きゅっきゅっとグラスを磨く音。まるでクリスタルのように輝くグラス。静かな雰囲気に、色とりどりのお酒が、棚に置かれる。開店前Bar。路地の奥にあるBar。

 Bar「L」。このバーにはなぜか一つの、酒飲みの間に一つのジンクスがある。このBarは、本当に疲れた者。うちひしがれたもの。虐げられたもの。何か大切なものを、欠いてしまった者。そんな意味で、本当に行き詰ったものにしか現れない、不思議な酒場だ。そしてその店に現れる常連は、ある一時から急に通わなくなるなるという。

 間取りの関係上L字のカウンターしかないが、それだけで十分だった。カウンターには、若い男性が一人。スーツ姿の、若い男。数十年、その存在が確認されているにも関わらず、その姿は変わらない。

 今日もBarには、クリスタルを磨く男が一人…立っていた。


 夜も更けたころだ。店内の静寂を破るベルの音が鳴り響いた。

「いらっしゃいませ」

 入り口には男が立っていた。30代くらいの無精ひげを生やし、よれたコートを着た顔色の悪い男だ。

「こちらへ」

「ああ、ありがとう」

 バーテンダーは自分の目の前の席を紹介し、男はそこにズシリと座った。

「お酒はいかがいたしましょうか?」

「強い酒がいい…そうだな…テキーラがいいな」に

「かしこまりました。ライムとソルト…どちらになさいますか?」

「ライムで」

「かしこまりました」

 バーテンダーは一つ、透き通ったショットグラスに琥珀色の液体を注ぐ。最後にそこにライムを飾り付ける。

「お待たせしました」

男の目の前に現れるテキーラとライム。琥珀色の海に、緑が生い茂る島があるようだ。男はライムを啜り、一気にテキーラを喉へ流し込む。

「はぁ…」

 飲み干した男は勢いよくグラスを机にたたきつける。俯いたまま、バーテンダーへとグラスを押し返す。

「はぁ…どうしてなんだ…」

「いかがなさいました…?」

「最近何を飲んでも酔わねぇんだ。ウィスキー、日本酒、ウォッカ…。ありとあらゆる種類の酒を飲んだが。どーも酔わない。ショットガンも試してみたが、まったく酔わなかったんだ…」

「酔えない…ですか」

「ああ…何かがふっと消えちまったような感じだ」

「つかぬことをお聞きしますが、お客様は最近体調を崩しがちではございませんか?」

「ああ…やっぱり顔色に出てるかね…」

「はい、真っ白でございます」

「そうかぁ…。今から10年くらい前は1日2日で治っちまってたんだが、もう1週間も続いている。病院にも行ったが医者にも原因がわからずお手上げだそうだ。まったく、やになっちまうよ」

「なるほど…」

「思えば最近忙しいからな…それが原因かもしれねぇ…」

「失礼ですが、ご職業は?」

「漫画家だ。月間雑誌に載せてもらってる」

「漫画家ですか。それはまた素晴らしい職業で」

「そうでもねぇよ…。結局売れなきゃ生き残れねぇ世界さ。弱肉強食よ。幸いなことに俺は売れてる方だからまだいい。だがよ…何かがすっぽりと抜けちまってるんだ…俺の漫画には。昔あった何かがよ…」

 男は哀愁を漂わせつつも、どこか魂の抜けたような顔つきで語る。

「なるほど…。ちなみにあなたが初めて描いた作品には、その何かがありましたか?」

「ああもちろんだ。あの頃はよかった。エネルギーにあふれ、読んでくれる人たちに夢を魅せられたらと思って必死で描いてた。だがよ…10年もやってくうちに次第にどんどん機械になっちまった。俺のやってることは印刷機と同じよ。いつの間にか読者の顔色をうかがうようになり、編集を気にするようになり…。俺の漫画はどこいっちまったんだろうな…なんて思うようになっちまったんだ。そこからだ。俺の漫画に合った何かがすぅーっと消えちまった。あれだけ楽しかった漫画が、単なる仕事に変わっちまった。なんも楽しくねぇ。ただただインクを紙にたらしてるだけに過ぎねぇ。俺はこんな紙クズを書くためにペンを持ってるのかって…いやになるぜ…」

まさしく死人のような顔だ。生きる目的を失ったような。歩く屍のような顔だ。

「なるほど…。お客様、あなたにピッタリのカクテルがございます。いかがですか?お代は結構ですので」

「俺にピッタリのカクテル…?面白れぇ。一杯いただこうじゃねぇか」

「かしこまりました」

 バーテンダーはボトル棚から、一本の透明な酒をとりだした。

「こちらのお酒を使ったカクテルとなります」

「ん?サンブーカ…?」

「はい、イタリア名産のリキュールです。こちらを傷のないショットグラスへ注ぎます」

 美しい透明なせせらぎが、ショットグラスの中へ流れ落ちる。

「この状態を真っ白な何も書かれてない紙と例えます」

「おう…」

「次にコーヒー豆を2粒ほど…」

 サンブーカが注がれたショットグラスの上に、コーヒー豆が2つ浮かんでいる。

「なるほどこのコーヒー豆がインクってか」

「はい。これが今のあなたの漫画です。ここに、今あなたに足りないもう一つの要素を取り入れます」

 バーテンダーがカウンターの下から取り出したのは、ノズルのついたライターだった。

「おい…まさか!!」

 カチッ。漫画の上に炎が宿る。青白い炎はゆらゆらと揺れ動く。男はその青白い炎をただじっと見つめる。

「ああこれだ…。今の俺に足りねぇものは…。昔の俺を思い出す…。右も左もわからねぇ漫画の世界で、必死でペン握って、夢を描いてた…。がむしゃらにただ描いてた。絵もへったくそだって怒られたっけなぁ…」

 炎。揺らめく炎。熱。疲れた心をやさしく温める炎。はるか昔に、男の中で消えてしまった炎。バーテンダーは、コースターでグラスをふさぎ、炎を消す。

「お待たせしました。サンブーカ・コン・モスカです。なっておりますので、少し冷ましてからお飲みください」

男は冷めるまでの間、そのグラスを眺める。俺の漫画にないものがこれだった…。そんなような目でグラスを見つめる。

 少し時間がたって、男はグラスに指をあてる。もう大丈夫のようだ。男はそのショットグラスをとり、一気に口の中に流す。

「なんだこりゃ…昔の俺じゃねぇか…。ちょっと甘くて…ほろ苦くて…」

男の瞳から一粒のダイヤモンドが落ちる。ココロの暖炉に、炎が宿る合図だった。



 店を出た男は、入ってきたときとは違う足取りだった。ずっしりと蹴り、堂々とした足取りでビルの谷間を歩く。その堂々たる足取りは、先ほどまで屍だった男とは思えぬほど力強く、自信に満ち溢れていた。

「もう一度…もう一度、読者に夢を」

 彼はそうぶつぶつとつぶやきながら、ネオンの光の中へと消えていった。

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