夜更けのランナウェイ(三)
聖エウロギウス教会の敷地にある神学校は、プロヴァンス風建築の粋を凝らした三階建てだ。しっくいの白壁と赤銅色をした屋根のコントラストが美しい建物だが、今は月明かりのなか、忘れ去られた遺跡のように息をひそめ、ひっそりとたたずんでいる。
一階部分には祭壇をそなえた広い講堂があり、その片すみに、四角く仕切られた小部屋がいくつかならんでいた。
神学生がゆるしの秘跡を受けるための、告解室だ。
今は無人となった講堂で、その告解室のひとつにロウソクの火が灯されていた。小さなテーブルとイスが持ち込まれ、テーブルのうえにはタロットがならべられている。若い女がひとり、真剣な表情でカードを見つめていた。
ラゴス連邦の軍医クスノキ少佐だ。
テーブルはタロットで埋め尽くされているが、突然そのなかの一枚、愚者のカードがメラメラと燃えあがった。
「あかん……ついにジェイコブまでやられてもうた」
クスノキ少佐は、思わず天をふり仰いだ。
進退を賭けたこの一戦に、彼女はこれまでコツコツと造りあげてきた四百体あまりの屍兵すべてを投入していた。しかし今やすでにその半数が斃され、その事実を示すようにテーブル上のタロットも半分ほどが黒い燃えかすとなっている。
「……こりゃあ、いよいよ負けいくさ濃厚やな。うちも早よう撤退する準備はじめたほうがええかも。そやけどこのまま逃げ帰ったら、あのオバン怒り狂うやろなあ。うちほんまに左遷なるんやろか。グラグ島やて? 冗談やないど。あないなアザラシとペンギンしかおれへんところ、だれが行くかい」
クスノキ少佐は、燃え残ったタロットを急いでかき集めた。
「こうなったら生き残った屍兵つれて軍から脱走したる。世界征服の野望なし遂げるためには、もうそれしかあれへん。どこか国境の紛争地帯へでも行って、そこで新しい死体かき集めて、ふたたびうちの軍団作ったるねん。ジェイコブはいまいちやったけど、動物のパーツつなぎ合わせた甲種屍兵はじゅうぶん使いもんになるちゅうことが分かったしな。よっしゃ、そうと決まれば、こないな辛気くさいとこ長居は無用や、早いとこズラかったろ」
そうつぶやきイスから立ちあがろうとしたとき、彼女の後頭部にコツンと硬いものが触れた。
「手をあげろ」
「ひっ……だ、だれやねん?」
目だけでそっと背後をうかがう。ピンク色のアーマーを着た娘が、真っ赤にペイントされたリボルバーを突きつけていた。
「アシちゃん参上っ」
「……なんや、おまえ反乱軍の兵士か?」
「ノンノン、反乱軍じゃなくて解放軍ね」
「どっちでもええ。う、うちになんの用や?」
アシは舌なめずりしながら、コントパイソンの銃口をグリグリとあたまへ押しつけた。
「ふっふっふ。ついに見つけたぞ、ネクロマンコっ」
「マンコ言うのやめい、下品なやっちゃな。それと、うちに拳銃なんか向けたりしたらあかんやんか」
「どうして?」
「どうしてやあれへん、この肩章見てみいっ」
クスノキ少佐は、自分の肩を指さした。軍服に縫い付けてある肩章には、小さく赤十字が刻まれている。
「ええか、うちは軍医や。軍医ちゅうのはな、非戦闘員なんやで」
「それが、なにか?」
「アホっ、おまえ赤十字条約を知らんのか? 傷病者や衛生要員は、国際人道法上、攻撃の対象から外さなあかんのや。もし軍医と分かっていながら銃を向けたりした……もごっ」
口のなかに銃をねじ込まれた。彼女の顔が恐怖でひきつる。その耳もとへ唇を寄せて、アシが楽しそうに囁いた。
「あのさあ、アーネスト・ヘミングウェイって最後どういう死にかたしたか知ってる?」
クスノキ少佐はふるふると首を横に振った。小刻みに震える歯と銃口が触れ合い、カチカチと音を立てる。
「ショットガンで自分のあたま撃ち抜いたんだってさ。キャハハっ。すごいよね、天井が一面、血で真っ赤に染まったらしいよ」
ロイド眼鏡をかけたクスノキ少佐の目から、ぶわっと涙があふれた。
「至近距離からあたまに銃弾ぶち込まれると、どうなるんだろうね? もしかして内圧で目玉がポンって飛び出したりするのかな? アシちゃん見てみたァい」
銃口を突っ込んだままでカチリと撃鉄を起こした。クスノキ少佐のスカートのなかで、生ぬるい液体が太ももをつたってイスの下へ流れ落ちた。失禁したのだ。
「あのゾンビどもをなんとかしてもらえないかなあ。ねえ、アシちゃんのお願い聞いてくれる?」
クスノキ少佐は、ブンブンブンと首を縦に振った。
「おっけー」
口から銃が引き抜かれる。
クスノキ少佐はコホコホと咳き込むと、アイシャドウの溶け落ちた目でアシを見あげた。
「……頼むさかい殺さんといて。うちまだ死にとうない」
「おーよちよち、怖かったでちゅねえ。でも死にたくなかったら、早くゾンビ兵のお片付けをしまちょうね」
アシがあたまを撫でてやると、クスノキ少佐はひっくひっくとしゃくりあげながら、燃え残ったタロットをテーブルのうえに積みあげた。そしてゆっくり深呼吸をして、低い声でディスペルの呪文を唱えはじめた。
キリエ・エレイソン 冥府の番人たちよ
ダンバラ・ウェドゥ アイダ・ウェドゥ エルズリー・フレッダ
われ、汝らの神ペトロの名において命ず――
カードの山からブスブスと黒煙が立ちのぼる。アシが「ほう」と感嘆の息を漏らした。
日みちみちて 夜ながれながるるとき
非業の死を遂げし魂のあらゆる節々の結び目を解きたまえ
エゴ・オクシダム・エト・エゴ・ウィウェレ・ファシアム
髪の毛の焼けるようなにおいとともに、すべてのタロットから勢いよく炎が吹きあがった。それを見てクスノキ少佐は、おもちゃを取りあげられた子どもみたいな顔でつぶやいた。
「……ああ、うちの可愛い屍兵たちが」
そのとき講堂の大扉が開く音がして、カツカツと床を踏むくつ音が近づいてきた。
二人が顔を見合わせる。
アシは素早く腹ばいになると、伏射の姿勢のままドアへ銃口を向けた。クスノキ少佐はテーブルの下にもぐり込み、あたまを抱えうずくまった。
足音が、告解室のまえで止まる。
スーッとドアが開いた。
「止まれっ」
アシがそう叫ぶと同時に、ひと影が飛び込んできた。
たてつづけに銃声が起こる。
弾丸はたしかに命中した。
しかし床へ投げ出されたのは死体ではなく、脱ぎ捨てられた軍服だった。
銃撃を避けるためにフェイントで投げ入れたのだ。
とっさに身をひるがえそうとしたアシの喉もとに、ピタリと切っ先が突きつけられる。同時に彼女も、相手の眉間へ照準をさだめていた。
「動くな――」
二人の声が重なった。
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