第9話

 授業が始まって10日ほどが経ったが、すでに生前20年近くも学生をやっていたせいで入学時点ですでにベテラン学生と変わらなかったダフニはマイペースな学校生活をスタートさせていた。具体的には、朝毎日クロエに起こされてようやく遅刻ギリギリに教室に到着していた。そのとばっちりでクロエまでいつも遅刻ギリギリになっていたのは秘密でも何でもない。


 教室ではダフニとイリスとマルクはいつも3人で騒ぎを起こしていた。


 マルクは身分と血統をいつも気にしていて、とにかく相手が誰であっても身分と血統を基にした順位をつけたがった。それが正しい社会の秩序なのだと主張していて、教室では自分が一番偉いのだから自分の意見に従うべきと周囲に命令をしていた。


 イリスは逆にとにかく実力主義であった。実はイリスはマルクのいとこであって、自身も伯爵令嬢であったので身分も血統も十分な立場だったが、そういうことには一切興味がない様子でとにかくバカか利口かという一点で序列を作りたがっていた。そのためマルクとは全くそりが合わずいつも口論になるが、最終的には「バカとは話にならないわ」と言ってマルクに譲る結果になっていた。


 その状況をさらに混乱させているのがダフニだった。ダフニは序列や秩序というものについて全く無頓着でかつ空気を読まない発言を不意打ちでするので、特にマルクの逆鱗にすぐに触れるのだった。その上、マルクが怒ると大抵の相手は怯むものだがダフニは全く動じないのでいつまでたっても収まらず、最終的にはマルクが疲れて不承不承に折れる形になるので、次第にマルクは心に不満を蓄積させていっていた。


 授業の内容は魔法、歴史、兵法、体育の4教科が中心であった。その中でも魔法は特に重視されていて、魔法の成績が全体の成績と言っても過言ではなかった。当然ではあるが、ダフニの魔法の成績はクラスの中で頭いくつ分か抜きんでていた。


 そんな次第で、少なくともダフニの目からは学校生活はおおむとどこおりなくスタートしていたのだが、1つだけ大きな問題があった。クロエが初級クラスの魔法の授業に取り残されてしまっているのだ。しかも、それが原因でクラスの中で孤立してしまっていた。


 そもそも、この学校ではできるだけ早く中級に進学するため初級の内容は入学前に先取り教育してくるのが常識なのだ。初級クラスにもカリキュラムは存在するが、保護者からは基礎的なことは飛ばして中級進級のための授業をするようにプレッシャーが掛けられていた。


 そんな所へ先取り教育をしてこなかったクロエが入学したのだ。特に魔法の授業は先取りなしだと理論はともかく実技がついて行けなかった。しかし、ただのメイドであるクロエのためだけに授業を遅らせることはできず、次第にクロエは授業から放置されるようになってきていた。


 友達に助けてもらおうと思っても、周囲は貴族の子弟ばかりの中で孤児出身のただのメイドであるクロエと友達になろうというものはいなかった。


 「よし、今日からクロエに魔法の特訓をするですな」


 クロエが魔法の実技で困っているという話を聞いて、ダフニはしばらく考えてからそう宣言した。


 「上手くできるか分からないけれど、私が教えてみるですな」


 実のところ、ダフニはあまり人にものを教えるのが得意ではなかった。生前も一所懸命に教えているつもりなのだが、何を言っているのか分からないと言われてしまってへこむことが多かった。だが、今クロエの家庭教師を頼める人物に心当たりはなかった。


 「心配しないでください。それよりもダフニ様はご自身の勉強の方に……」

 「クロエを学校に入れたのは私ですな。なら、私は責任があるのですな」


 それから、言わなかったがダフニにはもう一つ思惑があった。学校に入って本格的に魔法を学び始めて、自分の魔法と学校で教えている魔法がかなり異なっていることに改めて気づいたのだ。それで、自分のやり方が自分以外でも通用するのか誰かで試してみたいと思い始めていた。


 もちろん、その思いは単に自分のやり方の方が優れていることを証明したいというような見栄みえではなく、魔法の仕組みを解明してみたいという純粋な好奇心から来るものだったのは言うまでもない。


 「もう今日は遅いから、明日授業が終わったらすぐに家に帰ってきて始めるですな」

 「分かりました、ダフニ様」


 翌日、授業が終わった後すべてに優先させて一直線に帰ってきたクロエを待っていたのは算数の計算問題だった。


 「そこに書いてある問題をできるだけ早く暗算で解くのですな」

 「暗算ですか?」


 ダフニは大きくうなずいた。


 この世界では算数が自在にできる人間というのは少数派だ。学校に学びに来ているような人間でも算数ができないというものが少なからずいるほどだ。ましてただのメイドが身につけているような教養ではない。


 しかし、クロエは小さいころからダフニに算数を習っていた。そのため、整数、小数、分数の四則演算については一通りできるようになっていた。なので、10桁掛ける10桁の掛け算のような複雑な計算であっても筆算をして時間をかければ答えを出すことはできる。だが、当然ながら暗算となると2桁掛ける2桁くらいでも難しい。


 とはいえ、これは主人であるダフニからの命令だったので、無理ですと投げだすわけにはいかない。一所懸命暗算で答えを導こうと頭を悩ませた。


 「Don't think, feel.ですな。答えを考えるのではなくこの式を頭に思い浮かべるのですな」

 「式を頭にですか?」

 「ですな。そうすれば答えが自然に頭に浮かぶのですな」

 「…………」

 「ダメですかな? こう、頭に浮かべてEnterキーを押す感じなのですな」

 「エン……何ですか?」


 ダフニは自分が魔法を使うときに感じていることを伝えようと言葉を重ねるが、いまいちクロエには伝わらず空しく時間が過ぎて行った。ダフニのイメージはまさにコンピューターを脳内で使っている感じなのだが、コンピューターを使ったことのないクロエにそれをそのまま伝えるのは無理があった。


 「ふむ。上手くいかないですな」

 「申し訳ございません……」

 「クロエのせいではないですな。謝らなくていいですな」


 明らかにこれはクロエのせいではなくダフニの教え方か下手なせいだった。流石に当のダフニもそのことくらいはすぐに理解できた。


 ――とはいえ、困ったのですな。どうやって説明したらいいですかな。


 しばらくダフニはその場で考えていたが、すぐにいい方法を思いつかなかったのでその日の魔法の練習は中止して一晩ゆっくり考えることにした。


 「よい方法を思いつきましたな」


 翌日、ダフニはクロエににこにことして告げた。


 「このカードを使うですな」


 ダフニが出したのは数字と算数記号の書かれたトランプより一回り小さいカードだった。


 「これで式を作ってみるのですな」


 目的が分からないながらもダフニが言っているのだからとクロエは昨日のプリントにあった式を一つ並べてみた。


 375 * 42


 すると、ダフニは即座に式の下に答えの数字をカードで並べた。


 15414


 「では、どんどん行くのですな」

 「えっ?」


 クロエはこれの行為に何の意味があるのか全く分からなかったのでダフニに急かされて困惑していたが、結局勢いに流されてそのカードゲームのようなものを夜が更けるまで続けてしまった。


 「じゃあ、今度はカードを使わないでやってみるのですな」

 「どういうことですか?」

 「頭の中だけでカードを並べてみるのですな。(354 + 65) * 52」


 ダフニが式を言った時、クロエはとっさに頭の中で並べたカードを思い浮かべた。今日は今まで何百回と繰り返していたので、カードがなくなっても頭が勝手にその状況を再現したのだ。


 すると不思議なことに、その想像上の並べたカードの下に答えのカードが並べられたのが見えた気がした。クロエは思わずその数字を声に出して読み上げた。


 「21788」

 「正解ですな」

 「え、今私は何を?」

 「これで第1段階突破ですな。これからしばらくは毎日この練習を続けるですな」


 そう言って、この日の魔法の練習は終わった。


 その後もクロエの魔法の練習と称した暗算練習は毎日続けられた。ダフニの目論見としてはまず暗算で魔法発動の感覚を掴んでから実際の魔法の練習に進むのだ。クロエは暗算の練習を1週間続けてから本格的な魔法の練習へと進んだ。


 「魔法の発動も暗算と同じなのですな。頭の中に呪文の内容をしっかり思い浮かべた状態で暗算をするときのように実行すればよいだけなのですな」


 ダフニはこれで自分の仕事はやりきったというような表情でクロエにそう言ったが、言われたクロエにしてみるとこれまで練習してきた暗算と学校で習う魔法との関係性が全く想像できず、何か哲学的なお題目を唱えられたような気持ちでぽかんとしてしまった。


 「とりあえず、難しく考えずにまずやってみるですな」


 悩み始めた様子のクロエの背中をぽんぽんとたたいてダフニは少し離れたところにある手近な石を指さした。魔法をその石に向かって撃てというのだ。


 「豊原に集いし炎の精霊に請い願い奉る。我、汝に一つの求めあり。眼前の石に向かい水球の回廊を作りたまへ。さすれば我、汝に魔力1を与えるものなり。コール」


 クロエが呪文を唱えるが魔法は発動しない。


 「口で唱えるだけじゃなくて、頭の中に文字を思い浮かべるのですな。暗算の練習でやったのと同じなのですな」

 「……豊原に集いし炎の精霊に請い願い奉る。我、汝に一つの求めあり。眼前の石に向かい水球の回廊を作りたまへ。さすれば我、汝に魔力1を与えるものなり。コール」


 今度はこぶし大の水球が生まれて石にぶつかった。


 「! ダフニ様、できました!!」

 「うむ。よかったですな」


 その日1日クロエは日が暮れるまで練習を続けて、成功率は4割というところだった。魔法が使えるようになったばかりとしては成功率は高い方だった。


 それからクロエは毎日欠かさず練習を重ねて成功率は着実に上がっていった。2か月弱もするころには基本的な魔法については発動に失敗することはなくなった。


 「よし。では行ってらっしゃいですな」

 「はい、ダフニ様。行ってまいります」


 そして、満を持してクロエは中級進級試験を受けることになった。クロエはダフニに見送られていつもの教室ではなく試験会場の方へと向かっていった。


 中級進級試験は3か月おきに定期的に行われていて、受験は任意で希望者のみが受験することになっている。前回の試験は前学期の終わりごろに行われていて、そこで進級した人たちが今学期から新入生と共に中級クラスに編入されていた。


 今日の進級試験は新学期始まって最初の試験だ。例年この回の試験は学年末の試験に次いで受験者が多い。理由は、入学時に初級に配属されたことに不満を覚えている生徒(大抵はその親の方がもっと不満を覚えている)が、リベンジで受験するのだ。


 だが、進級試験の合格率はそれほど高くはない。特に学年最初のこの回の試験は新入生が大量受験することもあって合格率は数パーセントに留まるのが普通だ。そこでようやく鼻を折られてから本当の学校生活が始まると言って過言でないのだが、逆に言えばこの試験までは皆自分の力を信じている、というより最初のクラス分けを信じたくないと思っているのだ。


 「37番、クロエさん。入ってください」


 待合室で待っているとクロエの名前が呼ばれた。いよいよだ。


 「ねえ、あの子、何で試験受けてるの?」

 「何にも勉強してないのにコネでここに来た子でしょ。またコネなんじゃない?」

 「ただのメイドなのに学校に来るなんて、絶対なんか勘違いしてるよね」


 後ろの方で誰かが陰口をささやいているがクロエは気にせず試験場へと向かった。そういう自分たちも実力で貴族になったわけではないのだが、いちいち腹を立てていても仕方がない。一流のメイドは平常心が大切なのだとメイド長が言っていた。


 試験の内容は試験場に立てられた10本の案山子に魔法を順次当てて破壊するというものだった。ただしその間に全部で3種類以上の魔法を成功させなければならず、2回失敗すると即失格だ。その上で魔法の質を考慮して合否が決まる。


 簡単に聞こえるかもしれないが、成功率90%以上で3種類以上の魔法を使いこなし、一定水準以上の質と等身大の案山子を破壊できる威力を出さなければいけないということは初級クラスとしてはなかなか難しい。中には最後までこの課題に合格できず初級のまま学校を卒業する生徒も例年一定数存在する程には高いハードルだ。


 「37番、クロエです」

 「その円の中に立って好きなタイミングで始めてください」

 「はい。豊原に集いし……」


 クロエはその日10体の案山子を10種類の魔法を使ってノーミスで破壊し、文句なしで中級への進級が許可された。

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