第17話 オープン2

 私が最初に出した札は、ものすごく強力ではあるけど、決して切り札ではない。私が特殊な性を持っているということは、一番肝心な母と植田さんには既知のこと。今更オープンにしたところで何の意味もないんだ。


 一枚目の札は、みんなの注目を集めて私に強い関心を持ってもらうためのもので、本筋にはあまり関わらない。それより、私と母とのやり取りの時に第三者が同席しているという状況が、どうしても欲しいんだ。一枚目は、そのための撒き餌と言ってもいいかもしれない。

 母の感情爆発。植田さんの理詰めの説得。二人はとても強力なツールを持ってる。タッグを組んだ二人にそのツールを使われると、私は太刀打ち出来ない。二対一になる状況だけはどうしても防がないとならない。だから、二人に強い心理的圧力をかけられる第三者の存在がどうしても不可欠なんだ。


 ふう……。出さないで済むなら出したくなかった二枚目の札を、ここで使わざるを得ない。それは一枚目と逆で、お客さんたちには大した意味はない。でも、私が鶏小屋を破壊するには、どうしても必要なんだ。

 デイパックから茶封筒を出して封を切り、畳まれていた紙片を引っ張り出す。


「私の知能がずっと小学校低学年のままなら、特に何も考えなかったかもしれません。でも、私は天才ではないけど、知恵遅れでもないんです。知的好奇心はあるし、前沢先生に教わってずっと勉強し、いろんなことを知ってます。自分が異端視されるリスクは分かりますが、そのリスクを負ってでもいずれ鶏小屋を出ないとならないってことは意識するんです」


 ぐるっとみんなを見回す。


「自立前提で自分の置かれている環境を見たら、鶏小屋に強い不満を感じるのは当たり前でしょう?」

「せやな」


 店長が、うんうんと頷いた。


「そしてね。不満ていうだけじゃない。それがものすごく奇妙で不自然だっていうことにも気づいてしまうんです」

「奇妙? なんで?」


 そう突っ込んだメリーが、ぐらっと巨体を傾けた。

 さあ。いよいよだ。覚悟を決めて、強く胸を張った。


「私が閉じ込められてた鶏小屋には、飼育員が三人しかいませんでした。母、植田さん、前沢先生。ねえ、それってどっかおかしくありません?」


 し……ん。事務室の中が奇妙な沈黙で満たされる。全く見当が付かない人。なんとなく勘付いてるけど口に出さない人。いろいろなんだろう。


「まずおかしいのは、そこに父がいないことです。私は父を知らないんですよ」

「ああ、ほか」

「ええ。夫婦の三組に一組は壊れる時代ですから、バツならば珍しくもなんともない」

「そうよね」


 メリーが、どんと足踏みした。今シングルというだけで、メリーにも何か同じような経験があるのかもしれないね。


「でもね。もしそうなら、母が専業主婦としてずーっと家にいるってことがどうにもこうにもおかしいんです」

「あ!!」


 ざっ! へたり込んでる母と植田さん、前沢先生を除いて、全員が立ち上がった。


「でしょ?」


 一人一人にゆっくり視線を送り、表情を確かめる。


「私から目を離すと鶏小屋を脱走しかねない。でも母が私に密着して常時監視するなら、どうしてもどこかに財源がいるんですよ。もし父が私と母を捨てて離婚し、慰謝料や養育費を払っていたとしても」


 ぴっ! 母を指差す。


「補償が十年、十五年保つとは思えないんです。うちは豪邸ではないし、普段の生活も質素ですけど、二人で暮らしていくにはとても……」

「ありえないね!」


 メリーが、びしっと否定した。


「ありえないよ。あんたの親父がアラブの大富豪っていうならともかくね」

「ですよね。じゃあ、私と母の生活費はどこから出ていたんでしょう? しかも、カウンセラーとして植田さんを、かてきょとして前沢先生を雇ってる。そのお金はどこから? どこから出てるの?」


 ざわざわざわざわっ……室内がせわしなくざわついた。


「ずっと家にいて、ほとんど外出することがない母。その母が自宅で出来る事業や仕事でお金を稼いでる? うーん。私はどうしてもそういう気配を感じ取れませんでした。母はいつも家事をこなしていました。それ以外に母が何かに熱中している姿というのを見たことがないんです。じゃあ、なぜその生活が破綻なく維持できるの?」


 そうさ。私の立場になれば、誰もが抱く疑問だと思う。


「もう一つ違和感を抱いたことがあります。カウンセラーの植田さんは臨床心理士の資格をお持ちで、企業のメンタルヘルスケアに関するアドバイザーを務められています。とても忙しい方なんですよ。その忙しい植田さんが必ず毎日うちに来て、私のカウンセリングをしていく。有料で企業のアドバイザーをされてる方が、お金にならないうちの仕事を本気でやりますか?」

「ああ……なんか、変やな」

「でしょ? 奇妙なことはまだあります」


 前沢先生に視線を移す。


「私に勉強を教えてくれていた先生は、私とは七、八歳年が離れています。つまり先生が鶏小屋に来始めた頃は、先生が高校に入られたくらい。でも先生が私の勉強を見てくれていた時間帯は、ずーっと昼間だったんですよ」


 私の指摘がとんでもない重石になったのか、先生はろう人形のようになっていた。


「前沢先生が鶏小屋のメンバーとして私の教育をしていた八年ちょっと。その間のパターンは、ほとんど不変なんです」


 すっと先生を指差す。


「そのパターンが崩れたのが三年前。先生は突然かてきょをお辞めになった。そして、辞めるタイミングが私的にはどうにも不可解だった。大学進学、卒業、就職。そういうライフサイクルの節目に当たっている感じが一切しなかったからです」


 一度話を切って、ふうっと一息つく。それから顔を上げ、手にしていた紙片をすうっと持ち上げた。


「私がいつまでも小さな子供のままでいられなかったように。最初は母の懸念から始まった鶏小屋のスタイルも、どんどん変わっていった。そう考えると、私が奇妙だと思っていたことにも全てに理由があるって、納得出来るんです」


 部屋を横切って、母の隣に屈んでいる植田さんの前に立ち、白いものが目立ってきた髪を見下ろした。


「全てのキーになる人物。それは植田さん。あなたです」

「どうしてだい?」


 畳んでいた紙片を広げて示す。それは私の住民票。離婚で実父の代わりに母が世帯主になっているはずの欄には、植田さんの名前がくっきりと記されていた。


「ああ……」


 いつかは明らかになること。植田さんの顔には驚きや落胆の色はなく、静かな諦めが浮かんでいた。


「それが散歩の中身かい」

「それも、です。私にとっては、この店での勤務も散歩の範疇ですよ」

「……そうか」


 事態が飲み込めない同席者たちに、事情説明を続ける。


「最初に私にカウンセラーを付けたのは、母ではなく実父だったんじゃないかと思います。でも、それはすごく変な話なんですよ」

「なんでや?」

「私に知的障害や発達障害があるわけじゃないからです」

「む! そやな。確かに変や」

「でしょ? 父は逃げたんですよ」


 もういない人に文句を言っても始まらない。でも、その事実だけはみんなに知っておいてもらわないと。


「本当なら、母と二人で私との向き合い方を考えなければならない父が、その役割をカウンセラーの植田さんに丸投げしたこと。私が父の顔を全く知らないということ。それは、父が私と母のいる家にほとんど寄り付かなくなったということでしょう」

「うわ……」


 店長が絶句してる。


「父は、不具の私と私を産んだ母を愛せなくなり、手切れ金を投げつけて逃げたんだと思います。植田さんは、父に突然捨てられて途方に暮れた母の相談相手になっていた。そして、いつしか夫婦という関係になった」


 !! 事務室の中が激しくどよめいた。店長が慌てて突っ込んできた。


「ルイ。ちょい待ちや。ほんなら、なんで最初からルイにそう言わへんかったん?」

「母と結婚する前に、植田さんがもう私のカウンセリングに当たっていたからです。カウンセラーは私からも母からも離れた第三者ですけど、父親になればそうはいきません」

「ああ……そういうことかい」

「ええ。植田さんが父親として私に接すれば、もうカウンセラーではいられなくなるんですよ。私が支配、被支配の関係を感じてしまうから」

「面倒やなあ」

「そうですね。植田さんが診てくれていたのは私だけじゃない。むしろ、父に捨てられてしまった母の方が要観察だった」

「うわ……」


 泣き崩れている母をじっと見下ろす。母の精神的なダメージは、その時からほとんど回復していない。そういう……ことなんだろう。


「不具の私を抱え、収入が途絶え、頼れる人が誰もいない。どこかに安全弁がないと精神が保ちません」

「ほか。それが鶏小屋やったと」

「そうです。植田さんは、私と母の板挟みになったんですよ。私の自立を急かすと母が潰れる。母を立てると私が腐る。どこでどうバランスを取ったらいいのか分からない。本当に大変だったと思います」

「うわあ……」


 店長が、信じられないという顔で首を振った。


「植田さんは、日中は会社員として仕事をされていますから、私と母にずっと付き添っているわけにはいかない。でも、母と私だけにすると、私に対する母の執着がひどくなって、鶏小屋がどんどん狭くなる。苦肉の策で、私と母の間にかてきょの先生を挟むことにした」

「せやけど、あんたのおかんが嫌がるやろ?」

「先生が普通の女性ならね」

「は?」

「先生はとても特殊です。私は、植田さんのカウンセリングを受けてる患者さんを当てがったんじゃないかと思ってます」

「どういうこと?」


 メリーがゆさっと身体を乗り出した。その勢いで椅子がぎししっと悲鳴を上げた。


「私は母に囲い込まれて学校から切り離されましたけど、先生は精神的な傷、もしくは重圧がもとで学校に行けなくなった。違います?」


 前沢先生が小さく頷いた。


「ですよね? そうじゃないと、日中ずっと私に付いていることが出来ませんから」

「なるほどねえ」

「先生が私に勉強を教える名目で一緒にいる間は、母は私に干渉出来ません。そして私の性の特殊性がありますから、私が先生に対して特異な感情を抱く心配もない。もちろん、その逆もまた真なりです」

「せやな」

「先生が担ったパーツは、極度の対人恐怖症を抱えた先生でないとこなせなかった。ものすごく特殊だったんです」


 考え込んでいた店長が、疑問符を挟み込んだ。


「でも、辞めたんやろ?」

「ええ。三年前に。きっと……」

「ああ」

「さっき私が言ったみたいに、植田さんと母との関係が患者とカウンセラーではなく、実は夫婦だということに先生が気付いたからじゃないかと」

「あ、そうか。ルイのお母さんと先生とでは、植田さんの対応が違う。それはおかしいってことか……」


 トムの推理を補足する。


「同じ患者でありながら、なぜわたしをぞんざいに扱うの? そういう先生の不満が、植田さんには届かなかったということですね」

「それは……しんどいなあ」


 がっちり腕を組んだトムが、床を見下ろしながらぼそっと呟いた。


「そうですね。でも先生が辞めるかどうかには関係なく、鶏小屋はもう限界に近付いてたんですよ」

「うん」

「私がパソコンを扱うようになってからは鶏小屋から見える外の景色がどんどん広がってきて、私は鶏小屋を疎むようになった。それは母にも植田さんにも、もちろん先生にも制御出来ません」

「なるほど」

「植田さんのカウンセリングがぞんざいになったからだけじゃない。私が先生にする質問が、鶏小屋の外に出ないと答えられないものになってきた。先生には全然こなせない」

「ええ、そう。とても……わたしには無理」


 べそをかきながら、先生がゆっくり首を振る。


「ですよね。植田さんは先生の限界をよく分かってて、私がハイティーンになってからは、時々禁じ手を使って私を封じ込めていたんです」

「禁じ手やて?」


 店長が、なんだそれって感じで鼻を鳴らした。


「食べ物に睡眠薬を仕込み、私の意識が朦朧としたところで強い暗示をかけてた。親の庇護を拒否したら生き残れない。そういう暗示をね」


 げええええええええええええええええええええええっ!?

 お客さんたち、全員絶句。そんなこと、ありえるのかって感じだ。


「でも、暗示は暗示に過ぎません。永続性はないし、私も用心するようになる。もちろん、今日もね」

「やっぱりか……」


 植田さんが肩を落とした。母には、もうその手は使えないよと釘を刺していたんだろう。これまでの手段にこだわったのは母の方だったんだ。


 これで二枚目のカードを切った。この札は、私が母や植田さんときっちり距離を置くためにはどうしても必要。そして、二度と戻れないよう鶏小屋を破壊するためにもね。


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