7:初めての出会い
さわさわと耳元で葉擦れの心地良い音がする。
鼻孔いっぱいに広がるのは瑞々しい草花と大地の香り。
小さく呻きながら目を開く。
視界に映るのは、自分を取り囲む丈の長い白い花々。
花の形状は桜に似ていて、仄かに甘い爽やかな香りがする。
こんな花は見たことがない。
どうやら白い花畑の中にいるようだと、寝起きでぼんやりする頭で思った。
高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。
とても平和な場所にいるようだった。
(いい香りがする場所だなあ……天国かな)
しかし、寝転がっている場所がやけに不安定で、下手に動くと上半身が落ちてしまいそうだった。
それにほんのりと暖かく柔らかい。
どこにいるのか確かめるべく、重く感じる頭を苦労して持ち上げる。
痛いところはないが、全身が謎の疲労感に包まれていた。
「え」
状況を確認して、目が点になった。
自分の下に笠置がいた。
彼と折り重なるようにして倒れていた。
それを知った瞬間、希咲の頭はスパークした。電光石火の如くこれまでの記憶が弾け、大慌てで彼の身体から離れる。
(な、な、な、な、な!)
心臓はばくばく鳴って、火が出そうなほどに顔が熱い。
意識を失っている間ずっと彼と密着していたのかと思うと羞恥で死んでしまいそうだった。
(なんで笠置が私の下にいるの!? そういえばシールドだか魔法障壁だかに激突する瞬間、抱きしめられたわよね? 身を挺して私を庇ったの? まさか死んでるんじゃ……)
笠置は花畑の中で仰向けに倒れたままぴくりとも動かない。
外傷はないようだが、見えない箇所に重大な損傷を受けている可能性だってある。
「ちょっと……笠置くん? 笠置くん? ねえ、起きてよ」
不安に突き動かされ、彼の傍に戻って呼びかけた。
だが何度連呼しようと反応はない。
固く閉じられた双眸。力を失って弛緩した身体。
夜の校舎を歩いていた間ずっと繋いでくれていた右手は、中途半端に開いた格好で止まっていた。
(死んでる……とか。嘘でしょう。ねえ)
ぞっとして、彼の肩を掴む。
パニックに陥ってしまいそうな脳を宥めすかし、どうすればよいのかを考える。昔読んだ本に、悪い魔女に名前を奪われ、操られていた王子様が恋人から名前を呼ばれることで意識を取り戻すという場面があったことを思い出した。
(彼の名前)
常に自分の上にあった名前は嫌でも覚えていた。
密かに敵視し、他の誰よりも意識していたのだから。
「……
肩を掴んで揺さぶる。
ぼろぼろと涙が溢れて、零れた涙が笠置の頬に落ちて跳ねた。一つ、二つ。
「昴! すばっ……」
ひくっ、としゃくりあげて名前が半端に途切れた。
何度も呼びかけて肩を揺さぶっても彼は動いてくれない。
もう笑いかけてくれないのだろうか。もうどうにもならないのだろうか。
希咲が泣き崩れる寸前で、彼の瞼が震えた。
「! 昴……」
歓喜しかけて止まったのは、彼の異変に気づいたからだった。
彼の右目が青く変色している。ちょうど上空から見たこの世界の海のように、澄み渡った青。そしてその虹彩の中心に浮かんでいるのは五芒星。
ひときわ強い風が吹いて、花びらが風に乗って舞った。
その美しい青色に惹きつけられる。
(なにこれ、綺麗)
とは思ったが、いまはそんなことよりも彼の安否を確認するほうが先だった。
地面に両手をついて上体を乗り出し、顔を覗き込んで泣いている希咲を見て、彼は掠れた声で言った。
「……なんで泣いてるの」
「なんでって――当たり前でしょう!? 死んだかと思ったわよ! 馬鹿! 生きてるならとっとと起きなさいよ! 心配で心配で胸がつぶれるかと思ったわよこっちは!」
どれだけ自分が理不尽なことを言っているのかはわかっていたが止められなかった。不安で気がおかしくなってしまいそうだったのだ。
自分のために誰かが死ぬなんて耐えられない。
頭の中はぐちゃぐちゃで、涙が勝手に溢れてくる。
笠置は左右異なる色の瞳で泣きじゃくる希咲を見つめて、なんだか放心したような顔をした。
「何よ?」
「いや……心配かけてごめん」
笠置は起き上がると軽く頭を下げた。それは謝罪としての意味なのか、単に俯いたのかわからないが、頭を押さえた。
彼に庇ってもらった希咲でさえ身体が重く感じるのだ。
魔法障壁とまともに衝突した彼のダメージは半端ではないだろう。
頭痛でも感じたのかもしれない。
「……ううん、こっちこそごめん、気が動転しちゃって。酷いこと言ってごめんね。庇ってくれてありがとう。この借りは必ず返すから」
さっきから自分の感情を優先するばかりで彼への配慮が全くなかった。
言動を猛省しながら、手の甲で目元を拭い、決然と顔を上げる。
今度は自分が彼をサポートする番だ。
フリーフォールのせいで彼の眼鏡もどこかに行ってしまっている。
彼の視力がどれほど悪いのかはわからないが、必要とあれば手を引いて歩こう。
「借りなんて思わなくていいよ。俺はやりたいことをやっただけだから」
「そんなの駄目よ。痛いところはない? 身体は大丈夫? その目はどうしたの?」
「目? なんのこと?」
自覚はないらしく、笠置は首を傾げた。
「右目の色が青に変わってるし、五芒星まで浮き上がってるのよ。魔法障壁にぶつかったことでなにか変な副作用があったんじゃないの、大丈夫?」
「そうなの? 特に違和感はないけど……ここ、どこ?」
「さあ。このドーム、なんなんだろうね」
二人して空を見上げる。
自分たちがぶち抜いたのだろう、この花畑ごと辺り一帯を覆う白いドームには大穴が開いていた。
「……考えても仕方ないか。とりあえず、誰かいないか探してみよう。事情を聞けば何かわかるでしょう」
「うん。でも、眼鏡なくて平気? 歩ける?」
「伊達眼鏡だったから問題ないよ。他人の目を見るのが苦手で、顔を隠すための道具だったん……」
笠置の言葉は不自然に途切れた。
何事かと彼の視線の先に目を向けると、花畑の向こう、続く雑木林の傍に怪しい二人組がいた。
(なにあれ?)
思わず突っ込みたくなるくらいの怪しさだった。
子どもと大人が派手な迷彩柄の布を被り、顔だけ出した達磨みたいな格好で木陰からこちらを見ているのである。
風景に溶け込んで隠れるつもりなら、せめて大地に身を伏せるべきだろう。
立ったまま迷彩柄の布を被ったところで余計に目立つだけだ。
彼らだけ物凄く浮いている。
「ややっ。見つかってしまったようですよ魔王様! 何故私たちの完璧な擬態がばれたのでしょう!?」
あたふたとした様子で、大人がそう言った。声からして女性らしい。
「くっ、さすが勇者……下手な小細工は通用しないということだな。ならば仕方あるまい」
よくわからないことを言いながら、迷彩柄の布を剥ぎ取って、二人は姿をあらわにした。
「わあ。なにあの子、竜なの?」
二人のうちの一人、子どもは人間ではなかった。
鮮やかな赤い瞳に黒い髪。
頭の両脇にはまっすぐに銀色の角が生えていた。
背後には黒い蝙蝠のような翼と立派な尻尾。
子どもの傍にいるのは小柄な女性で、切りそろえた黒髪に緑の瞳をしていた。
身に着けているのは白いヘッドドレスに黒のエプロンドレス。
一目でメイドとわかる服装である。察するに子どもの従僕らしい。
「あのー、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど」
怪しさ満載、しかも敵意たっぷりにこちらを見てくる二人組だが、せっかくこの世界で出会った住人なのだ。出来る限りの情報は手に入れておきたい。
希咲は彼らの警戒を解こうと笑顔を浮かべて歩き出した。
「やめたほうがいいんじゃないかな。なんか危なそうだよ?」
「大丈夫よ。勇者だとか人違いしてるみたいだけど、話せばわかってくれるわよ、きっと」
小声で笠置が警告してきたが、希咲は聞き入れなかった。
言っても無駄だと思ったのか、笠置も後をついてくる。
彼らの前に辿り着いて、希咲は自己紹介を始めた。
「初めまして。私は立花希咲っていいます。何か勘違いされているようですけど……」
「ふふん。死闘の前に名乗るとはなかなか殊勝な心がけではないか、勇者。その名前は墓碑に刻んでおいてやろう。ではゆくぞ! たー!」
「魔王様頑張ってー!」
希咲の台詞をぶち切って、子どもは拳を握り、殴りかかってきた。
メイドは彼の暴挙を止めるどころか白いハンカチを振って応援している。
(うわっ)
至近距離からいきなり殴りかかられては避ける暇もなく、希咲は身を竦ませた。
ぎゅっと目を閉じる。
次に訪れたのは、どさっという重い何かが倒れる音と、小さな悲鳴。
しかしそれは自分があげたものではなかった。
「だから言ったのに」
笠置の声が聞こえて、希咲は恐る恐る目を開けた。
いつの間にか自分の前に笠置が立っていて、足元には子どもが倒れていた。
どうやら笠置が足を引っ掛けて転ばせたらしい。
笠置は呻いている竜の子をつまらなそうな顔で見下ろして、軽く浮かせていた右足を下ろした。
(……こいつ本当になんでもありか?)
一瞬の早業。彼の運動神経は絶対に自分よりも良いと確信した。
「魔王様っ」
メイドはうずくまって涙目の竜の子の頭を撫でた後、きっと希咲を睨みつけてきた。
「おのれ、勇者め……!」
「いや、やったのは私じゃないわよっ!? それに私は勇者でもなんでもない、ただの女子高生ですっ」
恨めしげなメイドの目を見返して、希咲は両手を大きく左右に振った。
「おのれ、じゃないだろ」
と、そこで冷ややかな言葉が割って入ってきた。
その冷たさに、全員が震え上がってしまうような。
「どういう教育してるんだよ。勇者とかふざけたこと言ってないで彼女に謝れ」
「え」
「早く」
言うことを聞かないならぶん殴るぞてめえら、とでも言いたげな、笠置の眼光に気圧されたらしく、「すみませんでした」「ごめんなさい」と二人は正座して深々と頭を下げたのだった。
(か……笠置って、キレたら怖いのね。気をつけよう……)
冷や汗を流しながら、希咲は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
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