七月 八日-夜
「 ぁ ――」
慟哭。
咆哮。
心が悲鳴を上げながら、俺の脳を抉り出す。
記憶に溜まった膿を無理やりこじ開けて、取り出そうと脳をかき回す。
「や め ろ 」
怨嗟。
憎悪。
怒り。
「やめろ ―― ………」
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
お前が殺した。
――誰が殺した?
「 ち がう。佐久奈 じゃ ない」
私が殺したの。
惣介が好きだったから。
私に振り向いてほしくて。
でも、それでも惣介はずっとあの子のことが好きだったんだよね。死んでも、好きなままだった。殺せば気持ちも一緒に消えるなんて甘い考えだったんだよね。
ごめんね、惣介。
「ぁ あああああ ――違う、そんな、はずは」
記憶は常に曖昧。
ならばそれが真実がどうかもワカラナイ。だからそんなことは認めない。
でもさ、見て。
今私は罪を償っているの。私が奪ったんだから、私が奪われるのも、因果応報だよね。だからこうやって、惣介に殺されるのなら、本望だよ。
「やめろ……やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
グシャッ、と、なんとも間の抜けた音と共に、その手は人の首を握り潰した。
体中が嫌な汗で濡れている。べっとりと服に張り付いて、汗が傷に滲み、内側から刺すように痛みを訴える。
動悸は収まらず、常に早鐘を打ち続けている。
そして頭はぐちゃぐちゃだ。視界はうまく定まらず、体も自由に動かせない。
「ひっ、あぁ、あああああああああああああああああああああ!!」
手の感触が、肉を絞め殺す手の感触がはっきりと残っている。柔らかい首の肉の内側の堅い骨の感触。ごりゅごりゅと内肉をすり潰し、握りつぶした感触。
「殺した……? 俺が? はは、ははは……」
夢の中で俺は、佐久菜の首を絞めて殺した。
これは夢だ。まごうことなき夢だ。
だが、その内容の真偽までは分からない。
そう、厭佐久奈が『あの少女』を殺した――と
「あああああああああああああああああああ!! ……あああああああ、ッぅ゛おんっぐうえ゛あ、ごほっ、ごほっ」
誰かが用意してくれていた袋に全て吐き戻した。
頭が痛い。頭の中から頭を割るような音がする。
深呼吸をしばらく続けて、息を整え、口元を拭いた。
「なんで、あんな、夢を……待て、そもそも今日何日だ!?」
咄嗟に部屋のデジタル時計を確認すると、まだ七月八日だった。胸をなで下ろし、一応安心はできた。それにここは俺の部屋だ。つまり俺はあの後意識も絶え絶えに帰ってきた、ということか。それにこの包帯。誰か、は言うまでもなく、昼子が巻いてくれたものだろう。
情けない。デカい口を叩いた途端にこれだ。
「まずは、昼子に……」
まだ頭は痛いが、この部屋にはいない昼子を探さなくては。
下の階に降りようと起き上がるが、脚に力がうまく入らず半ば這うように階段にまで向かった。
階段に座るようにして一段ずつ降りていく。降りきった先のすぐのリビングに繋がるドアから出てきた昼子がいた。洗面器を持っていた。
その顔はとても驚いていて、俺を心配しているように見えた。
「大丈夫ですか……? 立てますか? 汗はまだ引いてませんね……とりあえず、ソファに横になりましょう」
「あぁ……すまない本当に。俺は……」
「何言ってるんですか。申し訳ないと思うならそう見える態度になるまで回復してください」
優しくも厳しい口調のその声は、酷く誰かに似ていた。
誰かに……似て、い――
脳の中に映し出される光景。
夕焼けが、赤く、一般的な一軒家のリビングを染めている。
一方的に世界を上書きする光が眩しく感じて、思わず目を細めてしまう。そんな夕方の折だった。
七夕だからと小さなパーティでもしようと提案し、鍋の素や食材の買い出しに出かけていた。『あの少女』は今、家で鍋の用意をしてくれているだろう。結局最後まで何鍋にするか決まらずに、適当に選んだものを買ったが……一体どれを気に入ってくれるだろうか。なんて考えながら、帰路を歩いていた。
あの赤色が未だに目に焼き付いている。
あれは地獄の色。
血の池ですら薄く感じる、命を犯す赤い地獄。
夕焼けが、静かに揺れる少女の体を照らし出す。
電灯の消えた、闇が蠢く部屋の奥から、ゆっくりと夕焼けの動きに合わせてソレが姿を現した。
天井に固定された金具から、ロープが下に向かって伸びている。そのロープは、少女の首にあてがわれ、そのか細い首筋を千切れんばかりに締め付ける。既に絶命し、口の端から涎を垂らす少女の躯は、窒素の抜けた空気だけの風船のように、ゆらゆらと振り子のように。
自分の手から滑り落ちた買い物袋の音で、目が覚めた。
目の前の状況を脳が理解しはじめ、それをいかに拒絶しようとも、目を閉じようとも、既に焼き付いた愛する者の死体は、二度とこの記憶から離れることはなくなった。
死体の横には机が、火の通っていない、水道水だけが入った真っ白い鍋。椅子には血まみれになった佐久奈の姿があった。
血で湿気た紙の切れ端には、崩れた文字でこう書かれていた。
――私が、殺したの。
「あ゛ッぐ、ぃい゛ああああ!!」
頭が割れる。頭が割れる……!!
忌憶が心の奥の底から溢れ出る。俺を蝕まんとする毒液が身体中に広がって、頭を犯して壊そうとする。『心』が詰まったガラスの球体にヒビが入り、
「 か ぁ は――――」
息ができない何も見えない音も聞こえない何も感じない光に亀裂が入り闇が砕け散りただ広がる虚無の荒原が多い尽くし心が消え、心が消え、心が消える。
そうすれば楽になる。
死ねば楽になる。
全てを忘れて楽になれば、きっと、幸せに――
だが、全てが消えた無の中で、その少女の笑顔を見た。
「――― ―――― っ!! あ、俺は……」
「良かった、急に苦しみだして倒れたから驚きましたよ」
気が付けばソファの上。
額には冷やされた手ぬぐいが掛けられており、体が優しくかけられた毛布に包まれていた。
その笑顔は、とこかで見たことがあった。
間違いなく、『あの少女』のものだ。ああ、忘れるはずもない、たった一度だけ俺に見せたあの笑顔。たった一人の少女の心の拠り所にさえなることができなかったみっともなく惨めな俺が唯一手に入れた、少女の心。
これはチャンスだ。
神様が俺にくれたたった一度だけのチャンス。もう一度『護れ』という、神からの。
「はぁ、まったくなんでボクがこんなことを……あなたが守ってくれるんじゃなかったんですか?」
ごもっともだ。
心底呆れたような少女の声が着付けとなった。惚けていた思考に活を入れる。
まだ、中に溜まった
「でも……確かに、この家にいた方がいいのと貴方に守られるのは正しいことです」
「どういう、ことだ?」
「勝手ながら、あなたの部屋の本棚を見させてもらったのですが」
「なんだって――!! な、ななななな、何も見てないだろうな!! な!?」
あの本棚には俺以外に誰も家にいないから油断して置いていた『女子小学生制服大百科』とか『小児の保健と養育の辞典』とか『俺の○学生の妹が媚薬を――』とかの至って真面目で勤勉極まりない書物がががががが
「な、何かやましいものでもあったんですか?」
「いや、ならいい。ああそうだ、エッチな漫画が置いてあったんだ、それを見ていなくて本当によかった」
「む……むぅ、まあ、是非もないことです。い、いや、ええまあ、片づけておいてくださいね!」
「申し訳ない……で、その、なんだっけ?」
ごほん! と咳ばらいをして昼子は先を続ける。
「そのですね、あなたの部屋にあったこの本です」
「あぁ、それは」
昼子がその手に持っていたのは魔導書。簡単な魔術の使い方からその一族が研鑽を続ける魔術の術式及びその組成が綴られた、研究者にとっては宝と言っても過言ではないもの。とは言え魔術師として大成する気のない俺にとってはもう使い道のないものだが。
「どうやら貴方は……
そう言えば、そんな感じだったような気がする。昔父がそんな話をしていたよう な。
やはり記憶が曖昧だ。そういうことを話していた記憶はあるのに、その詳細を思い出せない。
「まあ今はこの街の話はいいんです。尭土井家と言えばこの業界でも名の知れた一家で、『概念干渉』に長けている稀有な一族だとも聞いています」
「がいねんかんしょう?」
「知らずにやってたんですか!?」
「すまない、ここ数年の記憶が曖昧でな……」
「まあいいです。それなら思い出してもらうまでです。『概念干渉』とはこの世に物理的に存在しない、いわゆる霊的な存在に対して物理的な干渉を可能とする術式です。例えば……魂を掴み取ったりとか、ですかね」
「……ッ」
脳内の海馬がズキンと、爪で思い切り引っかかれたように痛みを訴える。何かを思い出そうとしているのか、もしくはそれを拒否しようとしているのか。
「何か思い出しましたか?」
「ああ……どうやらそうやって色々言ってもらえた方が思い出し易いようだな」
『概念干渉』――その術式の組成、如何なる魔術的要因、論理に基づいて発動されるのか、その有効範囲、応用法、少しずつだが知識が頭に流れ込んでくる。
先の戦いで無意識の内に使った『
故にあの女が言った通り『
「兎角、貴方のその力はこと防御に転用すれば下手なダイヤモンドよりも堅いでしょう」
「その心は?」
「ボクとしては、当初迷っていたのですが、暫くはここで貴方のお世話になって当面の間は守ってもらうのが効率的だという判断に至った次第です」
堅苦しい言葉遣いはどこか壁を感じさせる。が、まあ俺としては当初の目的通りというかなんというか。とにかくこの少女、伐花昼子を守らなければいけないのだ。
――その理由はなんだ?
そうだ、それがまだ思い出せない。
そしてこれだけは、曖昧でもなく全く記憶の中に残っていない。かつて、俺が助けられなかった少女に似ていたからなのか、とも思ったが記憶に照らし合わせてもその感情は昼子に出会った時に生まれた感情だ。
いや、今はそれでいいか。
ああ、理由などどうでもいい。
それに今はそれよりも、確かめないといけない事もある。
佐久奈……夢に見たあの光景と、佐久奈の言葉。
首を吊って死んだ『あの少女』を殺したのは、本当に佐久奈だったのか? だとしたら何故だ、何故そんな――
「くッ……う、ぅあ、はぁ……はぁ」
「まだ、痛みますか?」
「あ、ああ。すまない……」
どうやら昼子は傷が痛むと思っているらしい。今はまだ昼子には話さないでおこう。俺がやるべきは昼子を守ること。俺達の問題に巻き込んではいけない。
「今は休んでおいてくださいね。貴方には、私を守ってもらわないといけないのですから」
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