第6話 ケーススタディ2

 植田さんの話は、いきなり突っ込みから始まった。


「お母さんが心配してたよ?」

「でしょうね。外出が急に増えたから」

「昨日の今日だろ?」

「ええ。でも、私の馴化プログラムにはどうしても必要なので」

「ふうん……。今日の相手は?」

「おばさんです」

「おばさんかあ」

「最初のおじいさんよりは、はるかにましでした」


 樽、だったけどね。


「そうか。会話になった?」

「なりましたよ。弾むっていうところまではとても行きませんでしたけど。一応やり取りにはなりました」

「そうか。双方向になったわけね」

「そうです」


 植田さんは、広げたノートの上に書き込みを加えながら事務的に質問を続けた。


「どんな話?」

「私があまりしたくない話です」

「ふうん。それに乗ったの?」

「早めに遮断しました。私はその話には興味ないって」

「そうか。ものすごく俗物的な話ね?」

「でしょうね。そういう話題でも、全部が全部話したくないっていうわけじゃないんですけど」

「うん、分かる。生々しい話なんだろ?」

「そうです。私には対応出来かねるので」

「ははは」

「でも、それ以外の日常会話はしました」

「弾む……わけはないな。でも、双方向にはなったということね」

「一応は」

「一応……か」


 そう。あくまでも一応。だって……。


「会話の発端が、常に向こう。植田さんとこうやって話しているのと全く同じです」

「ふうん」

「それなら、私はこれまでと同じ対処をするだけで済んでしまいます。あまり訓練にはなりません」

「なるほどなあ」

「ただ、おばさんというのは話の引き出しが多いんだなあと。生活感があるというか。そこは、参考になりました」

「まるっきりの無駄ではなかったということだね?」

「ええ。ですからプログラムは続けます」

「うん。いいんじゃないかな」


 書いた文章の最後にいくつか丸を書き足して、植田さんがぱたっとノートを閉じた。


「ああ、類くん。慣れた?」

「何がですか?」

「身体の方」

「慣れないことには……まあ、そんなに困ってはいないです。特に不自由は感じていません」

「身体の馴化が先に進んでるってことか……」

「そうですね。まあ私は手術をしてもしなくても、どちらでも良かったんですけど」

「うん」

「手術を受けることが私の馴化に必須なら、通過するしかなかったって感じです。正直、施術前後で私は何も変わってません」

「なるほどね。お母さんは、術後に姿勢の変化を見せた?」


 植田さんの私への探りは乾いていた。私よりもむしろ、母の変化を詳しく知りたかったからだろう。


「私と同じで、そんなに変わってませんよ。二十年変えてこなかったことが一日で変わるなら、苦労はないです」

「確かにそうだ。少しずつしかないか」

「手術だけでなく、私が成人したというのも一つのきっかけですね。母にも世間体があるでしょうから、私を隠し続けることはもう出来ないでしょう」

「だといいけどね」


 植田さんは、決して楽観していない。臨床心理士の植田さんが、プロの目線でずっと母を見てきてそう言ってるんだから、私も事態を深刻に受け止めないとならない。


「実際ね、プログラムは一つじゃない。二つ要るんだよ」

「分かります。私と母のと、ですよね?」

「そう。君の分は、自分で立てて自分でこなしてる。君にこなしきれないアクシデントや悩みが生じた時だけ、対応策を話し合えばいい」

「ええ」

「だが、お母さんには自覚がない」

「何のですか?」

「自分が雇用者ハイヤーではなく、患者ペイシェントであるという自覚さ。それがものすごく厄介なんだ」


 ペイシェント、か。


正常ノーマル異常アブノーマルの間には確たる境界がない。それは連続している」

「へえー」

「で、ちょっと意地悪い表現をさせてもらえば、君もお母さんも極めてノーマルに近いアブノーマルなんだよ」

「……」

「そして、それは極めてアブノーマルに近いノーマルと区別が付かないのさ」

「それって?」

「見た目でしか正常、異常の識別が出来ないなら、分ける意味はそもそもないんだ」

「はい。分かります」

「同時にね。それは、こうすれば正常になるという処方箋もないってことなの」

「あ……」

「それが厄介なんだ」


 ふうっと溜息を漏らした植田さんが、私を横目で見ながら説明を続ける。


「君は、自分を最初から異端者と見ている。自分をアブノーマルの側に置いてる。そうすると、ノーマルという範疇にどこまで自分を近付けるべきかを細かく調節出来る」


 そして、私をぴっと指差した。


「今、類くんがトライしてるみたいにね」


 なるほど……。


「お母さんは逆さ。自分は間違いなくノーマルだと思ってるんだ。だから自分に異常な部分があるっていう認識が、いつまで経っても生まれない」

「うーん」

「お母さんの異常性が日常生活の維持に支障をきたすくらい深刻なものならば、それにはすぐ対処しなければならない。でも、お母さんのステータスは極めて正常に近い。異常性を放置したところで、その影響は『君にしか』生じないんだ」

「そうなんですよねー」

「でも、お母さんの性格崩壊に繋がってしまう危険な鍵。それを類くんが持っている以上、僕はうかつに手を出せないのさ。そこが」


 ばんっ! 忌々しげに、植田さんがカバンを強く叩いた。


「すごく厄介なんだよ」


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