屍体とシタイ女(二)

「連邦陸軍? あんた、ラゴス連邦の人間だったのかよ」

 ジェイコブが驚きの表情を見せると、男はそっとカウンターのうえに名刺を乗せた。

 連邦国家保安庁第一総局 フェリックス・アンドレヴィチ・ヘス

 そう印刷してある。

 しかしその肩書きよりも、ジェイコブは名刺をさし出したときの男の手に驚愕していた。人差指と中指の二本が根元から縫合されている。それはまるで裁縫を教わったばかりの少女がおっかなびっくりやったような、乱暴な縫いかただった。しかも明らかに長さや太さがバラバラだ。

 なんだよ、こいつ……。

 ジェイコブは急に、自分が絶対に関わってはいけない種類の人間と接点を持ってしまったのでは、という不安に駆られた。

「……その、なんだ、軍の仕事にどうして俺みたいな民間人を使うんだい? あんたのところには忠実に任務をこなす兵隊さんがいっぱいいるじゃないか」

「モルグに保管されている遺体の多くは戦場で命を落とした兵士たちだ。ホルマリン漬けにされたかつての仲間のすがたを見せることは彼らの士気にも影響をおよぼす」

「それはそうだろうけど、このあいだまで戦争をしていた相手国の人間を軍の施設内へ入れるっていうのはどうなんだろうね……例えばほら、情報の漏洩とかさ」

 闇のおくに隠された男の口からフッと息の漏れる音がした。冷笑したのだ。

「心配するには及ぶまい。見たところ君は小心な人間のようだし、それに今たいへん金に困っているそうじゃないか」

「なっ、なにを言う」

「私が無作為に相手を選んだと思うかね? ちゃんと調べてあるのだよ。君が非合法な金融機関から多額の借金をしていることも、近ごろその返済が滞っていることも、そしてしびれを切らした債権者がプロの回収屋に取り立てを依頼したこともね。彼らはもう脅しをかけてきたりなどしないよ。いきなり拉致して知り合いの闇医者のところへ連れていくはずさ。ああでも君の場合、腎臓は役に立たないんだったな。それは気の毒に。腎臓は心臓のつぎに高値で売れるというから」

 ジェイコブのひざが面白いほど震えだした。以前あれだけ頻繁にかかっていた督促の電話が、このところぱったりと止んでいる。最初のうちはもう取り立てるのを諦めたかと楽観していたが、世の中そんなに甘くはない。最近になって不審なワンボックスカーによく後をつけられていることを、このときジェイコブは思い出していた。

「かつてダグラス・マッカーサーはこう言っていたそうじゃないか。この世界に安全などというものはない。あるのはただチャンスのみだ、とね。べつに断ってくれても良いのだよ。声をかければ飛びついてくる貧乏人など他にいくらでもいる」

 男が名刺をつかんで立ちあがろうとしたので、ジェイコブはあわててその袖に取りすがった。

「おい待てよ……いや、待ってください」

 すでに貯金は底をついていたし、財布のなかにもここの飲み代をやっと支払えるぶんの金しか残っていない。知人という知人からは借りられるだけの借金をしてしまった。もう彼には後が残されていなかったのだ。

「……俺やるよ」

「フフ、それが君のためにも一番良い選択だ」

「で、なにをどうすればいい?」

 男は懐から一枚の紙片を取り出した。

「施設名と場所が書いてある。明日の午前十時にそこへ行って身分証と私の名刺を見せろ」

「わかった、恩にきるよ」

 紙片をポケットへねじ込むと、ジェイコブはそそくさと席を立った。一刻も早くこの場所から離れたかった。バーカウンターのうえに取り付けられた間接照明の仄暗い光が、木炭色をした男のローブにどこか禍々しい陰影をつけている。もうこいつとは関わり合いたくない。

 カウンターに酒代を置いてその場を去ろうとしたとき、男がふと顔をあげた。

 ジェイコブは見てしまった。

 フードのなかに隠されていたその容貌を。

「ひィ」

 ほとんどひきつけを起こすように息を飲むと、ジェイコブは本能的に後ずさって無様に床へ尻もちをついた。

 まるで国ごとに色分けした世界地図のように、男の顔面は様々な濃淡で変色した皮膚をツギハギに縫い合わせていたのだ。


 ふと、けたたましいクラクションの音でジェイコブの意識は現実世界へと引き戻された。考えごとをしながら歩いているうちに、危うく赤信号の横断歩道を渡りそうになったようだ。水しぶきをあげながら目のまえを走り過ぎていったのは、カーキ色をしたラゴス軍のトラックだった。

 傘を持ちあげ、雨にかすんだ街路の向こうを見やる。落葉を終えたばかりのケヤキの並木から、飾り気のないコンクリートの建物が上半分だけをのぞかせている。広い敷地を持つその建物は、まだ午前中にもかかわらず、外壁に並んだ無数の窓のうちのいくつかに薄ぼんやりと明かりを灯していた。

 とうとう来ちまったか。

 胃が締め付けられるような焦燥感にジェイコブは顔をゆがめた。

 もとは王立医科大学の予防衛生施設だったものを、ラゴス軍が接収した。

 名称も、連邦陸軍防疫本部と改められている。

 だんだん近づくにつれ、その建物が醸し出すグロテスクな雰囲気に飲まれそうになる。飾り気のないねずみ色の外壁はところどころが煤け、ごてごてと建て増しされた棟が、浄水場のろ過装置のように不均一な連結を見せている。そしていったいなにを焼却しているのか、屋上にそびえ立つ煙突からは絶えず火葬場のようにモクモクと黒煙が吹きあがっていた。

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