VISION of DESIRE
アスパラベーコン巻き炒め
プロローグ-イシュタムの導き
仕事終わりの職場、大きく伸びをすると一気に疲れが流れ込んでくる。私の筋肉は今すぐにでも堕落の塊である布団で惰眠を貪りたいと叫んでいる。無論私もそうしたい。
崩れそうな体を何とか支えながら帰り支度を行った。何かが見えたがそれを無視をした。無視をしなければ死んでしまう。
部屋を後にした。廊下を歩き玄関へと向かう。開けっ放しになっていた窓から心地のよい夜風が吹いている。思わず立ち止まり、そこで風に吹かれ物思いに耽っていた。無性に眠たくなって、我に返った私はため息を一つ。いそいそと再び玄関へと歩を進める。玄関に着いて下駄箱を開けた。私の目に見えたモノは、私の思考がそれを無視しろと叫んでいた。そうしなければ何故か私は死んでしまう。私の心は壊れてしまう。
どうしてか、私は無性に屋上に行きたくなった。気が付けば足は動き、階段を昇りだす。薄明かりに包まれた踊り場に響く足音は酷く渇いたものに聞こえた気がする。屋上に着いた。私はそこで、私が無視しようとしたモノを手に持っていることに気が付いたが、気にせずそのままにした。
――きっとこれは何かに使う筈だろう、と。
屋上へと入る扉を開ける。
途端に屋上から室内へ流れ込む涼しい風が私の体を包み込んだ。とても渇いた風は、渇いた私を受け入れてくれた。溶けだすような感覚は、いつ感じても気持ちのいいものだ。
だが、思いもよらぬモノがその私を迎え入れた。
「あら、こんな時間に珍しい」
「へ?」
あまりに驚いて、思わず私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
腰まで伸びた黒い髪、褐色肌に、心なしか民族衣装っぽい服装。そしてその上からエプロンを着けていた。外人さんだろうか。兎にも角にも、この敷地内は部外者進入禁止である。
「あなた、ここ学校よ? 勝手に入ってきちゃダメでしょう」
「いやぁ、すいません。用務員なんです私」
なんだ。そうだったのか。それは失礼なことをした。
それにしては自分よりも若く見えたので、生徒が勝手に入っていたものだと勘違いをしていた。まあ、勝手に入るにしても生徒が私服で、というのもおかしな話なのでこの勘違い自体が適当に考えたものだ。それほどに私の頭は働いていない。
「あ、そうだったんですか。すいません……」
「いえいえ、こんな時間にこんなところにいる私にも非はありますから」
で、だ。まず説明したいのは、この学校は屋上に畑がある、ということだ。いつかの校長が趣味で屋上に畑を作ったらしく、かなりの費用をつぎ込んだとか。普段は何の変哲もないアスファルトなのだが、ところがどっこい機械を操作するとアスファルトの一部が開き、空洞が現れる。そこに土を入れるなりなんなりして作物を栽培できるようになっている。なんでも、水耕栽培もできるとかで、毎年文化祭では採れた野菜を生徒が売っているとかなんとか。
という訳で、どうやらこの用務員さんは今しがた土を耕していたようである。鍬を持っていた。
「何を育てるんですか?」
なんとなく気になって私は訊いてみた。
「トウモロコシです。私大好きなんですよねトウモロコシ……噛んだ時に出るあの甘い汁が特に好きです」
「あぁー分かりますそれ」
全く以てそんなこと微塵も思っていない肯定である。しかし社交辞令、仕方がない。褐色の女性もその返答で納得したらしく、会話を続ける素振りを見せながら、鍬を動かし始めた。振り下ろされる鍬が土を返し、耕していく。自分でやったら疲れるが、誰かがやっているのを見ていると何故か飽きない。何故だろうか。
「ところで、先生はどうしてここに? もうお仕事は終わりですか?」
「あぁ、はい。そうですね。もう仕事は終わって、帰ろうかなぁって思ったんですけど、急に夜風に当たりたくなって。ここの風って気持ちがいいですよね……なんというかこう、退廃的で、全部どうでもよくなるような風なんですよ」
「なかなかどうして詩的で素敵な表現です。言い得て妙とはこのことですね」
その声色に世辞の念など微塵もなく、素直な賞賛のようだ。思わず、照れ隠しの為に顔をそむける。
視線の先には町が見えた。無尽蔵にも見える夜の町。暗闇に紛れたその先には山がある。今夜は曇り、夜中には大雨が降るそうだ。ふと思い出した。
「夜中、雨が降るらしいですよ。それも大雨」
「まあ、それは大変。わざわざ教えて頂いてありがとうございます。お蔭でこの頑張りが無駄にならずに済みます」
「いえいえ。まあ、お互い様ですし」
「?」
ああ、そうだ。こちらこそお蔭で元気が出たというものだ。上京してからというものの、連絡をとるのは友人だけ。その友人とも最近疎遠になりつつある。両親も既に他界して、言うなれば天涯孤独か。
生徒……は、そうね。
「お互い様、とは?」
案の定そう訊いてきた。説明するのが恥ずかしくて、口を滑らせたことを後悔する。なんて言おうか……いや、こんなことを誤魔化しても意味はないか。
「寂しかったんです。ここに来てから頼る人もあんまりいなくて。この年になってお恥ずかしい話ですけど、一人ぼっちなんです」
自嘲気味に、そう言った。
女性はさっきまでの少しおどけた表情をやめて、一抹の憐れみを感じる笑顔で私に笑いかけた。
――そう、まるで。
もう安心していいのだと、言わんばかりに。
「そう、でしたか……私もここに来てからずっと一人でしたから。話し相手ができて嬉しかったです。えっと、お名前は……」
「ああ、鮭野です。
少し照れくさそうに私は手を差し出した。こんな自己紹介は古風だろうか、しかし女性は気兼ねなくその手をとってくれた。暖かい……今まで誰もそうしてくれなかったことを、この人はこうも簡単に、私を受け入れてくれるのか。
「鮭野さん……そんなに思い詰めないでください。このままでは、貴女はきっと壊れてしまう。貴女の心はこんなにも疲れているのに。もう休んだ方がいい」
「そう、ですよね。やっぱり。ちょっと無理しすぎてたのかな……じゃあ、早く帰って寝ないと」
いや、違う。早く帰って寝たところで、この心の『ナニカ』が取れるとは思えない。だってそうだろう、そんなことで『コレ』がなくなるのなら、私はどれだけ強い人間だったか。そうではない私にとって、心の中の『コレ』は、もう私にどうにかできるものではない。どうにかしようとしたが最期、いつかは壊れてしまうだろう。
――否、どうにかすることができないから、私はここに来たのだ。
今の私のこの心で、どう休まればいいと言うのだろうか。
それはとても、簡単な話だ。
「安らぎとは安静」
一段、階段を登った。
ああ、もうすぐ、終わる。
「命とは生きて死ぬ。私たちは生きて死に、そうしてきっと死んでしまう」
またもう一段、もう一段と、私はそこへ向かう足を止めることはない。何故ならそこに、ようやく求めていたものが見えているのだから。
「それは
最早私に、過去を見据える意味などなく、意義などなく、未来に掛ける
「
そう、この生には意味はあった。だが死への生は果たせなかった。果たせなかったけれど、私は赦された。これだけ疲れたのだから、それも当然だと増長しても罰は当たらない。むしろ赦してくれたのだ。胸を張って前に進もう。
宙に浮いた。
月が見えて。
夜になって。
暗闇になって。
見えないはずの、死が見えて。
私はきっと、幸せになった。
そうして残ったのは首吊り死体とインクの滲んだ白いスニーカー。
褐色の女性はそれを拾い上げ火をつけた。彼女の安らぎの為には、これはもう存在してはいけないものだ、と。
見届けて、褐色の女性は幸せになった女教師を見上げて、呟いた。
「おやすみなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます