第51話 種族の壁

「というわけで、エルさんについてきてほしいんです……ねえ、エルさん! 聴いてますか?」


 べべの声で僕は我を取り戻し、慌てて聞き直します。


「ごめん、ベベ。どんな用事だって?」


「まったくもう、いくらクリオさんのことが気がかりだっていっても、あなたが悩んでどうするんですか! とにかく、ルキアさんの紹介で、僕に会いたいって人間がいるそうなんです。ほかのみんなならともかく、僕に会いたいなんて、ちょっと変でしょう? 困ったことになったらいけないから、エルさんも一緒に来てほしいんですよ」


 そういうわけで、僕はベベと一緒に、べべに会いたいという人間に会いに行くことにしました。

 本当はクリオとゆっくり話す時間を取りたかったのですが、気持ちの整理が全然つかなくて、何を話したらいいのか、まるでわからず、結局僕からは何も声をかけられなかったのです。




 ベベと一緒に向かった先は、小さな出版社のようでした。

 大理宮跡にほど近い、さまざまな会社が立ち並ぶ通りに、こじんまりとした事務所が構えられています。


「エルさん、この住所で間違いないようですが……」


「うん。じゃあ、呼び鈴を鳴らしてみようか」


「き、緊張しますね……」


 人間の国では、ボタンを押すと魔力が流れるタイプの呼び鈴が主流で、魔物の国のように宝石に魔力を流す形式はほとんど採用されていないようです。

 ベベが震える指でボタンを押すと、チリンチリンという可愛らしい音が鳴り、スピーカーから声が聞こえてきます。


「はい、ウニベルサル出版です」


「あっ、こんにちは。お招きいただいたベベと申します」


 ベベがそう名乗った瞬間、事務所の中でドタドタと騒がしい音が響き、しばらくしてドアが勢いよく開きました。


「あなたがベベなの!?」


 ドアの向こうから、息を切らせて出てきたのは、さっき鳴ったベルの音みたいに可愛らしい、小さな人間の女の子でした。


「は、はい。僕がべべです」


 女の子は、目をキラキラと輝かせ、がっしりとベベの手を握ります。


「初めまして、私、翻訳家のミミ・アルベルタです! ああ、ずっとお会いしたかったんですよ! でも実際お会いすると何からお話したらいいか……とりあえず結婚してください! いえ、まずは握手してください!」


「えっ!? い、いやもう握ってますよね……?」


 勢い込んで喋る女の子にベベがたじろいでいると、事務所の奥から初老の男性が顔を出しました。


「おおー、やっぱりあのベベか!」


「ああっ! 学者のおじさん!」


 おじさんの顔を見て、ベベが何かに合点したように声を上げました。


「まあまあ、とりあえず中に入ってよ。むさくるしいとこだけどさ」


 おじさんに招き入れられ、僕たちは事務所の中に入ります。

 小さなソファとこじんまりしたテーブルだけの応接室で、おじさんは改めて自分が何者かを名乗りました。


「やあ、よく来てくれたね。私はウニベルサル出版の代表、ミゲルだ。この会社を立ち上げる前は、帝都大学で文学を研究していたんだ。専門が異種文学でね。フィールドワークで北部戦線方面に出ていたところ、戦いに巻き込まれて捕虜になった」


 その名乗りを受けて、べべが彼のことを紹介します。


「アルサムで収容されていたとき、僕が人間の学者から言葉を習ったって言ったの、覚えてますか? この人が、その先生なんですよ」


「どうも初めまして、ベベと一緒に魔物の国の中央銀行で働いています、エルンスト・バルトルディです」


 なんと自己紹介したものか、どうも自分が場違いな気がして、僕はあいまいな表現で頭を下げます。

 しかしミゲルさんの反応は、予想と違っていました。


「いやいや知ってるよ、バルトルディ候のご子息だろう? 魔物の国で最高位の貴族の子弟で、あのルキア将軍とともに帝国と戦い、帝都の危機を救った英雄だ! しかも褐色の肌の美少年ときてる。共和国じゃもう君はアイドル並の人気だよ」


 お世辞なのかどうかよくわからない言葉に困惑しつつ、僕は話題を変えるべく、思い切って気になっていることを聞きました。


「ミゲルさんが魔物の国でべべと出会ったというのはわかったんですが、ミミさんも一緒に?」


「ああ、そのことなんだが……順を追って説明しよう。まずベベ、私が魔物の国を出るときに、君の原稿を預かったこと、覚えているね?」


 ミゲルさんは真面目な調子でベベにそう聞きました。


「ええ。異種文学研究の材料にしたいっていうことで、僕なんかの小説でよければとお渡ししました」


「すまん、あれ、出版しちゃったんだ!」


「ええ!?」


 ミゲルさんは地に頭をこすりつけんばかりに謝ります。


「本当にすまん! 本土に戻る船でじっくり読んでみたら、これは売れると思ったんだ。なんとか連絡を取ろうとしたが、まったくどうにもならなかった。いつ戦争が終わるかもわからん中で、埋もれさせてしまうべきではないと思ったんだ」


 ミゲルさんに続いて、ミミさんが付け加えます。


「もちろんこれまで売れた分の印税額は、ちゃんと取ってあります! 現時点でおよそ18万ダリクはありますよ!」


 僕は驚いて、つい指を折って計算してしまいました。


「18万ダリク!?  えーと、1ダリク120モルドだから……2200万モルド!? ひと財産じゃないか!」


「ええええ!? うっ、い、息が、息がうまくできない……」


 あまりのことにべべは脂汗を垂らしながら深呼吸をしています。

 僕はべべの代わりにもう少し状況を聞いてみることにしました。


「いったい、何がどれだけ売れたんです?」


「うん、いちばん売れたのは『アルサムベジパイ殺人事件』で、30万部売れた。印税率は一般的な相場に準じて10%で計算しているよ。それでね、出版に当たって翻訳を担当してくれたのが、彼女なのさ」


 ミゲルさんはそう言って、改めてミミさんを紹介します。


「彼女は異種文学翻訳の旗手と言ってもいい人気作家だよ。正直、小説が売れた要因の半分くらいは、彼女がベベの作品に惚れ込んで、翻訳を担当してくれたおかげだ」


 ミミさんは先ほどと打って変わって、謙虚にミゲルさんの言葉を否定します。


「いえ、べべの作品の力です。あの……よければ、読んでみてください」


 そう言ってミミさんが差し出した本を受け取ると、ベベは貪るように読みはじめました。

 僕も一冊お借りして読んでみましたが、努めて平易な表現で書かれており、人間の国の言葉にそこまで習熟していない僕でも、難なく読みこなせることに驚きました。


 しばらくして、ベベがぽつりと言葉を漏らしました。


「……これは……すごいです。人間の国の言葉で、しかもこんなに簡単な単語ばかりなのに、こんなに繊細に僕の気持ちを語ることができるなんて……」


 そうして本を置くと、べべはミミさんに問いかけます。


「ミミさんがすごい芸術家だってこと、これを読めばはっきりわかります。でも、どうして僕なんかの小説を翻訳してくださる気になったんですか? こんな無名の、しかもオークなんて種族の小説を」


 ミミさんは少し恥ずかしそうに、けれどしっかりとした口調で答えました。


「私、今まで何冊も、異種族の本を翻訳してきました。そのたびに、異なる文化、異なる土地の魅力を伝えようとしていたように思います。異国情緒こそ異種族文学に求められている魅力だと思っていました。でも、あなたの小説を読んだとき、それは間違いなんじゃないかって思ったんです」


 ミミさんの言葉が、次第に熱を帯びていきます。


「あなたの小説を読んで、私は懐かしさを感じました。アルサムの田園に吹き渡る、黄金の風。揺れる穂波。いつかどこかで見た、思い出の中の風景が、目の前に蘇ってくるようでした。大地の、そして家族の温かみが、文字を通じて伝わり、いつの間にか涙が流れていました」


 コクマ村で見た、田園の風景が思い出されます。

 たしかに、べべが生まれ育ったあの土地には、僕のように都市で育った者ですら胸が切なくなるような、不思議な力がありました。


 ミミさんは、心からの尊敬のまなざしでベベを見つめながら、ゆっくりと、気持ちを言葉にしてゆきます。


「そのとき、気づいたんです。私の役目は、異国情緒を伝えるよりも、異種族の間でも変わらない、この気持ちを伝えることなんだって。そうして、この作品と、この人となら、種族の壁を越えられる。そう思ったんです」


 それから、ミミさんは衝撃的なことを口にしました。


「あなたの作品を翻訳していくうちに、私の中で、不思議な気持ちが生まれていました。何度も自分の中で確かめて、今はもうはっきりと自覚しています。ベベ、私、あなたに恋をしています」


 ベベは、突然の恋の告白を受けて、顔を真っ赤にしたまま、何も言えずにいます。

 ミゲルさんが助け舟を出すように、言葉を添えます。


「ベベ、ミミは本気だよ。まあ、恋の話はともかく、きみは共和国じゃけっこうな人気作家だ。しばらく、この国で暮らしてみないか? 答えはすぐにじゃなくていい。もしその気なら、移住から就労の手続きまで、わが社がしっかりサポートする。じっくり考えてみてくれ」


 このとき僕は、運命の歯車が、一つの物語の終わりに向かって激しく回転を始めるのを、たしかに感じたのでした。

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