第11話
レストランでの食事の後、2人はチェーリオ子爵家への道を歩いていた。レストランでゆっくりしすぎてすっかり夜になってしまったので、郊外にある学校の屋敷へ戻るのを止めてマヤの下で一晩泊めてもらうことにしたのだ。
ダフニたちが巡っていた場所は貴族街で治安は極めてよいと言っていい。比較するなら日本の高級住宅街の治安と同程度と言ってよく、妙齢の女性が夜に1人で歩いても問題ないと考えられていた。
ダフニも王子であるものの貴族街をプライベートで散策する程度のことでわざわざ護衛が付くようなことはなく、今日もダフニたちは護衛なしで2人きりでの外出だった。これが第1王子のレオならば最低1人は付いていたはずだが、第5王子ともなればこの程度の扱いは珍しくもなかった。
「ダフニ様」
「何ですかな?」
歩いているとクロエが軽く袖を引いて小声で呼びかけてきた。
「何か変です」
周囲に対する観察眼はクロエの方がダフニよりも鋭い。メイドたるもの常に周囲に気を配るべしというメイド長の教えを実践しているというのもあるが、天性のものもあるのだろう。
「暗くて見えないですな」
そう言うとダフニは魔法で手元に光球を作り出した。眩しくないよう周囲だけを照らすように光の向きを外向きに調整してある。
「4人……5人ですな」
明るく照らされて、物陰に潜む人影がくっきりと浮かび上がった。手には刃物を持っているようであからさまに不穏な雰囲気だ。
――こんな貴族街でこれはどういうことですかな? 衛士はどうしたですな。
「ダフニ様!」
「ふむ。そばを離れてはいけないですな」
――このまま穏便にとはいかなさそうだけど、野犬のように串刺しにするのはまずいですな。どうするですかな?
悩んでいると1人が刃物を持って走りこんできた。眩しそうに目を細めたまま突っ込んでくる。ダフニの手元で輝いている光球のせいだ。
「吹き飛ぶですな」
ダフニがそう言うと走りこんできた男が後ろへ吹き飛んで壁に激突した。呻いているので意識はあるようだが痛みで身動きが取れないようだ。肋骨が折れているかもしれない。
だが、それをきっかけに残りの4人が一斉に飛び掛かってきた。
「何人で来ても同じですな」
そう言ってダフニが一歩踏み出すと同時に4人の男も最初の男と同様に吹き飛ばされて次々と壁にぶつかった。今度は当たり所が悪かったのか気絶したものもいるようだ。
「一体全体、この男たちは何なんで……」
倒れた男に近づいて正体を確かめようとしたところで、視界の端に何か動くものを見た気がした。雷に打たれたように後ろを振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの所から男1人が刃渡り30cmくらいの短剣を持ってクロエに向かって駆け寄ってきていた。
――
いつかの光景が脳裏によみがえり、ダフニは自分でも何を言っているのか分からない叫び声を上げてクロエの方へと突進していた。
「ダフニ様っ!!」
クロエに向かっていた男はダフニがまっすぐ飛び込んでくるのを見て即座に狙いを変更し、すれ違いざまにダフニのわき腹に短剣を突き立てた。
運動不足とはいえ全力疾走のスピードが出ている目標に横向きに突き立てられた短剣は、真っ直ぐには刺さらず背中側へと抜けるようにわき腹を切り裂いた。どくどくと吹き出す鮮血によってダフニの服は見る間に真っ赤に染まっていった。
「クロエ、逃げるですな」
動脈損傷の出血による血圧低下と痛みによるショックで視界が霞む中では、ダフニはクロエにそう呼びかけることしかできずすぐに意識を失ってしまった。
「やああああぁぁぁ!!」
ダフニが地面に崩れ落ちるのを見たクロエは叫び声を上げながら暴漢にタックルをすると、地面に落ちた短剣を手に持ち護身術として毎日のように繰り返してきた型通りに男の胸に突き刺し、返り血で汚れる顔を拭いもせずにダフニのもとへと駆け寄った。
強い光と大きな叫び声で異変を知った衛士たちが集まってきたのはその直後だった……
――……これは一体、私はどうなっているですかな……?
意識と無意識の間を何度かさまよったような感覚の後に、ぼんやりとダフニは意識を取り戻した。だが、体がだるくて声を出すこともできない。切られたわき腹は熱を持っているようで、頭は締め付けられるように痛い。
「うぅぁぁ」
声にならないうめき声を上げていると誰かが来て何かをしたようで、またダフニは無意識の中へと潜っていった。
次に目覚めた時には全身の倦怠感も傷口の痛みも頭の痛みも随分治まっていた。しかし、目には包帯か何かが巻かれているのか視界は真っ暗だった。
――はて、あの時刺されたのはわき腹だと思ったですな。頭に包帯とはどういうことですかな?
「……クロエ」
「っ! ダフニ様っ!!」
いつも側に控えているメイドの名を呼んでみると、やはり側にいたらしくすぐに返事が返ってきた。
「目の包帯を取ってもらえないですかな? このままでは前が見えないですな」
「ダフニ様、頭には包帯はしていませんが……。ダフニ様!?」
――包帯をしていないのに視界が真っ暗なのですな。ということは、
「ではこれは失明ですかな」
「お、お医者様を呼んできます」
慌ててクロエが走り出した足音とドアを開け閉めする音が響いた後、ダフニは真っ暗な世界に一人取り残されていた。
医者の診察を受けたところ、やはり失明した可能性が高いということだった。どうやら刀傷から悪い病原菌が侵入したらしく高熱を出して生死の境を数日間さまよっていたらしい。御典医の集中的な治療の結果、ようやく容体が安定して今に至ったのだが失明のような後遺症は十分想定される状況だったようだ。
「ダフニ様、申し訳ありません。私が体を張ってお守りしなければならなかったのに、こんなことに……」
「何を言うのですかな。クロエに怪我があったら私は自分が許せないですな。クロエが無事でよかったですな」
ダフニはクロエの頭を撫でてやろうと右手を動かしたが、目が見えないのでどこにクロエがいるか分からず、何となく空中を掴むような動きしかできなかった。
それを見たクロエは慌てて自分の両手を伸ばして宙を空しくさまようダフニの右手を包み込んだ。その上にさらにダフニが左手を乗せると指先に肌触りの違うものが触れた。
――クロエの手なのですな。……これはあの時の傷なのですな。
それは5歳の時に野犬に襲われたときの左手の傷痕だった。5年経った今でもその痕は消えることなくくっきりと残っていた。
――今度はきちんと守れたのですな。
「……ダフニ様。私はこれからダフニ様の目になります。一生お側にお仕えしてダフニ様をお支えいたします」
弱弱しい姿になりながらもなおクロエのことを気にかけるダフニを見て、クロエはどんなことになろうともダフニの側に居続けると心に誓ったのだった。
意識が回復した後、ダフニは1週間ほどで退院となったが、視力のない生活に慣れていないため学校には戻らず元の屋敷に戻って療養を続けることになった。
クロエも同じく学校を休んでダフニに付き添い、身の回りの世話を上から下まで全部引き受けた。視力がなければ本も読めないため、クロエはダフニの代わりに頻繁に学校の図書館で本を借りてきて時間を見つけては朗読をして聞かせた。
そんな生活の中、ダフニはクロエの手助けを受けながら失った視力を魔法で補う方法を模索していた。例えば、コウモリのように魔法で超音波を発生させて反射を観測するということも考えた。しかし、超音波を発生させる方は目途が立ったものの、反射を観測するための感覚器を作り出す手段が見つからず断念せざるをえなかった。
そんな日々を暮らすうち、クロエの献身的な介護で部屋の中とトイレには杖を持って行き来できるようにはなった。しかし、それより外の世界に歩み出ることはほとんど不可能だった。また読むことも書くことも自力ではままならないため、ダフニは必然的に自室にこもりがちになりベッドの上で1日を過ごすことが多くなった。
――このままではいけないとは思うけれどですな……
今日もまたクロエはダフニのために図書館に本を探しに行っていた。何もすることがないダフニは昔赤ちゃんだったときにしたようにフィボナッチ数列を数え始めていた。
――0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,233,377,610,987,1597,…………
数えている内に視界にちらつくものが見えた気がした。
――何ですかな?
さらに数えていると、どうやら規則的に明滅する光点のようなものが視界の中にあるようだ。意識するとそれは次第にはっきりと見えるようになり、明滅の規則も分かるようになった。光点はフィボナッチ数列の数字に対応して明滅していたのだ。
――これは面白いですな。
視力を失ってふさぎ込みかけていた心に、久しぶりに好奇心の火が灯った。
「ただいま戻りました」
クロエが帰ってくるころには、周囲の出来事に全く気付かなくなるほどダフニは新発見の現象に夢中になっていた。
――これは計算をして見るとどうなるのですかな? 1283×287
数式を念じてみると光点が明滅した。答えは368221だった。
――ふむ。まるで原始的なコンソールのようですな。というかむしろパンチカードですかな。入力は念じるだけなのですかな?
「7862827+1029309」
「ダフニ様、どうしたのですか?」
突然大きな声を出したダフニに驚いたクロエがすぐさま駆け寄ってきたがダフニはまだクロエがいることに気が付かない。集中すると耳が遠くなる傾向のあるダフニは、視力を失ってからは特に思考に没頭すると体でも揺らさない限りなかなか反応を返さないのだ。
――声には反応しないのですな。やはり念じないといけないのですな。
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