National Preserve - レッドロック・キャニオン州立公園

――2023年5月25日、14時45分、アメリカ、ネバダ州、

                 レッドロック・キャニオン州立公園――


 ダンカン・リーブスと妻のロレッタは、砂漠に降り注ぐ直射日光を避けて、灌木の葉が作る小さな影の下で汗を拭っていた。その隣の灌木の下には、息子のデリックと愛犬ハリーがいた。


 ダンカンは、地図の上にコンパス当ててみた。

 北の方向には、レッドロック・キャニオンの名の通り、赤い色をした岩山が広がっており、南には砂漠地帯が続いてる。

「方角は間違っていないな。あと30分も歩けば、正規のコースに出るだろう」

「こんなに歩きづらいとは思わなかったわね」

「まったくその通り。しかも、こんなに小石だらけとは思わなかった」

 ダンカンは呆れたとでもいうように、両手を開いた仕草をし、ロレッタもそれに応じるように、首を横に振った。


 ダンカンの傍らからは、「ハア、ハア」という粗い息がずっと聞こえていた。それは今年で6歳になる愛犬のハリーが、だらりと舌を出して暑さに喘いでいる呼吸音だった。地面に力なく横たわったハリーの姿を見かねて、息子デリックがガイドブックで扇いで、懸命にハリーに風を送っていた。

 ハリーの犬種はアイリッシュ・セッター。アイルランド原産で、赤い綺麗な長い毛が特徴的だ。大型犬で忠誠心が高く、猟犬になるほど運動量が豊富。ダンカンの好みにぴったりの犬だが、暑さと寒さの両方に弱いのが玉に瑕だ。

 ダンカンは立ちあがると、ハリーにたっぷりと水を飲ませてやった。熱中症にならないようにするためだ。


 ダンカン一家は宿泊しているラスベガスから、州道159号を通って早朝の涼しいうちにこの地を訪れ、ビジターセンターに車を駐めていた。トレイルコース伝いに砂漠地帯を抜けて、昼前には折り返し地点と定めた、休憩所に着く予定だった。

 計画が狂ってしまったのは、ロレッタが何気なく言った一言が原因だった。何度も訪れている慣れた場所なので、急に冒険心が芽生えたロレッタが、たまにはコースを外れてみようと言い出したのだ。

 地図を見ればこのあたり一帯の地形は平坦だ。右に迂回しているトレイルコースを、ショートカットするように直進するのであれば、万が一道に迷ったとしても方角を間違わない限り、必ず元のトレイルコースに行き当たる。

「行ってみるか」

 と、ダンカンも同意した。


 コースを外れて10分ほどした頃、ダンカンは地図から読み取った情報と現実が違う事に気がついた。地図で見るで地形は平坦だが、実際には緩やかなアンジュレーションがあり、最大の高低差は5mほど――、もしかしたらそれ以上もあるだろうと思われた。

 そしてそれよりも問題だったのが、足元が砂地から石ころだらけに変化したことだった。人間ならばその程度のことは平気だが、愛犬ハリーにとっては酷な状況だった。石がころが放つ輻射熱が、体高の低いハリーを容赦なく襲ったからだ。


 レッドロック・キャニオンは、ラスベガスから車でわずか30分ほどの場所にある観光スポットで、標高が高いために気温が低く、過ごしやすい場所だ。ラスベガスが摂氏40度になっても、レッドロック・キャニオンでは気温が35度もいかないのだ。

 しかしそれは人間にとっての体感温度だ。地面から40cmほどの高さで、しかも石ころからの熱を受るハリーは、恐らく40度を超える暑さを感じてているだろう。次第に体力を奪われたハリーが動けなくなったため、30kgほどもあるその体を、家族で抱えてこの灌木まで運んだのだ。

「無理に歩かず、日が陰るまでここにいた方がいいだろう」

 ダンカンが言った。

「あと少しなのにね」

 と、ロレッタが応じたが、このまま無理をしてハリーを歩かせると、本当に熱中症になりけねない。

 

 急にハリーの目に警戒の色が浮かんだのは、その時だった。ハリーは立ち上がると、南の方向をじっと見つめた。驚いたデリックはハリーの視線の先に目をやり、ダンカンとロレッタもつられてそちらを見た。

 そこには何もなく。ずっと見慣れた砂と石ころと灌木が続いているだけだった。ハリーはそれでも警戒を解かず、やがて一声「ワン」と吠えた。


 その声を切っ掛けとしたかのように、視線の先の方角から、『ゴー』という重く腹に響く音が聞こえてきた。そしてその音は、赤い岩山に跳ね返されて、干渉音となりってフワフワと揺れた。

 音は次第に大きくなり、同時に重低音から周波数が上がってきた。


 ハリーは「ワン、ワン」と何度も吠え、ロレッタとデリックは恐怖に駆られてダンカンにしがみついた。

 音が一際激しく、高くなったと思った瞬間のことだった。目の前の300mほど先の地面から、不意に見たことも無い物体が飛び出した。それはひし形をした飛翔体で、まるで四角い板が飛んでいるように思えた。


 1つ、2つ、3つ、4つ――

 4つめの飛翔体が目の前を通り過ぎた途端に、高まっていた音はドップラー効果によって急に低くなった。岩山に跳ね返って、何度も波のように押し寄せてくるその音は、まるで稲妻の残響のように思えた。

 4つの飛翔体は、地形のアンジュレーションに沿って、地面すれすれに見え隠れしながら、やがて高度を上げた。そしてそれは頭上に位置する太陽の光を反射し、光り輝いて見えた。

 眩しい光を瞬かせながら、その飛翔体は赤い岩山の稜線の上を飛び越えると、その向こう側に姿を消した。


「UFO?」

 ロレッタが訊いた。

「違うな、あれはジェットエンジンの音に間違いない」

 ダンカンが答えた。


 ダンカンの足元では、デリックが今にも泣きだしそうに顔をゆがめ、それを慰めようとハリーは、デリックの顔を何度も舐めた。

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