第4話 その訪問は突然に

エイシスの朝は早い。夜がまだ明けきらぬうちから起きあがる。

 料理や洗濯に使うために小川で水をくみ、屋敷の裏で薪まきを割る。

 ここで生活をするようになって二年、欠かさず――欠いたら生活に支障が出る――やらなければならない日課だ。


 これまでも、たびたび屋敷を訪れて、とりあえず補修だけを進めていた。

 しかし今のように父や兄たちの反対を押し切り、ここで暮らすようになったのは母の屋敷が朽ちていくのを放っておけなかったのだ。どれほど表面は繕えても人が住まない家というのはかならずどこかがほころんでしまう。

 煩わしい姉たちとの対話をしなくて精神的に楽になった、というその時は考えもしなかった特典つきだったけれど。


 デミスと出会ったのは偶然で、村の子どもたちが森の中の幽霊屋敷――エイシスの屋敷だ――に遊びにきたのを一人とっ捕まえ、保護者に抗議しようとして出会ったのがあの老医師だった。


 と、今日も今日とて、水くみだ。

 こぎみ良い音が屋敷の裏手から聞こえてくる。そろり……と顔を出すと、

(あ)

 ジクムントが上半身裸で薪割りをしていた。

 鉈を振り下ろすたび、鍛えられた身体が呼吸をするようにふくらみ、気持ちいいくらいすっきり薪が割れる。

 エイシスは二年やっても馴れなくて、鉈を一度食い込ませた上でカンカンと台に打ち付けようやく割る、という感じだった。

 ジクムントの身体が徐々に昇る日差しにあてられ、胸板や腹筋……彫りの深い褐色の肌が輝くようで、ともすればその光景はとても神秘的で、少しの間、その姿に見とれていた。

(って、いけない……)

「ジクムント」

 盗み見はさすがにはしたないと、エイシスは声をかけた。

 うっすらとかいた汗が、真珠のようにきらきらと輝いている。

「おはよう。朝、早いのね」

「ああ……。目が覚めて、何かやることがないと思ったら、薪が切れそうだったからな……余計なことをしたか?」

「ううん、大丈夫。ありがとう。それじゃ、私、朝食の用意してくるね」

「分かった」


 そして朝食を食べ終えたあと、エイシスは身支度を調える。

「ジーク。私、農村アソルに行くわね」

「買い出しか?」

 腰をもちあげかけるのを、押しとどめる。

「違うわ。子どもたちに勉強を教えに。いつもお世話になってるけどお金はないから、こうして少しずつ恩返し。夕方には戻るから」

「それは」

 ジクムントのエイシスがもっている器に目をやる。

「これは先生へのお代代わりのシチューよ。あまりはあるから、お昼にパンと一緒に食べてね」

「分かった。……それから、夕方あたりに迎えにいく」

「いいわよ、通い慣れた道だもの」

 過保護な、と苦笑してしまうが、

「いや、日暮れ時は危ない」

 ジクムントは大まじめに首を振った。見た目は野性味あふれるのに、なかなかに気配りができる。

「……分かった。じゃ、夕方にね」

 エイシスは、ジクムントに手を振りながら、屋敷を後にする。

(……誰かに見送られるなんて久しぶり)

 悪くないわね、と胸をほっこりさせた。


 エイシスが出かけて二刻が経つ。

 ジクムントは昨日の続きの屋根の修理に黙々と励んでいる。

 静かな森のなかに聞こえるのは鳥のさえずり、小川のせせらぎ。

 そこに硬質な金槌が釘を打つ音が響く。

 しばらく作業に集中していると、耳に聞き慣れない音が聞こえた。

 考えるよりも先に身体が動き、屋根の上で身を伏せ、様子をうかがう。

 音はどんどんこちらに近づいてくる。

 音の主は森にはあまりに不釣り合いな二頭立ての馬車だった。それも馬車の装飾はかなり凝っていて、何も知らない人間でも、貴人が乗っているものであると一目で分かる。

 そして馬車はエイシスの屋敷前で止まる。

「――ループレヒト様、到着しました」

「ようやくか。今日は何が何でも、エイシスをどんな手段を使っても手に入れる。いいね?」

「畏まりました」

(エイシスをっ)

 ジクムントの全身がみるみる緊張していった。


 農村アソルに到着したエイシスは「遊ぼう遊ぼう」とせき立てる子どもたちを手慣れた様子でまとめあげ、早速、野外授業を開始する。

 子どもたちにも黒板を配る。教えるのは文字と簡単な計算。

 エイシスたちが暮らすブレネジア王国の教育はほぼ都市圏が中心で、地方では地主やら村長やら一部の人間が文字を知っていれば良い、という考えでほとんど、一般人への教育は手つかずだった。

 それでも農民も作物を売ったり買ったりで、文字はもちろん計算だってできたほうが良いに決まっている。

 というわけでエイシスが教師役を買って出たのだが、勉強をする子どもたちの反応は、都会も農村も変わらない。

「なぁ、今日はあのでっけえ、こえーカレシいないのかよー」

「ジークは彼氏じゃないわよ。まったく。どこでそんな言葉を覚えるんだか……」

「ショーラの姉ちゃんがまたカレシに振られたんだぜーっ」

 どうしても集中力の弱い子どもが勝手に話し始める。

 エイシス自身、王都にある貴族学校では、そういう生徒だったから雑談(それも恋愛関係)のおもしろさは知っているが、

「はいはい、分かったから、さっさと問題を解きなさい!」

「――だ、誰かぁっ!」

「ほーらー、静かに問題を解きなさいって言ってるでしょう、いい加減にしないと本気で怒るわよ」

 エイシスは言ってみたが、子どもたちはきょとんとしている。

「誰かぁっ、お助けくださいぃっ!」

 声は、子どもたちではなく、彼方かなたからこだました。

 向こうの道から、誰かが駆けてくる。

「だ、誰かあぁぁぁ……っ」

 少しずつ、その人物の輪郭が露わになってきた。

 農村には場違い過ぎるほど上品な仕立て。

 濃紺の上衣ジャケットに、白いタイツに、毛先のカールした白いカツラという、王都ならいざ知らず、ここではあんまりにひょうきんな出で立ち。

 その男がこちらに近づく前に、豪快にすっころんだ。子どもたちが一斉に笑い声をあげた。

「ちょっ……大丈夫ですか!?」

 エイシスは駆け寄り、助け起こす。

 と、土埃に汚れた顔に、「あっ」と声が漏れる。

「アーストン……?」

「エイシス様ぁっ!」

 それは長兄・ループレヒトの専属御者だった。

 中年御者が顔を青ざめさせ、涙ぐんでいる。

「どうしたの、こんなところに」

「大変なんでございます! 実は、ループレヒト様の命令でエイシス様の元へお屋敷へ送ろうと森へ入ったんでございます、そうしてもうじきエイシス様のお屋敷だというところで馬車が賊へ襲われたのでございますっ!」

「賊っ……?」

「左様です。まるで獣のように黒々とした肌の、凶悪な目つきの男で……。そのものに馬車が襲われ、ループレヒト様が人質に……っ!」

(黒々とした肌の、凶悪な目つき……?)

 思い当たる節がありすぎる。

「エイシス様?」

「アーストン。あなた読み書きできるわよね。あの子たちの勉強、見てあげてっ」

「え? は……っ?」

「頼んだわよっ!」

 エイシスは駆け出し、近くにあった、農家の前に繋がれていた馬に跨がった。

「おじさん、ごめんなさい、ちょっと、馬、借りますっ!」


 ようやく屋敷に戻ってきたエイシスは馬から豪快に下りると、体当たりを食らわせわせるような乱暴さで家に入った。

「ジークっ!」

 人の気配がする食卓のほうにむかうと、縄でぐるぐる巻きにされた、白銀しろがねの髪をもつ白皙の青年が椅子に座らされた状態で、「おおっ!」と声をあげた。

「……知り合いか?」

 腕組みをして、壁にもたれていたジクムントが怪訝な顔をする。

「愚兄よ」

「おお、我が愛しき妹よ。よく来た。はやく、この野蛮な召使いに申しつけ、縄目を解くように言ってくれないか」

「……似てないな」

ジクムントは、エイシスとループレヒトを見比べる。

「まあ、腹違いだから」

「おーい、きみたち。私の頭越しに会話をするのはやめてくれたまえ」

 水晶のような艶やかな紫色の眼差しを、交互に向けながらぼやいた。

「こいつ、お前をどんな手段を使っても手に入れると言っていたぞ。てっきり、誘拐犯か何かかと……」

 はあ、と溜息を漏らしてしまう。

「でも、いきなり手にかけるとかじゃなくて良かったわ」

「お前に心当たりを聞いてからそうするつもりだった。殺したら情報もなにもないからな」

 ジクムントは断言した。

 本当に記憶喪失なの、と思ってしまうような判断だった。そういうものが無意識のうちに身についてしまっているのだろうか……。

「おいおい、物騒だねえ。――まあ、とりあえず、縄をほどいてから、みんなで紅茶でも味わって、旧交を温めようじゃないか」

 ループレヒトはにこにこしながら呟く。

「ここに紅茶なんて高級品はございません。あるとしたら白湯さゆくらいです。

――兄上が回れ右をして帰ってくださるのでしたら、ほどきましょう」

「エイシス。魔法で無理矢理、自由になっても構わないんだよ。でもそれはあまりに野蛮だ」

「少しでも兄上の火魔法サランマダラスで壁が焦げようものなら、私は一生、お恨みします」

「まったく、君は一体いつからそんなになってしまったんだい。小さい頃、“おにいたまとけっこんするぅ“、とあれだけ……」

「記憶改ざんはおやめください」

「……改ざんではなく、私の夢さあ」

「なおのこと始末が悪いですっ」

「……あー、俺は席を外したほうがいい、か?」

「大丈夫よ。ジーク、ここにいて。いざとなったらこの人を二人で力尽くで外に放り出しましょう」

「エイシス。使用人と距離が近すぎるのは関心しないよ。きみの美貌はブレネジアにとどまらず諸外国に鳴り響いてもおかしくない。いや、社交界に出ていれば実際、そうなっていただろうさ。だから召使いが勘違いしたらどうするんだい」

「兄上。ジークは召使いではなく、同居人です」

「だから住み込みの召使いというんだろう?」

 浮き世離れした貴族社会に長らくいる兄ループレヒトにはいくら説明しても理解できないだろう。

「ところで、エイシス。一体いつまでこんな森の奥に引きこもっているんだい? この屋敷にエディット様の面影を見る気持ちは分かる。だけどね、きみはヴァレンタイン魔ゾディアック伯爵家の一員だ。それにもうじき十六歳の誕生日。……魔法のほうはどうなんだい?」

「兄上には関係ないことです」

「ヴァレンタイン一族に次期総領として心配しているんだよ。私は……」

「――一つ、いいか。

エイシスは自分一人で生活を無事にしている。独り立ちしてるんだ。血が繋がってるからって何でもかんでも口を挟んで良いわけじゃない」

 ジクムントが口を開く。

「ならば、こちらも言わせてもらおう。赤の他人……それも召使いごときに指図するいわれはないな」

「エイシスははっきり拒絶している」

「ならば、エイシス、少しでも良いから帰りなさい。お父上が倒れられた」

「はいはいそうですか」

 それは、六回目くらいの説得で過去に使われている。

「まあ、以前、そんな卑怯な手口を使ったのは申し訳なく思っているが、今回は本当だ」

 半ば嘘とも思いつつ、そうと断じることもできない。

 確かに父は最近、病気がちだ。

「……分かりました。ですが最初から、そう言ってくださればいいのに。しゃべり疲れました」

「それでは父をダシにつかったみたいじゃないか。私は私の意思としてきみに戻って来て欲しかったんだ」

「兄上。私は戻るわけではありません。あくまで、お見舞いに参るだけです」

「まあ、それでもいいさ。皆、喜ぶだろう」

シープレヒトは涼しげな笑顔をたたえる。

(そうとは限らないとは思うけど)

「召使いくん。きみも来ると良い。王都なんて行ったことがないだろう?」

「お前な……っ」

 あきらかにジクムントは鼻白み眉間に深い皺を刻んだ。

「――ジーク、ちょっと良い」

 ジークの袖を引いて、廊下に出る。

「こんなことを言うのはあれだが、お前の兄貴、性格が歪んでるんじゃないか」

「知ってる。貴族なんてみんな、あんなもんなの。歪んでるんじゃなくて、悪気なくああいうことを言う人だから……まあ、そういうのを歪んでるっていうんだろうけど」

「それで?」

「一緒に王都へ行きましょう」

「エイシス、俺は……」

「これはジークのためでもあるわ」

 かすかにためらわれたが、いつまでも秘密にしておくのはジクムントのためにはならない。

「あなたは、軍の将校なの。前に服を見せたでしょう。あなたは何も思い当たることはない、って言ってたけど、あれは軍人……それもかなり階級が上の人が身につけるものなの。このあたりで軍人が闊歩かっぽしてるのは、王都くらいよ。……もしかしたら、あなたのことを知っている人がいるかもしれない」

 しかしそれはジクムントを見つけた状況を考えれば、危険なことかもしれない。そうかといって、エイシスの判断だけですべてを決めることは彼に対してよくはないだろう。

(このままここにいるってことは、兄上が私に王都に戻るのが私のためだって言ってるのと変わらないもの。……誰のためかは、本人が決めるべきだわ)

 ついでに、自分の恥も見せてしまえという気持ちにもなる。彼のため、というだけなのはいかにも押しつけがましい。

「……もう一つ。

私は、なんとなく察してると思うけど、家族との折り合いが良くないの。あなたが一緒に来てくれれば……心強い。あなたにも同行してもらいたいわ」

「お前のためなら、行ってもいい」

 ジクムントは微笑を浮かべる。

「ありがとう」

 エイシスたちは部屋に戻る。

「兄上、まとまりました。ジークも行くことに決まりました」

「そうか。で、私の縄はいったい、いつ、ほどいてくれるのかな」

「王都についてからでもいいでしょう?」

 エイシスはにっこりと笑った。

「まあ、きみが戻ってくれると言うなら、それでもよかろう」

 ループレヒトはほがらかに笑う。


(ほんと、この人のこういう性格だけは、勝てないわ……)

 大物なのか、馬鹿なのか……。

 それでもループレヒトを家族の中では好きなほうではあった。

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