あと九十五本... 「自転車」

「お先に失礼しまーす!」


 後輩のリョータが頭を下げて出て行った。お疲れさぁん、と軽く言葉を返す。

 あいつ、最近楽しそうだ。そういえば、この間カノジョ連れてこの店に来たんだっけ。自分のバイト先、しかもこんなファーストフードにカノジョ連れてくるとか、どんなデートだよ。なんて名前だっけ、確か葉子ちゃんとか言ったかなぁ。

 それに比べて俺といえば、ちょっと前に自転車がオシャカになる、定期入れは落とす、狙っていた大学の後輩の女の子に飲み会を断られる…。おまけにカノジョは二年前に別れてそれっきりだ。察してほしいが、下の方もつまりはそれっきりという事になる。あれから一度だけ元カノジョを見かけたが、新しい男とイチャついていた。俺には全く見向きもしなかったというか、気付きもしてなかったな……。


 ……って、そんなことを考えてる場合じゃない。


 俺は溜息をつきながら、従業員用の入口から外に出た。

 バイト先のファーストフード店は、大通りの前に作られている。ドライブスルーが併設してあるのもあって、店舗の三倍くらいはある駐車場と、駐輪場が備え付けられていた。従業員用の入口を通ると、その一角に出るようになっている。ぶらぶらと自転車置き場に向かおうとして、俺は自転車がオシャカになっていた事を思い出していた。

 どうしてこうもついていないんだ、俺は。

 仕方なく家まで徒歩で帰ろうとしたときだった。


 ――また置いてある。


 いつからか、ずっとあそこに置いてある。

 群青色の、持ち主の書かれていない小汚い感じの自転車だ。

 書かれていないというより、掠れてしまって判読不能になっているという方が正しい。それでも数字やらどことなく読み取れる部分はあったから、この持ち主は小さい傷だとかそういう掠れ具合とかで自分の自転車を判別しているのだろう。前カゴだけがついているタイプで、普通の自転車という感じだ。

 俺がバイトに入った一年前にはもうあって、いつからあったのかまったくわからないらしい。夜勤の奴が偶に見回ってもとめてあるあらしく、前に入っていたバイトや正社員が置いていったものでもなさそうだ。どちらにしろ迷惑極まりない。そろそろ警察かどっかに引き取ってもらおうかとも話していたが、持ち主もわかっているのか、そうなると途端にどこかに行ってしまう。そして、たいてい数日した頃にまた戻ってきているという寸法だ。ひょっとしたら誰かが盗んで、その度に返しているのかも。


 その時自転車にふらふらと向かって行ってみたのは、まったくの出来心だ。思えばその自転車は店舗の内部からも見えにくい場所にとめてあって、外に出ないとわからない位置にあったのだ。よくよく覗き込むと錆びかけた鍵がかかったままになっていて、それ以外にチェーンなんかもしていなかった。

 俺はそっと自転車のスタンドを蹴り上げた。ガタン、と小さな音がする。タイヤの空気もそれほど減ってはおらず、今にも乗れそうだった。

 多少埃っぽかったが、サドルの高さもちょうどいい。


 どうせ、誰かが放置しているんだ。一日くらい借りていったってわかりゃしない。俺はそのまま裏道の方へと自転車を漕ぎ、誰にも見つからないようにして家に帰った。

 一度だけ昼間に呼び鈴が鳴ったが、何のことはない、新聞の勧誘だった。

 講義が休みだったせいで直接バイトにその自転車で出向き、駐輪場にそっと置いた。中ではみな気付いていないかのようにいつも通りの作業をしていた。


 俺はそれから、時折その自転車を活用することにした。バイト先自体が大学から一駅程度離れた場所にあったし、俺の下宿も似たような位置関係にあったから、これは重宝した。

 とはいっても毎日使うわけにもいかなかったが、俺は段々と大胆にも数日続けて借りていったりするようになっていった。まさに自分の自転車というわけだ。盗難届すら出されていないようで、警官が特段調べに来ることもなかった。

 ところが、その自転車はいつの間にか片付けられていた。それとなく主任に聞いてみたところ、数日前に放置自転車への警告があったらしく、回収時に一緒に片付けてもらったそうだ。


 けっこう便利だったので、ちょっと残念ではあった。

 自転車だって安い奴でも二万くらいはする。そろそろ買わないと普段の生活でも不便だが、貧乏学生にその出費はけっこう痛い。バイトしているとはいえ欲しいものというのはどんどん出てくるし、飲みに行ったりすれば当然それだけで金は出て行く。

 俺は考えあぐねた末、友人や部活の先輩たちにそれとなく情報をもらう事にした。

 簡単なことだ。バイト先にちょうどいい先例があったし、それを話しながらそういえばこの近所にもあるのかと聞く。たったそれだけだ。他の奴らは大学にも赤い自転車があったとか、駅前に黒いのがあったとかいう話をしてくれた。駅というのは大学に一番近い駅の事で、電車通学している学生はみんなそこから降りてくる。

 大学側のは昔誰かが置いていってそのままらしく、埃が積もっている程度で誰も使っていないらしい。それでも時折誰かが構内で乗って行っているようで、無くなってはいつの間にか帰ってきているらしい。どうやら先客がいるようだった。

 反対に駅前にあるのは古くて一番隅に重鎮のように居座っているらしいのに、誰も使った形跡がなく、そのまま放置されているらしい。そろそろ片付けられるんじゃないかと噂されて一年近く経っていたらしく、その間(偶然かもしれないが)誰かが乗っていたり、消えていたりなんてことは無いらしかった。この話をした先輩もいつからあるのかわからず、誰のものかも見た事が無いと言っていた。


「でもなぁ、あの自転車、とにかく胡散臭いんだよ」


 先輩は首を傾げながらそう言った。その黒い色合いからか、何故か不吉だの不幸の自転車だの変なあだ名がついているというのだ。とはいえ、何故そう呼ばれているのかもサッパリわからないらしい。何かこれといった逸話があるのかどうかもわからず、俺がそれを尋ねると、そのうちOBの先輩に聞いてみるわ、と言われただけで済まされてしまった。

 俺はその情報を仕入れたものの、その後すぐに試験期間に入ってしまったために、バイトもろくに入れられなくなってしまった。そこのファーストフード店は大学にも近いおかげか、そういうところはぬかりなく了承してくれたのだ。というより、この近辺一帯の店は大体そういうところが多かったように思われる。俺は下宿部屋と大学を往復するだけで手いっぱいになってしまったが、そんなことも忘れかけていたころにそれは起こった。


『悪いけど、今日バイト入れないか?』


 携帯電話からした主任の声は、困っているようだった。

 なんでも今日入れる予定だった先輩が急に入れなくなり、正社員の方も捕まらないらしい。それで唯一通じたのが俺のケータイだったというわけだ。

 別に用事がなかったから良かったものの、多少のめんどくささは感じていた。だからリョータの奴に押し付けてやろうという下心で、こう言ったのだ。


「今日って、ひょっとして今からっすか? リョータとか捕まらないんですか」

『リョータ? ……ああ、聞いてないのか? あいつはバイト辞めるって』

「はぁーっ!?」


 寝耳に水だった。この忙しい時期に、なんて奴だ!

 …と言っても、話を聞くと辞めると伝えにきたのは数日前の事で、俺は試験とレポートの提出でヒィヒィ言ってた頃らしい。多分あいつも同じような頃合いを見計らって辞めたんだろう。俺は仕方なく、急いで荷物をまとめると、ラウンジから外に出た。

 天気は暗く、小雨でもきそうな天気だった。

 歩いている最中に降り出すかもしれないし、最悪だ。俺は駅の方へと足を速めた。帰っていく学生たちを横目に通り過ぎて、俺はふと、駅前にあるという黒い自転車を思い出した。

 そうだ、あれを使ってやれ。

 俺はそっと駅前の駐輪場に紛れ込み、いかにも自分の自転車が見つからないというように見回した。改札口は奥まった場所にあって、そこからじゃ何をしているかなんてちょっとやそっとの事じゃわからないだろう。

 当の黒い自転車はすぐに見つかった。話通り、隅の方に古株のように居座っていた。そっと確認すると、鍵はささったままだった。弄るふりをして、スタンドを蹴り上げる。

 駅員に見つかる前に、自転車をバイト先の方角に向けて漕ぎ出した。小さなギシリという音がしたものの、動きが安定すると気にならなくなった。動きも思いのほか楽に動き、俺はそのままバイト先に向かって漕ぎ出した。バイト先の連中に見られたら、友人に貸してもらったといえば事足りるだろう。

 電動自動車ではないにしろ、それなりのスピードも出るし、快適だ。こりゃもともとは結構良い値段の自転車だったのかも。


 俺は今にも降ってきそうな空から逃れるために、スピードをあげてファーストフード店まで漕いだ。いつもよりも早く店まで辿りついたとき、ふと異変に気が付いた。

 …どんどん速度が上がってる。足が止まらない。今までこんなこと全然なかったのに。故障か? いや、そんな故障ありえるのか? 自転車だぞ?

 バイト先に行くには信号を渡らないといけないのに、このままじゃ止まれない。信号は赤で、平日だというのに小雨が降っていたせいか、交通量が多い。俺は青くなって、ブレーキを掴んで必死に引き上げた。きぃきぃいう音だけが俺の耳に届く。


 止まらない。なんでだ、故障か? やっぱり壊れていたのか?

 急に手を掴まれるような感覚に、思わず視線を下に向けた。


「うっ……!?」


 そこにあったのは無数の白い手だった。それらは全て俺の腕を、指を、ブレーキを掴んでいた。

 振り払うようにして手を離した直後、痛みでもない衝撃がすさまじい音とともに体を突き抜け、地面に叩きつけられた…。



 ……


 この自転車が不幸だの不吉だの呼ばれていた理由を、俺は身をもって知る事になった。この数年近く乗る者がいなかったのは、多分これが原因なのだ。だけれど、大学側も人が入れ替わり、噂だけが残った。たぶんこんなところだ。


「……ええ、そうなんですよ。物凄いスピードで走ってて」

「危ないなあって思ったんですけど、そのまま車がまだ通ってるのに飛び出して……」

「自転車? どなたか片付けられたんじゃないですか? ……いえ、私は違いますが……」


 目撃者は多数いたようだった。

 あの運転手には悪いことしたかなぁ。

 でも、もうどうでもいい。


 俺は無数の白い手の一つになって、ブレーキを阻止する。

 盗まれるのを阻止しないといけない。

 もっと。

 もっと。

 もっと……

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