第22話

「待った、お兄ちゃ……」

 俺たちは愛し合っていた。キスをしていた。それは甘い甘い、まるで極上の生クリームのような、甘くて柔らかい感触。それが、俺の唇を、そして俺の脳も心も身体全体を支配する麻薬のように、俺の前身に快楽という刺激を巡らす。

 ……祐佳里さんが来る前に練習しておきましょ。その莉紗のひと言で唇を重ね始めた俺たちは、少なくとも俺自身は、莉紗に官能を奪われ続けて、そのまま、キスという食事を摂り続けていた。

 カバンがリノリウム床を叩く音に呼応して、唇が離れる。

 莉紗の口許を覆う、俺の唾液。

「まだ、足りないのだよ」

 そう言って、指で口許をすくい取り、舌でそれを舐める。その仕草すらも、俺を恋に嵌める罠であった。

 柔らかい唇。少しだけ赤みを纏ったその皮膚に、思わず俺は飛び込まざるを得なかった。再び快感が全身を覆う。

「ぉ兄ちゃん、何やっているの?」

 そんな言葉に耳を貸すほど暇じゃない。目の前にぶら下げられた、俺を誘う唇に夢中なんだから。

「莉紗お姉ちゃんも、何やっているの!」

「接吻」

「どうして?」

「好きだからだよ」

「えっ、さっきまで嫌っていたのに?」

「いいでしょ。恋は説明できないのだよ」

「説明して」

「嫌」

「ぉ兄ちゃん、何とか言ってよ」

 そういって、無理やり、力尽くで俺と莉紗の間に割って入る、祐佳里。

「どうして、祐佳里じゃなくて、莉紗お姉ちゃんとなのよ?」

 怪訝そうな目を向ける祐佳里。

「なんか、待っている間に話していたら気が合っちゃってさ、取り敢えず付き合ってみようか、ってなっちゃったんだよ」

「違うわ、私は本気よ!」

 莉紗が声を上げる。

「か、彼氏だから、私、胸を触られても……き、気持ちいいもの」

 そう言って俺の腕を、自分の胸元に押し付けてくる。柔らかい感触が腕を凪ぎ、そして手の先までの感覚が麻痺する。

 ……さわってもいいの?……

 何度も、何度も続けざまに、俺の腕に押し付けられる感覚に、俺の視線はそこを逸らすように宙を這い、そして祐佳里に辿り着く。……ぉ兄ちゃんは快楽で悶え死にそうです。

「ぉ兄ちゃん?」

 たぶん、とてつもなく下心丸出しなのに、それを無理やり隠そうとして奇妙な表情であろう俺の方を見ていた祐佳里が、ぼそり。

「大きい方が好きなの?」

「好き」

「男の子は当然よ!」

 俺の答えに勝ち誇ったように、莉紗が宣言する。

「残念な身体ね、祐佳里さん」

「くーっ!!」

 グラマラスな美人とちんちくりん、というのは失礼だが、発育途上の従妹を比較するのは確かに分が悪いのは祐佳里にもわかっているのだろう。二の句の継げなくなった祐佳里は黙りこくった。しかし。

 莉紗に対抗して、自分の胸を俺の手に押し当てる。

「ぉ兄ちゃん、ロリコンだよね! しかも、シスコンだよねっ!! こんなかわいい妹系美少女と結婚できるんだったら絶対したくなるよね、絶対」

「どこの変態よ! 統計的なデータ出してよ」

「今はちっちゃい……ちょうどいい感じのサイズがトレンドだよ、ぉ兄ちゃん」

「さすがロリータね。大は小を兼ねる、っていう言葉を知らないのかしら」

「今はエコの時代だよ。無駄に肥え太らした胸よりも、ダウンサイジングだよ」

「言うわね」

 そう言うと、莉紗は掴んでいた俺の腕を放すと、着席位置を少しずらす。そこは、俺の膝の上。

「私の武器は胸だけじゃないわよ。膝の上に乗っかっている悪い子を調教して欲しいな、こーいち」

「あっ、ずるい」

 祐佳里も身体を寄せてくる。

「もうちょっと自重してくれ」

 俺はたまりに溜まったイライラを爆発させてしまった。

 莉紗、俺を嫌いにならないだろうか。いや、祐佳里のためだけに好きであることを演じてくれているのに、俺が祐佳里に気があると勘違いして放置されるのではないか。

 言ってから、その最も恐れている事態に対する恐怖が俺を襲う。

「あ、あのさ、俺は今までの莉紗が好きなんだからさ、莉紗は今までどおりでいいんだよ。祐佳里もさ、嫌いじゃないけど、恋愛の対象として意識してないんだよ。祐佳里、ごめん」

「こーいち、私こそごめんなさい」

 莉紗は深々と俺に頭を下げた。

「好きでいてくれる?」

「勿論、莉紗のことは好きだよ。俺としては、莉紗はあこがれであってほしいんだ。ちょっと近付きがたいけど、それをちょっと離れて眺めているのが好きなんだ。身体で云々とか言うよりも、気持ちを向けている、それだけで幸せになれる。だから、俺が莉紗のことを好きでいるという気持ちに無理に応えようとしなくていい。莉紗は莉紗らしく、いつもどおりにしていてくれればそれでいいんだから」

 それが、俺の偽らざる本心だ。祐佳里の手前、彼女を演じる莉紗の負担を考慮した発言ともとられかねないけど、言いたいことは言っておきたかった。

「わかったわ」

 莉紗は続ける。

「でもね、私はもっと積極的に恋愛したいな。こーいちの気持ちも尊重したいけど、私の希望も聞いて欲しいな」

「もちろんだよ」

 言いながら、ちょっと後悔している。あの唇の感触が忘れられない。胸の柔らかさが忘れられない。乗っかった尻も、目の前にあった長い髪も、ちょっとずつ、ちょっとずつ遠ざかっていく。でも、これでいい。

「ぉ兄ちゃん、祐佳里には性的な興味はないんだ」

「ない。あくまで、従妹で、一緒に暮らしているというだけだ」

 そう言うと祐佳里は、部屋を後にする。捨て台詞を残して。

「見た目だけの女にホイホイ付いていくような安い男だったんだ。なんか損した気分」

 莉紗と俺。再び二人っきりに戻った部屋には静寂が訪れていた。見た目だけの女、安い男、か。もちろん、祐佳里のことをちゃんと考えて、やりたくないであろう恋人役なんかを自ら引き受けてくれた莉紗を含めて、自分たちがそんな存在でないことは百も承知だが、口にされるとショックである。

 無駄に過ぎていく時間。

「帰りましょ」

 その言葉が莉紗から投げかけられたのは、まさに救いだった。

 会話のないまま家路につく。

「祐佳里さんによろしく」

 そう言って、莉紗は隣の部屋へ消えていった。

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