Bar「L」

つばめ

錆びた釘

 きゅっきゅっとグラスを磨く音。まるでクリスタルのように輝くグラス。静かな雰囲気に、色とりどりのお酒が、棚に置かれる。開店前Bar。路地の奥にあるBar。

 Bar「L」。このバーにはなぜか一つの、酒飲みの間に一つのジンクスがある。このBarは、本当に疲れた者。うちひしがれたもの。虐げられたもの。何か大切なものを、欠いてしまった者。そんな意味で、本当に行き詰ったものにしか現れない、不思議な酒場だ。そしてその店に現れる常連は、ある一時から急に通わなくなるなるという。

 間取りの関係上L字のカウンターしかないが、それだけで十分だった。カウンターには、若い男性が一人。スーツ姿の、若い男。数十年、その存在が確認されているにも関わらず、その姿は変わらない。

 今日もBarには、クリスタルを磨く男が一人…立っていた。


 ある夕方、太陽がビルに沈むころに、一人の女性がそのトビラを開けた。

「いらっしゃいませ」

バーテンダーがその女性の方を向き一礼をする。

「あ…えと…こういうところは…初めてで…」

「なるほど、でしたらこちらの席はいかがですか?」

「えっあ…はい…」

 女性はゆっくりとカウンターの、バーテンダーの真正面へと座る。俯いたままでいる女性は、バーテンダーの顔もみず、今にも死にそうなほど顔色が悪い。

「お酒はいかがいたしましょうか?」

「あ…、一つ気になるお酒があるのですが…それをお願いしてもよろしいですか?」

「どちらのお酒でございましょうか?」

「錆びたラスティ・ネイルを…」

「かしこまりました。甘さはいかがいたしましょうか?」

「あ…ほどほどで…」

 女性から少し距離のおかれた場所に、輝くグラスが置かれる。そこに注がれるのは…二種類のお酒。バーテンダーはゆっくりとグラスに注ぐ。それを静かにまぜる。くるくるくるくる。螺旋、飲み込まれるような螺旋。その赤茶色のお酒が、女性を誘う。

「お待たせしました。ラスティ・ネイルです」

「ありがとう…」

 女性は口紅を気にしつつ、少し唇を近づけた。

「いかがでございましょうか」

「おいしい…です…」

 にこりと笑う。愛想笑いなのは誰が見ても明らかだ。女性は再び、グラスに唇を近づける。

「ところで」

 バーテンダーが、女性に話しかける。

「Barは初めてとおっしゃっていましたね?どうして…このカクテルを?」

「ええ…このお酒は…私そのものだと思ったんです…。そして飲んでみて…その考えは確信へと変わりました…」

「なるほど…。よければ、その理由を詳しく教えていただけませんか?」

 女性はこと…と、コースターの上にグラスを置いた。

「私は…今まで一人りぼっちでした…今でも変わりないですが…。職場でも全く友達ができなくて…孤立したまま…。誰も私を認めてくれない…。上司からは使い物にならないとさえ…。そんなとき…見つけてしまったんです。ラスティネイル。錆びた釘。使い物にならない、錆びついた釘…。それが私だなって思ったんです。飲んでみてわかりました。この甘さは…今までぬるま湯につかってきて…自ら何もつかもうとしてこなかった…私自身なんだなって…」

 女性は俯き涙がカウンターへと一粒…二粒…滴る。

「失礼ですが」

 バーテンダーは女性の意識を自分に向けさせる。

「お客様からは、なにかぽっかりと…抜け落ちた雰囲気を感じます」

「そう…ですか…」

 救いを求めるかのような顔を踏みにじるようなバーテンダーの顔。まさに急降下。

「しかし…」

 バーテンダーはいくつかのボトルをとり、女性の前に見せる。

「あなたは変わることができる」

きっぱりと女性に述べる。

「私が…かわる…?」

「もちろんです。いくつか試してみますか?お代は結構ですので」

女性は少し黙した後に…

「はい…ぜひ」

「では…」

 さっきとは別のレシピでお酒を混ぜる。

「先ほどはドランブイ、という甘めのリキュールに、スコッチウィスキーを合わせましたが、スコッチウィスキーをウォッカに変えると…」

 再び彼女の目の前でくるくると…

「お待たせしました。ルシアン・ネイルでございます。ぜひ…」

女性は再び唇をグラスにつける。

「ん…ドライな感じ…さっきとは全然違う」

「そして少しレシピはかけ離れてしまいますが、アイリッシュ・ウィスキーに、アイリッシュ・ミストを加えると…?」

 女性はグラスの竜巻に、興味津々だ。

「こちらはミスティ・ネイル」

「ん…ラスティネイルやルシアンネイルと違った…不思議な味…」

 女性は再びグラスを置いて、俯いてしまう。

「その中でも私は…錆びたラスティ・ネイル…なんですね…」

「ふふふ…あともう一つ…残っていますよ。あなたの可能性を示す最高のカクテルが…」

 バーテンダーは一本のスコッチウィスキーを取り出した。

「仮にこのウィスキーが、あなただとしましょう。そこにこのリキュールを足してみましょう。するとすごいことが起きるのです」

「あま…れっと…?」

「はい、こちらを合わせますと…」

 バーテンダーはどこか明るい笑顔を見せながら、二つのお酒を合わせていく。

「お待たせしました…。ゴッドファーザーです」

「ゴッド…ファーザー…?」

「はい、まずは一口…」

 女性はゆっくりと唇を近づける。

「うん…名前に恥じない…ずしりと重たい味」

「ゴッドファーザーという小説はご存じで?」

「いえ…」

「ある男が、家族を守り、友達を信じるという信念を貫き、冷酷になりつつも組織をまとめ上げていく…という小説です」

「なるほど…」

「あなたは冷酷になる必要はありません。しかし人は少しずつ、何かの要素で変わっていくと私は思っています。例えば今はただのスコッチウィスキーでも、あなたが望めば、このアマレットが注がれる。つまり、あなたもこのカクテルのように、人を惹きつける魅力を持てる…と私は思います」

「私が…ゴッドファーザー…」

「ふふふ…そのためにはまず、ご自身を見つめてみてはいかがでしょうか」

 はっとした顔で女性は最初のカクテルを見つめる。自分自身だと卑下してきた、その錆びた釘に…

 女性はもう一度ラスティ・ネイルに口をつける。その瞬間、彼女の瞳から涙が流れた。

「甘さの中に…スコッチウィスキーの深みを…感じました…」

 それは彼女の可能性。甘さの中に隠れた、深み。彼女自身のくらい殻に隠れた、本当の自分。

「ちなみに、釘がなぜ錆びても折れないのか…考えたことはございますか?」

「いいえ…そういえば、どうしてなのでしょう…」

「それは、錆びつきもろくなったとしても、それは外見だけの姿。その錆びの内側には、決して折れない芯があるのです」

「なるほど…」

「あなたの中にも、きっと折れない芯がありますよ」

「ええ…」

 女性は涙を流しながら、自分自身へと向き合っていった。



 女性はBarを出る。夜も更けていて、ビルの隙間から見える星々は、普段から見ているのにいつも以上に美しく、どこか寂しいものだった。

 女性はもう一度このBarに訪れたいと場所を記憶しようとする。しかし振り向いても、Barの扉はどこにも見当たらなかった。

 女性がまた、ココロの癒しを求めるときに再び扉は姿を現すだろう。


 Bar「L」の扉が。

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