、頭の中では渦巻いていた。

 ところが、彼女の強さを目の当たりにして、こんな事を思ったのだった。

 「もしかすると、俺が馬鹿なことばかり考えるから神様が彼女に引き合わせたの

  かもしれない。」

 おいおい、俺は無神論者だぜ、なんでこんなことを思いついたんだ?しかし、今ではこれが本当のような気がしている。

 そしてそれ以来、俺の悪癖は影を潜めた。


 彼女の幸せは何だ?

 俺は彼女に何をしてあげられる?

 「日本人、みんな殺してやる。」

 そう口走った彼女に日本人である俺がいったい何をしてあげられるのだ?


                 *


 彼女たちが1回の来日で滞在する期間は6ヶ月である。しかし、早い娘は2週間程度でまた日本へ戻ってくる。彼女は7月末にはフィリピンへ帰らなければならなかった。そして、いよいよその7月に突入した。

 子供のことを知るまで俺は単純に彼女もすぐ戻ってくるものと思っていた。しかし、子供の顔を見たらどうなるだろうか?俺の不安は次第次第に膨れ上がった。その上、彼女の体調も気になっていた。子供を産んで、ものの1,2ヶ月で日本で働き始めたのだ。平気なはずがない。最近では頭痛、吐き気、めまい、挙げ句の果てには目が見えないとまで言い出していた。

 「フィリピンに帰ったら、medical check を受けろ。」

 「No! そんなことしたら、しばらく帰ってこられないよ。babeはあたしと会えな

  くなってもいいの?」

 「君が体をこわすよりましだ。」

 「大丈夫。まだまだ生きてる。」

 こんな会話を何度となく繰り返していた。


 そんな状態にも関わらず、ちょくちょくビールを飲んだと言っては俺に電話してくることがあった。

 「babe、酔っぱだよ~。頭痛い。」

 ただでさえ、こっちは彼女の体調を気にしているのである。心配にならないはずがなかった。しかし、仕事柄しょうがないということもわかっている。俺はジレンマに陥っていた。

 ある日の電話ではまた同じ様な状態だった。

 「ベイ~ブ、ビール飲んだぁ。」

 「だから、そんなに飲むなって言ってるでしょ。強くないんだから。」

 「しょーがない。ベイ~ブ、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。」

 「ダメ、そんなにお金ない!」

 「つまんない男。」

 「何!」俺の声は怒気をはらんでいた。

 俺の声がいつもと違うのに気付いたのか、彼女のトーンが下がった。

 「何でもない。」

 俺だって会いたいのだ。できることならば毎日でも彼女の側にいたい。しかし、彼女には契約があり、俺が彼女に会うためには店に行かざるを得ない。当然、出費もかさむ。そうそうおいそれと会いに行くわけには行かないのだ。したがって、ふところと相談しながら「次はいつ行くか?」を検討することになる。ところが彼女は思ったことを素直に表現してくる。会いたいと思えばその瞬間にはそれを要求してくる。すべてを彼女のペースに合わせることは不可能だった。

 さらに俺にはコンプレックスがあった。杓子定規なのである。自分でこうと決めたことはそうしないと気が済まないのである。自然、融通が利かなくなる。次にいつ会いに行くと決めたら、それまでは待つのが俺のやり方である。会いたいと思っても、そこは我慢のしどころというもんである。彼女のようにエモーショナルに行動できる人には理解しがたいかもしれない。それが解っているが故にいつか彼女からその一言を言われるだろうと思っていたし、恐れてもいた。それを理由に彼女が離れていくことを想像するのも難しくはなかった。

 さらにこの「つまらない○○」という表現は俺が妻に対して昔から持ち続けていた感情であり、妻との関係を壊したくないがために何度も飲み込んできた言葉である。それを彼女はいともたやすく口にした。これは俺の琴線に触れた。彼女との電話を切った後も時間が経つに連れ、俺のイライラは収まるどころか増幅していった。

 「頭に来た。喧嘩、売ってやる。」そう思い、俺は彼女に会いに行った。

 店に着いた頃には彼女の酔いも醒めていたが、こちとら頭のてっぺんから湯気が出ている。最初から喧嘩腰だった。

 「つまんねぇ男で悪かったなぁ。」

 その後は彼女の一言一言に噛みついた。俺は酔ったり怒ったり、感情的になると大阪弁になる。

 「うるさい、大阪弁やめろ!」

 「じゃかぁしゃい、わしゃ、大阪の人間じゃ!」

 「だったら大阪、帰れ!」

 「おんどれはフィリピン帰りさらせ!」

 「帰るよ。....言われなくても、帰るよ。」

 しまった、言ってはいけないことを言ってしまった。しかし、後の祭りである。その言葉を最後に二人は一言もしゃべらなくなり、お互いにそっぽを向いていた。

 さすがにいつもと雰囲気が違うと周りも気付きだしたのだろう。我々の周りから人が消えた。営業中の店内のハズなのに。(^^;)

 彼女が他の客に呼ばれて、側にいない間、俺は自己嫌悪にさいなまれていた。

 「えれぇことを言っちまった。もし、彼女がフィリピンに帰ったきり戻ってこな

  かったらどうするのだ?俺は耐えられるのか?んなわきゃねぇ!さぁ、困った。

  どーすりゃいいの?ねぇ?」

 やがて戻ってきた彼女は言葉を見失っていたが、しばらくするとゆっくりと話し始めた。

 「あたしがお酒飲んだから怒ったの?」

 「!?」

 俺がなぜ怒っているかを理解してないのか?はじめに話したつもりであった。彼女は日本語が上手い。しかし、日本人ではない。当然、コミュニケーションエラーを起こすことも多々ある。

 「そうじゃない。」


 そう言えば、これまでも何度となく俺たちはコミュニケーションエラーを起こしてきた。

 「話、見えない。」

 相手の言っていることがわからないときの合言葉のようなものである。これを使うようになってからは「自分が言っていることを相手が理解していない」ということを認識できるようになったので、言い方を変えてみたり、説明を加えてみることができるようになり、少しはコミュニケートしやすくなった。が、彼女の言葉をどれだけ正確に理解できるか、あるいは俺の言葉を彼女が理解してくれるかは俺にとって大きな不安であった。もし、これから長い付き合いになるのであれば言葉の壁は必ず大きな障害として俺たちの前に立ちはだかるに違いない。そう感じていたのだ。

 しかし、よくよく考えてみると、妻が言っていることだって何だかさっぱり意味がわからないなんてことは日常茶飯事だった。バリバリの日本語なのに。


 この後、俺は彼女に「俺がなぜ怒っているのか、何を不安に思っているのか」を説明した(どの程度、理解してくれたかは怪しいものだが)。

 「大丈夫、あたし、どこへも行かないよ。いつも、あなたの側にいるよ。」

 俺が店を出るころには二人の仲は元に戻っていた。あげく、周りに誰もいないのをいいことに俺は彼女にそっとkissした。


                 *


 彼女はハローキティが大好きである。持っている携帯もキティーがデザインされている。7月の休みの前日に彼女がこんなことを言い出した。

 「ピューロランドへ行きたい。」

 「え~、遠いよ。」

 「でも、行きたい。」

 「しょ~がねぇなぁ。」

 ところが、インターネットで調べてみたら、なんと明日は休園日ではないか。日本ランドに続いてお前もかぁ。なんと間の悪い二人だろう。しょうがないので前回、考えていた横浜へ彼女を連れて行くことにした。観覧車やランドマークからの夜景を見せに。

 「ランドマークの展望台へ上らない?」

 「No!」

 「え?何で?」

 なんと彼女、高いところは苦手だそうである。

 「そんなとこ行ったら、足がぶるぶるぶるぶるなるよ。」

 早く言ってよ~。わざわざ、「みなとみらい」までいったい何しに来たのだ?結局、ここでも飯を食って、ぶらぶらしてから帰ることになった。飯を食う直前に彼女の仕事仲間から電話があった。「国に送るので紙おむつを買って来い。」と。時間はもう夜8時を過ぎている。おまけにみなとみらいに薬局なんてあるのか?飯を食った後、俺たちは紙おむつを求めてさ迷い歩くことになった。どうにかこうにかショッピングセンターで紙おむつを買うことはできたものの、そこここのお店で、

 「この辺に薬局ない?」

 「紙おむつが欲しいんだけど。」

 と、質問するフィリピン人の女連れの日本人のおっさんはよっぽど奇妙に見えたに違いない。まぁ、他人の目にどう映ろうが、そんなことは俺にとって問題ではない。俺は彼女の望みを叶えたいし、それだけで精一杯なのだ。他のことなんかどうでも良い!

 しかし、わざわざ横浜まで来て、収穫が紙おむつだけとは、いったい何をやっているのやら。それでも、横浜まで来たという事実に彼女は満足したようである。

 「うれぇし。」

 そう、つぶやいていた。

 俺もうれぇし。


                 *


 ついに彼女の日本での最終日が迫ってきた。彼女たちは帰る前日も仕事をする。「さよなら」と名付けられたその日は今までひいきにしてくれたお客さんみんなに声をかけて荒稼ぎする(失敬f^^;)総仕上げの日なのだ。そして、その日の仕事が終わると休む間もなく成田から飛行機に乗る。最後の日ぐらい一緒にいたい等という情けは通用しない過酷なスケジュールなのだ。

 最終日直前の最後の日曜にいつものように同伴をした俺は「あとはさよならの日に仕事の後に顔を出して終わりだな。」と思っていた。それまでは飲みにも行かず、おとなしくしていようと思っていたのだ。が、しかし....。

 最終日の前日のこと、

 「最近、君からのメールが少ないよな。」

 「そう?じゃあ、仕事中にいっぱいメールしてあげるよ。」

 などと言っていたにもかかわらず、一通も来ない。いや、理由はわかっていた。帰る直前なので、荷物の整理やなんやらで2日ほど寝ていなかったり、仕事も忙しかったり、おまけに帰る直前は淋しくなるらしく、いろいろ考え込んでいるうちになかなか寝付けなかったりで、ここのところはほとんど寝ていないらしかった。俺も明け方からの電話につきあっていたりで、ここ数日はろくに寝ていない。

 そんな日が続いていたが、この2日ばかり遅い時間にようやく寝られるようになったらしく、起きるのは夕方6時前後になっているのも知っていた。人間は睡眠が必要不可欠である。だから彼女が寝られないと言っていたときは心配していたが、寝られるようになったと聞いてからは少しは気が休んでいた。朝、仕事に行く前にメールをした後は彼女が起きる頃を見計らってメールを送っていた。

 「Are U still sleeping?」

 返事がない。きっとまだ寝ているのだろう。いつもは起きたときに。

 「Now I'm awake. I love U, babe.」

 とかなんとか言ってくる。

 ところが、今日は夜の8時を過ぎても何も言ってこない。いくらなんでももう起きて仕事してるよな。人にメールしろ、メールしろって言うくせに、自分は返事もしないじゃないか。この日は睡眠不足に加えて仕事も上手く行っていなかった。まるで子供のようだが、俺はイラついていた。

 「(-"-#)」

 返事がない。

 「Why U don't reply my mail? U make me to mail U!」

 「Because I have no time!」

 あー、そーですか。俺はキレた。

 本当に子供である。(^^;)

 それから仕事がますますドツボにハマリ、夜11時を過ぎてようやく終わったときにはおとなしくしていようなんて気はどこかへ吹き飛んでいた。

 「今日の仕事終わり。飲んで帰る。」

 「どこで飲むの?」

 「Sri-Lanka curry shop.」

 週1ぐらいで行っている、いつもの店である。

 このときまでは飯喰って、12時過ぎぐらいには帰ろうと思っていたのである。このときまでは。ところが、寝不足の上にイライラもあり俺の飲むペースはハイピッチだった。焼酎をあおり、人のアクアビットのボトルを空けていた。(^^;)

 2時を過ぎても連絡をしていなかったせいか、心配した彼女から電話があった。

 「まだ飲んでるの?」

 「今日は飲むの!」

 「わかった。好きにしろ!」

 あれ、いつからそーなったの?12時過ぎには帰るんじゃなかったのか?しかし、その頃には明日のことなどどうでも良くなっていた。酔いたかったのだ。明日なんか来て欲しくなかった。結果、俺は夜中の3時にはものの見事に人事不省の酩酊状態だった。

 「食った飲んだ疲れた寝る」

 とだけ彼女に送り家路についた。しかし、焼酎とアクアビットのチャンポンは予想以上に強敵だった。目がかすむ。まっすぐ歩けない。しまいにゃ道ばたですっころんでしばらく起きあがれない始末だった。

 「今、何時だ?電話が鳴っているような気がする....。でも、動けない。」


 俺の携帯の着信履歴は最大20件、後で気がついたのだが全て彼女からの電話で埋まっていた。朝4時過ぎからほぼ1分おきにズラ~と彼女の電話番号が並んでいた。留守電にいたっては彼女からのメッセージで埋め尽くされており、他を受け付けられなくなっていた。さらには、

 「何で出ないの?返事しろ(>_<)」

 のメール。そういえば、何度もこのパターンで彼女には心配をかけている。本当にごめんなさい。以後、気をつけます。


 ようやく、家にたどり着いた後、彼女からの電話に気付いた。

 「何してる、私、何回も何回も何回も電話したよ!」

 しまった。今日はもう彼女の声を聞きたくなかったのだ。

 元来、俺は以外に涙もろい。さらに酔っぱらっているときは輪をかけて泣き虫になる。酒を飲みながら感動的な映画でも見ようものならボロボロ泣いてしまうのである。そういえば昔、妹を連れて「魔女の宅急便」を見たときは迂闊にも涙を流してしまった。シラフだったのに。それをめざとく見つけた妹は、

 「兄ちゃん、何泣いてんねん。」

 と、冷たく言い放った。

 この日もやっぱり泣いた。彼女の声を聞いたとたん、自制心がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

 「帰っちゃうじゃん。」

 「泣ぁくなぁ、すぐ帰ってくるから。」

 「だって、愛してるんだよ。」

 「泣ぁくなぁ。」

 「会えないんだよ。」

 「babeが泣いたら、私も心配になるよ。」

 「ひっく。」

 果たしてこれが38歳の男の言うセリフだろうか?ちなみに俺は15人の部下を持つ中間管理職である。

 さらにこの後、俺は彼女に「帰っちゃうじゃん。だって、愛してるんだよ。」と泣き真似をされて、しばらくからかわれることになる。


 何がどうなって、いつ寝たのかは憶えていない。朝起きたのは、いや正確には昼だが、彼女からのメールの着信音がしたからだ。

 「まさか、まだ寝てるの?」

 返事を打つ間もなく、電話が鳴った。

 「何してるの?仕事は?」

 「頭痛い。気持ち悪い。」

 「仕事、どーするの?」

 「これから行く。」すでに昼である。

 「はぁ?行くの?これから?」

 「うん。」

 「わかった。気をつけてね。」

 電話を切った後、ハタと悪行を思いついた。いそいで彼女に電話をかけ直した俺は、

 「今日、同伴の予定入ってる?」

 「ううん。ないよ。全部断った。」

 「じゃあ、俺と同伴しよう。」

 「会社は?」

 「休む。」

 「わかった。5時なる前ね。」

 「はいよ~。」

 部下の方々、悪い上司を許してね。


 彼女は同僚に最終日は同伴しないと言っていたそうだ。それが突然、同伴すると言いだしたので、同僚はいぶかしがった。

 「誰と?」

 「スーパーマン。」

 俺は店ではこう呼ばれている。黒縁の眼鏡をかけているので彼女がそう銘々したのだ。今じゃ、バットマンとかスパイダーマンとかアンパンマンとかみんな好き勝手なことを言っているが。

 「やっぱりね。」

 彼女は最終日に、もしかしたらの思いで俺のために空けていたのかもしれない。なにせ最終日は特別な日なだけに他の男とは同伴したくなかったのかも。(*^^*)

 もっとも、彼女は1人のお客とマンツーマンでは同伴しない。必ず店の女の子を含めた複数で同伴する。さらに同伴する場合は俺に連絡してくる。だから最終日の同伴を断っていたのも自然だったのかもしれない。俺の考え過ぎか?ちなみに彼女がマンツーマンで同伴するのは俺だけだそうである。


 そのやり取りの後、俺はまた寝た。彼女が寝ているのもわかっていた。ふと目を覚ましたときに時計は4時を過ぎていた。5時から会うのであれば、そろそろ彼女を起こさなければいけない。しかし、最近の疲れもある。彼女が目覚めるまで、そっとしておくことにした。「起きたら、電話してくるだろう。」

 ようやく電話が鳴ったころには5時を少し回っていた。

 「ごめん。今起きた。」

 「あぁ、俺も寝てた。用意できたら電話して。」

 「わかった。」


 6時頃、落ち合ってから二人で飯を食った。その後で彼女は、

 「babe、これ外して。」

 と、彼女がいつもしているネックレスを俺に外させた。

 「持ってて。」

 「チーママからもらった大事なものでしょ。」

 「babeが浮気しないように、置いていく。」

 「俺はパロパロじゃねぇって。」

 フィリピンでは浮気者のことをパロパロと言う。元々は蝶を指すのだが、花から花へ渡り歩く姿から浮気者を意味するのだそうだ。しかし、浮気するも何も世間一般から見れば彼女が俺の浮気相手なのだが....。

 「君がいない間は俺がこれを着けるよ。」

 「わかった。大事にしてね。」


 店に入った俺は少し不安だった。果たして彼女の客は何人ぐらい来るのか?どの程度、俺の側にいてくれるのか?やがてスタートしてから1時間もした頃、彼女のお客さん達がやって来はじめた。

 「ちょっと、失礼します。」

 ほら来た。彼女は他の客に呼ばれたのだ。まぁ、それが仕事だから仕方がないし、今日は覚悟もできていた。彼女がいない間、help の娘がかわるがわる俺の横に座った。が、ドイツもコイツも「今日で最後でしょ、泣かないの?」と聞きやがる。

 「泣かないよ。」

 「えー、なんで?」

 「もしかして、みんな俺が泣くのを期待してるの?」

 「そう。」

 しまいには彼女がhelpの娘にタガログ語で何か指示を出している。

 「アイツ、何だって?」

 「あなたにお酒を飲ませるなって。」

 「おいおい。」


 彼女は俺が酔うと涙もろいのを知っているのだ。そらそーだ、昨日あれだけ醜態をさらしたのだからわからないはずがない。店に来る前に彼女は

 「泣ぁくなよ。」と何度も念を押していた。

 「泣かないよ。何で?」

 「恥ぁずかし。」


 それでも薄目にウーロンハイを作ってもらって飲んでいると、彼女が戻ってきて、

 「飲むな、言うたでしょ。」

 といって、グラスの半分をアイスキューブに捨て、ドバドバとウーロン茶のみを注いだ。

 「はい!今日は飲んだらダメ。」

 「あーあ。」

 昨日の今日である。昨夜の酒で俺の胃袋がブッ壊れているのも彼女は知っていた。ありがたいような、悲しいような複雑な気持ちで俺はウーロン茶をすすった。


 結局、彼女は俺の側を行ったり来たりしていたが、こちらが思ったよりは一緒にいる時間が長かった。

 「今日は何人ぐらい来てるの?」

 「3人。」

 「え?そんなもんなの?」

 「そう、みんな忙し。東京にいるとか、どっかにいるとか。」

 たいそう不満げである。さらには電話でお客さんを呼び始めた。

 「どう?」

 「帰ってきたら教えてね、だって。」

 「ふーん。みんな忙しいんだよ。」

 「あたし、最後なんだよ。いつもいつも、来てくれるのに。何で最後に来ないか

  なぁ。」

 まぁ、俺にとってはその方が好都合だけど。


 そんなこんなで閉店時間になり、みんなが帰り支度をしているときにチーママが俺の側に来てひとこと言った。

 「スーパーマン、ありがと。」

 この一言には特別の意味があった。彼女が前の男に裏切られた後、側で彼女を支えたのがこの人なのだ。今でも買い物や美容院など行動を共にして彼女の面倒を見ている強く美しい人なのだ。彼女を支え続けた人が最近の彼女を見て「以前よりもいい恋愛をしている。」そう思ってくれていた。それ故の一言であった。彼女もいつだったかチーママを指して「日本での私のお母さん」と言っていた程の人だ。

 ただしこの人、本当は男なのだが。


 最後の夜だというのに何もなく普通に別れ、俺は家でぼーっとしていたら3時頃に電話が鳴った。

 「babe、アパートついたよ。これから社長とあって、帰るね。」

 「気を付けて帰れよ。」

 「babeも無理しないでね。あんまりお酒飲まないでね。」

 「わかった。約束する。」

 「あと、浮気するなよ。」

 「しません。」

 「いろいろ、ありがとね。babeが応援してくれたから、私がんばれたよ。」

 「ありがとう。ほら、6月に会社でmedical checkを受けたでしょ。あの結果も

  去年より良くなっていた。君のおかげだよ。」

 「ほんと?うれしい。」

       :

       :

 「babe, I love you so much.」

 「I really love you.」

 「ばいばい。」

 「ばいばいはやだな。ほんとにさよならするみたいで。」

 「泣くなよ。」

 「泣いてないっちゅーの。....早く帰ってこいよ。」

 「来年。」

 「あほ。」

 「じゃ、あとで電話できたら、またするから。」

 「わかった。待ってる。」


 しかし、その後、電話はなかった。いい加減な奴である。その代わりに4時過ぎにメールが届いた。社長との話がつき、これから成田へ向かうのであろう。

 「ベイーブいてきます、ベイーブ愛してるよ忘れないでね!I LOVE SO MUCH

  (*^^*)待っててね、バイバイ」

 「体に気をつけてね。I really love U & I'm waiting right here. ok?」

 「OK!愛してるよ(T_T)」

 「me too! o(><)o」

 あ~あ、行っちゃった。


                 *


 今日1日メールがない。電話もない。当たり前だ、彼女はもういないのだ。さらに彼女の携帯は海外では使えない。連絡があるとすれば彼女からの国際電話だけ。果たしてかけてくるだろうか?俺からかけようと思って、彼女の家の番号を聞いたことがある。

 「だって、babeはタガログしゃべれないでしょう?」

 「うん。」

 「どうするの?」

 「....」


 6ヶ月という短い期間に毎日毎日あれだけのやり取りをしたのだ。いつのまにか彼女からの連絡は俺の生活の一部になっていた。その彼女がいなくなったことを実感したとき、まるで長い夢から覚めたような、そんな気がしていた。


 「いったい、何だったんだろう?」


 部屋にいると、残っている彼女の髪の毛の多さに驚くことがある。確かに彼女はそこにいたのだ。夢でも幻でもなく。

 そして既に俺は彼女の髪の毛を簡単には捨てられなくなっていた。もう二度と彼女が現れないような、それが俺に残された彼女の最後の一部のような。意味もなく、そんな気がしていた。それゆえ残された髪の毛の一本が愛おしくてたまらなかった。これは彼女がここにいたことを証明するものであり、今現在、俺が手にすることができる唯一の彼女なのだ。


                 *


 やがて、何もしないでいることに耐えられなくなった俺はたとえ今、彼女が見ることができなくても、帰ってきたときに見てもらえばいい。そう思い、彼女がいなくなったその日から毎日メールを打ち始めた。他愛もない俺の毎日を彼女に知らせたかった。

 「29 July.

  I know that U can't read my mail. But I wanna mail U. When U come

  back, read this.

  無事についたのだろうか?今頃どうしてるだろう?何もない。メールもない。

  電話もない。君がいないんだから当たり前なんだけど、やっぱりsadだ。(-.-;)

  ・・・・babe、はやく帰って来て。」


 7月30日。この日は赴任先から戻り、友人と飲みに行く約束をしていた。そして、そのことも彼女には既に話してあった。

 「何時から飲むの?」

 「10時ごろかな。」

 「....わかった。できたら11時ごろ電話するね。」

 しかし、11時を過ぎても俺の携帯は鳴らなかった。フィリピンと日本の時差は1時間。アイツのことだから時差を間違えているかもしれない。俺はいつ携帯が鳴ってもいいように手に握り締めていた。

 ....しかし、夜中の1時を過ぎても何の音沙汰もない。「忘れてるな、きっと。」

 この日は家のパソコンからメールを打った。

 「30 July.

  既に1時を過ぎた。電話はない。きっと、忙しいんだよね。俺は10時過ぎから

  cellを手に握り締めて待っていた。しかし、俺のcellはピクリともしなかった。

  嘘つき。

  君は何度も俺にこういったけど、今日は俺が言う番だ。「嘘つき。」」


 7月31日。さよならの日に撮った写真をプリンタで印刷していた。妻の目を盗んで。写真に写った彼女の笑顔を見ていたら、なんだか切なくなってしまった。彼女がいなくなって、まだ3日目。先が思いやられる。

 「31 July

  Today, I printed Ur photos of sayonara day. In these, U are smiling.

  babe, U are so beautiful. And now, I really miss U.」


                 *


 果たして俺の異変に妻は気付いていないのであろうか?俺の携帯のメールを盗み見る人である。また、以前にはこんな事も言っていた。

 「そういう時は普段と違うから、何となく解る。」

 俺は慎重だった。全ての証拠は隠滅していた。携帯のメール、着信、発信履歴、パソコンのメール。何一つ証拠はない。

 最近ではパソコンはパスワードを彼女の誕生日に設定し、俺以外は立ち上げることができないようにしてあった。携帯もキーロックしてメールをチェックできないようにしてあった。しかし、普通に考えればそれだけで十分怪しい。その理由を問い詰めることだってできるはずである。しかし、妻は知ってか知らずか何も言わなかった。


 「気付いていないわけがない。」


 俺はそう思っていた。さらに最近の俺の態度の変化もある。以前は頭に思ったことを妻に対して伝えることができなかったのだ。自信がなかった。何を言っても小馬鹿にされるか、頭ごなしに否定されるようで恐かったのだ。ところが、最近ではハッキリと意見を言うようになってきている。彼女に相当、鍛えられたらしい。これだけでも明らかにいつもと違うのである。しかし、決して妻に冷たく当たっていたわけではない。言うなれば普通に会話ができるようになったのである。


 「もしかしたら、それ故にあえて問いつめてこないのか?」


 俺の心は複雑だった。

 彼女と始めるときに考えたことは今でも頭の片隅にあった。いくら前の男と俺が違う人間であっても結婚しているという状況に変わりはない。それ故、簡単には前に進めない。彼女に対しては何ひとつ約束をしてあげられないこと、妻に対しては裏切り続けていることがそれぞれに対する後ろめたい思いとして心の奥に鎮座していた。

 当然、いつまでもこのままの状態でいられるわけがない。しかし、今は問題は先送りにしたい。何より彼女を失いたくはなかった。もう少し彼女といれば、おのずと結論が出るものと思っていた。俺はひどい男かもしれない。そう思いながら。


                 *


 8月1日。俺は彼女のいない赴任先へ戻ってきた。

 「1 Aug.

  I came back to Hamamatsu. & I don't drink.」

 しかし、この先が続かない。言葉が出てこないのだ。やはり、何も言わない妻の態度が返って気にかかる。

 「But little headache. 寝る。(-.-)-y~」

 こう書くのがやっとだった。しかし、眠れない。寝付いても、妙な夢を見て2,3時間毎に目を覚ましてしまう。こんな事を一晩中、繰り返していた。酒が欲しい。

 「いかんなぁ、どうかしてるぞ。」

 こんなときは酔ってしまえば簡単である。酔いに任せて深い眠りにつけば考えを断ち切ることができる。しかし、彼女が帰る直前に交わした約束もある。

 「あんまり飲まないでね。」

 俺は部屋に酒を置くことをやめ、飲みにも行かないように財布の中身も軽くしていた。あぁ、頭が痛い。なんでやねん。


 8月2日。この日は朝から打ち合わせやら何やらで忙しく、余計なことを考えている暇はなかった。バタバタしているうちに夜9時頃になり、飲み友達からメールが入った。

 「本日はまだ仕事すか?」

 「Yes. Plus I have no money. 銀行いきゃあ、ありますけどね。」

 「ちょっとお話がありやす。仕事が終わったら電話もらえやすか?」

 「了解です。Good newsでしょうね。」

 「両方す。」

 彼は最近、仕事が上手く行っていなかったこともあり、たまに会ってはその話を聞くことがあった。その日も結局、赤提灯で一杯ということに相成った。

 つまみをつつきながらビールを片手に話をしていたが、どうも変だ。酔いを自覚している。俺はビールぐらいでは酔うはずがないのだが。なにせ、若いときはジン、ウォッカ、アクアビット、バーボン、スコッチをストレートで飲んでいた俺だ。ビールなど酒ではない。ところがこの日はたったビール3杯で酔っていることを自覚するに至っていた。

 「何だ?いったい?」

 2時間ほど話して彼とは別れたが、自分の体調に釈然としないものがあった。なんだか疲れている。

 「2 Aug. babe, 今日も一日終わったよ。君が帰ってくる日が待ち遠しい。babe,

  I miss U.」


 最近では無意識のうちに彼女が残したネックレスをさわっている自分に気付き苦笑する。まいったねぇ、まだ1週間以上あるのに。それに彼女が2週間で帰ってくる保証などいったいどこにあるのだ?もし俺が彼女の身内だったら

 「どうせ、また悪いHaponに騙されているに決まっている。」

 と思うだろう。

 「もう日本に行くな。」

 とも言う。きっと言う。言うに違いない。しかし、今の俺には何もできない。彼女の言葉を信じて待つ以外ないのだ。こういうのを「まな板の上の恋」とは言わねーか。くそっ。


 8月3日。彼女の肖像画を描いていた。彼女と知り合ってからこれまでも何度か描いてはいたのだが。しかし、上手く行かない。当然である。俺は人の顔なんてほとんど描いたことがない。真剣に取り組むのは、中学の頃、美術の授業で水彩を使って自画像を描いて以来、二十数年ぶりである。普段、俺が描いているのは抽象、あるいは風景である。最近になって花なんぞを描き始めた。そんな程度だから技術が全くついてこない。

 「マネのようにはいかねぇな。」

 あほか、当たり前である。

 これまで人の顔を描かなかったのは描きたいと思わなかったからだ。俺が絵を再び始めたときに妻が「あたしの絵を描いて。」と言ったことがある。が、当時は抽象画に傾倒していたこともあり、「俺は抽象しか描かねぇ。」と丁重にお断りした。理由は簡単である。別に描きたいと思わなかったからである。絵は描きたいという衝動が命である。何となく描いていたのでは良いものはできない。その美しさに感動し、これを表現したい、描きたいと思い願う気持ちが重要である。それは生ものであり、放っておくと腐る。あるいは蒸発する。気持ちを維持できているうちに一気加勢に描き上げなければならない。その筆先には驚喜と狂気が走らなくてはならない。

 俺には画家さんの知り合いが何人かいる。ある画家さんはものの10分程度で1枚の油絵を仕上げてしまう。その画家さんがテレビに出演した際に花瓶に活けた花を9分30秒程度で一気に描き上げていた。そこに俺は狂気を感じた。鳥肌が立った。くれぐれも言っておくが、この鳥肌はかつて俺にさわられた妻が立てたものとは別のたぐいである。

 しかし、俺にはそこまでの狂気を発動することができない。どうしても上手く描こうなどというすけべぇ根性が見え隠れしてしまい、狂気の発動に集中することができない。これが中途半端なゲージツ家たる所以である。

 以前、水彩で描いた肖像画を彼女にプレゼントしたことがある。つまり彼女は俺がどんな絵を描くのか知っているのだが、それでも「上手い」と言ってくれる。彼女の言葉に嘘はない。本当に上手いと思ってくれている。ある日、俺に彼女の店を紹介した画家さんが酔っぱらった勢いで、

 「あいつはバカだぞ、絵だって上手くねぇしよ。」

 と、言ったそうである。怒った彼女はその日の仕事の後に俺に電話で

 「あったまに来たよー!よっぽどあなたの絵を見せようかと思ったよー!」

 「やめときな。」

 まぁ、彼女も水商売のプロであるからして、その場は黙って聞いていたそうである。賢明な判断だと思う。彼女には言わなかったが、絵のレベルが違いすぎる。良いということとお上手ということは明らかに違うのだ。もっとも、ある絵を見たときに「どう感じるか」は個人の問題であり、善し悪しなんてその人の価値基準でガラッと変わってしまうのも事実なのだが....。しかし、技術力や表現力は見る人が見ればわかってしまう。自分で言うのも何だが、素人としては自分は下手ではないと自負している。しかし、それで人に金を出してもらえるかというと?である。そのくらいの自覚はある。まぁ、まだまだ先はあるさ。


 妻の絵は断ったが彼女の場合は違っていた。彼女と知り合ってからというものの、デッサン、水彩、アクリル、画材を問わずにとにかく彼女を描きたくて仕方がない。何度も何度も描いてはみるが、納得のいくものができない。実物の美しさに加えて彼女の持つやさしさや強さといった内面にあるものが俺の絵からは伝わってこないのである。

 彼女は美しい。俺が手にしている写真の中には「おれの稚拙な腕で、いったいこれをどう表現すればいいのだ?」と筆をあきらめてしまうぐらい美しいものもある。

 それでも、俺は描き続けたい衝動を抑えられないでいた。誰に見てもらうでもない、自分自身のために。


 既にため息しか出ては来ない。彼女がいなくなったという事実が容赦なく俺に襲いかかる。「いったい何をしているのだろう?日本に来るための手続きで忙しいのか?それとも、家族に止められているのか?全く、電話ぐらいしろよな。」彼女は頑固である。誰に何を言われたところで素直には「ハイ」とは言わない。しかし、その反面、相手の言ったことをよくよく考え直し、従うべきだと判断した場合はたとえ文句を言いつつも従うケースもある。仮に子供の面倒を見ろとでも言われれば彼女とて考えざるを得ないだろう。俺の不安は増幅するばかりだ。会いたい。会って抱きしめたい。もし彼女が戻ってきても、俺はもう笑顔で迎える自信がない。また泣いてしまうかもしれない。いや、きっと泣くに決まっている。また、彼女にからかわれつつも、やっぱり泣いてしまうだろう。


 「俺はいったい、どうなっちまったんだ?」


 「3 Aug.

  Today, I painted Ur portraite. But It's not good.ごめんね、うまく描けな

  い。(>_<)

  会いたいよ~。会って、抱きしめたい。(T_T) 」


 あぁ、我ながら情けない。


 8月4日。俺の飲み友達にらっきょ屋さんがいる。別に彼がらっきょを作って売り歩いているわけではなく、彼のお母さんが作ったものを知り合いに安い値段で譲っているのである。パイナップルみたいな頭をして。彼の持ってくるらっきょは本当に旨い。良いらっきょを選りすぐって自家製でつけ込んだ優れものである。マズイ訳がない。それを口に含んだときに「あぁ、これがお袋の味って奴だよなぁ。」と思えるのである。もっとも俺のお袋はらっきょを漬けないのであるが。(^^;)

 以前、彼女に彼が持って来たらっきょの写真と、らっきょ屋さんの写真を見せたことがあるので彼のことは知っている。彼は先日のさよならの日にもメールを送ってきた。

 「お疲れ様。今日、どこかで飲んでる?」

 「Yes.今日で彼女が国へ帰るので、彼女の店にいるよ。来る?」

 「ごめん。そうだったね。ラブラブの邪魔はできないから遠慮します。店のラス

  トまでいるでしょ。」

 「いないと怒られるよ。」

 「そうだよね。今度、いつもの店以外で飲もう。そこでは話ができない内容なの

  で、今日は楽しんで。」

 「I got it! See U.」


 「誰?」

 彼女は俺にメールが来ると、その内容を知りたがる。

 「ん?この前のらっきょ屋さん。」

 「あぁ、呼べばいいのに。」

 「うん。呼んだけど、俺たちの邪魔はしないってさ。」


 その時の約束を今日、果たしてきた。

 「で、なんだい?話って?」

 「いやぁ、たいしたことじゃないんだけどね?あの店で彼女のことはあんまり言

  わない方がいいっすよ。俺、前に他の客に言いふらされて、やな思いしたんっ

  すよ。」

 そうか、こいつ俺のことを心配してくれてるんだ。

 「大丈夫。言って良いことと、悪いことは区別してるから。」

 「なら、いいんすけどね。」

 ありがたい話である。自分が以前、いやな思いをしたので、俺にはそうなって欲しくないと思い、わざわざ忠告してくれたのだ。スキンヘッドといい、パイナップル頭のらっきょ屋といい、見てくれは恐いが心の優しい人たちが俺の周りにはいてくれる。心底、ありがたいことである。しかし、後の話はほとんど愚痴だったが。


 「さびしいの?」

 「そりゃ、さびしいよ。」

 「そうか、で、いつ戻ってくるの?」

 「本人は2週間で戻るって豪語してるけど、連絡もないし正直わからない。

  まぁ、しゃあねーな。」

 「ふ~ん。」

 彼には強がって見せた。しょーがねぇよな俺は男だし。彼女がいないことが、こんなに応えるとは思っても見なかった。「どうせ2週間だろ。そんなのすぐだぜ、すぐ。」ところが、1週間で俺の神経はまいり始めている。


 「4 Aug.

  ねぇ、らっきょ屋さん憶えてる?彼が話があるって言うので、今日、会ってき

  た。でも、たいした話じゃなかったな。ただのグチだった。

  babe, I love U.& I really miss U.そろそろ君がいないことに耐えられなくな

  ってきた。君は何をしてるの?お願いだから早く帰って来て。(;_;)」


 このところ、メールの最後は泣き顔ばかりである。


8月5日。

 「明日からしばらく東京なので、今日は家に帰るね。こっちに戻るのは15日か16

  日だね」


8月6日。

 「Today I'm at Tokyo. I'll drink with my 部下 from now. But I'm so sad.

  babe, I miss U.(>_<)」


8月7日。

 「Last night, my young subordinate wept at 居酒屋. Because he was jilted

  by a girl who seeing 5 years. It's so sorry.だね。」


 「babe, I miss U. さびしくて心が こわれそうだよ。(>_<)」


 「ねぇ、今、何してるの?子供は元気?

  I feel so sad! sad, sad, sad!

  I want to cry!(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)(>_<)」


8月8日。

 いよいよ、おかしくなってきた。自然に涙があふれてくる。年のせいだろうか?最近は特に涙もろくなっている自分に驚くことがある。しかし、この不安と心細さは何なのだ?単に今ここに彼女がいないことが、帰ってくるかどうかが明確でないことが理由なのか?いや、場合によっては彼女が戻ってきても消えないかもしれない。たとえ二人が一緒にいても、存在としてひとつになることはない。俺たちはそれぞれ別の固体であり、決してひとつに融合することはないのだ。ある部分で連結することができたとしても、しょせんそれは刹那的なものだ。依存しあいながら存在する二つの個が愛し合っていることを理解しつつも不安と心細さを振り払えずにいるのは皮膚という外壁に阻まれ、ひとつに混ざり合うことができないという事実を無意識のうちに理解しているからかもしれない。

 溶けてしまいたい。二つの固体がまるで融点を越えた金属のように赤く熱を発しながらドロドロに溶けて、ひとつに混ざり合ってしまいたい。決して離れることのないように原子レベルからひとつのものとして混ざり合ってしまいたい。もし、そうすることができたなら俺たちを個々に分離することは不可能となり、このえも言われぬ不安と心細さから解放されることができるかもしれない。彼女の中に取り込まれてしまいたい。それができるのであれば俺という存在がこの世から消えてしまってもかまわない。

 そう言えば、提灯アンコウの中には雄が雌にひっついたまま、終いにゃ同化するヤツがいるそうである。実際にその映像を見たことがあるが、決して気色の良いもんじゃあなかったな。


 「I don't know what shall I do. I have no more to say. I wanna just hear Ur voice. I'm loving U so much.」


 約束したはずなのに、酒の量が増え始めている。彼女が帰ってくるまで最短でもあと数日、会えるまでとなると1週間ある。果たしてもつのだろうか?


8月9日。

 「I'm working at Mitaka today.」


8月10日。

 「babe, 今日もMitakaだよ。暑い。」

 「今日の仕事終わり。明日から休みだ。」


8月11日。

 何だろう?この落ち着きは。寂しさもピークを越えると無頓着になるのだろうか?この1日2日、妙に心が落ち着いている。早ければ明日には帰ってくると思うが、それも定かではない。いつ帰るかわかっていれば、そわそわもするのかもしれないが、わからないのであるからして待つ以外にはない。何とも言えない静けさである。

 そんなとき、1コールだけ携帯が鳴った。

 「ワン切りか?」

 非通知である。ワン切りであれば非通知な訳はないのであるが、俺の脳味噌はそこまで考えが及ぶほど動いていなかった。俺の携帯は彼女からのメール、着信は通常とは異なるメロディを設定してあり、俺はそれが鳴ることのみをひたすら待っていたようだ。だから非通知の着信など気にもかけなかった。

 それからしばらくして、何となくパソコンのメールを立ち上げたとき、

 「。」

 彼女だ!


 彼女はこちらの状態がわからないときには「。」のみのメールを打つ。初めてこれを受け取ったときは訳が分からず彼女に聞き返した。

 「君のメールは「。」だけだったよ。何これ?」

 「だって、あなたがどこで何してるかわからないから。もしかしたら奥さんが

  一緒にいるかもしれないでしょう。「。」だけなら奥さんに見られても平気

  かな思って。」

 「なるほどね。」

 しかし、返って「怪しい」と思われないか?という気がしないでもないが。


 「ねぇ、いつ帰ってきたの?もう浜松にいるの?何で電話くれなかった?

  子供は元気だった?」

 俺はせきを切ったようにキーボードを叩いた。彼女からの返事が待ち遠しい。

 「ええい!かったるい!電話しちゃる。」

 幸い妻は子供と風呂だ。彼女はすぐに電話に出た。

 「何!?いつ戻ったの?」

 「さっき。」

 「もう浜松にいるの?」

 「うん。」

 「家族に何か言われなかった?また悪いHaponに騙されてるって。」

 「言われたよ。でも私の答えは今の人は前の人と違うだから、騙されてもかまわ

  ない。」

 「あたしゃ、騙しません。」


 俺の知り合いの一人にパロパロがいる。彼女には話していないが。彼に「ぴったり2週間で戻ってきましたよ。まるでブーメランのように。」と伝えたところ、

 「そうか、第2章の始まりだね。」

 と言われた。

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