第13話

 入学前説明会の朝……。

 二年の俺は、別に行く必要はないのだが、

「ぉ兄ちゃん、学校まで付いてきてよ」

「ぉ兄ちゃん、ね、お願い」

と昨晩、祐佳里に強要されて、取り敢えず学校までのルートを付いていくことになったのである。

 寝ぼけ眼をこすりながら、布団から起き上がろうとすると、額に、柔らかいものが接触する。目の前が真っ白になる。な、なんなんだ、この状況。

「もうっ、ぉ兄ちゃんってエッチなんだから」

 祐佳里の声が、額を通じて俺の頭に響く。それに混じって、早めの心音が混じる。

 もしかして……。

 起こそうとした上体を再び床に戻すと、視界の外から祐佳里の顔が現れる。白を基調としたセーラー服――女子用の制服を身につけた祐佳里。彼女の胸元……真っ正面であるが、そこに皺が寄っていた。俺は思わず目を背けた。

「どう、ぉ兄ちゃん。キ・モ・チ・ヨ・カ・ッ・タ?」

 目の前から消えたはずの祐佳里が、不思議そうに自分から視界に潜り込んでくる。制服の襟に手を掛けながら。

「ぉ兄ちゃんが望むなら、いいんだよ」

 頬を赤らめた祐佳里のその手が、ゆっくりと動く。頸の下の皮膚が、少しずつ、その露出面積を増やしていく。

「や、やめろよ祐佳里。ぉ兄ちゃんはそんな趣味はないから」

 俺は、左手で目を塞ぎ、もう片方の手を左右に振り、拒否の姿勢を示す。少し間を置いて、左手の指の間隔を拡げると、祐佳里は制服の乱れを直していた。しかし、俺の視線に気づいたのか、こちらを凝視したかと思うと、そのまま顔を寄せてくる。

「本当なの? でも、それって変だよね。生物として」

「ふ、普通だろ」

「やっぱり、躰を重ねて、ケダモノの本性を目覚めさせないとダメだよねっ」

「だから、そういう話はやめてくれ」

 熱い。とても、熱い。火照った俺の顔に重ねた左手は、まるでやけどしそうな顔の表面温度を伝えてくる。

「もう、ぉ兄ちゃんったら……想像したでしょ、私のはだか」

 拒否はしない。俺は、苦渋を浮かべながら、ゆっくりとこうべを前に垂らす。

「正直でよろしいっ!! 祐佳里、おにいちゃんのそういうところが大好きだから」

 そういうと、彼女はゆっくりと跳躍する。まるでバレリーナのように制服のスカートを両手で支えながら、くるっと一回り。見えそうで見えない、絶妙な角度で。

「制服、どう?」

 再び俺の正面に顔をさらした彼女は軽く一礼する。そして、はにかんだ笑顔で頸を傾ける。

「どう、って言われると――えーっと、かわい……」

「気持ちがこもっていない!」

 強く指弾される。

「男の人に制服姿晒すの、初めてなんだよ、ぉ兄ちゃん。だからね……」

 そう言って、すこし間を置いて

「好き、だから。ちゃんと、見て欲しいな。ぉ兄ちゃん」

 下向きに顔を赤らめて、手を擦り合わせながらもじもじしている祐佳里に何とか優秀な回答を施そう、などと考えても少し気恥ずかしい言葉が頭を巡るだけで、文章として成立するほどの美辞麗句に発展するには、いかんせん、俺のセンスがなかった。

 それに、うつむいた彼女が時々、『ぉ兄ちゃん』の様子を見るべく見つめてくるのが、なんともいじらしい。

 それが余計に、言葉の成立を阻んでいた。

「うるさいわね、二人とも!」

 扉の外から強い口調で飛ぶ美少女の声に、俺も祐佳里も、はっと我に返る。

「隣の七星莉紗よ!! 隣近所、もちろんわたくしに対してとっても不快なんだから、静かにするのだよ!!! 近所迷惑のアツアツ色ボケトークは!!!!」

 マシンガンの様な言葉がふと止まる、そして……。

「べ、別にアンタのことが気になって盗み聞きしていたわけじゃないんだからねっ!!!!! もちろん、アンタと祐佳里ちゃんの関係の進展を邪魔しようなんて、一切考えてたないんだからねっっ!!!!!!」

「はいはい、今、開けます」

 慌ててベッドから飛び起きて、玄関ドアの鍵を解錠する。金属音が周囲に漏れるやいなや、ドアが急に開く。

 そこには顔を真っ赤にした制服姿の七星が立っていた。そのまま七星は、やや下の方を指差しながら、まくし立てる。

「なんなのだよーっっっ!!!!!!! その下半身は。やったの? やっていないの? はっきりするのだよ」

「エッチ、気持ちよかった……ケダモノなぉ兄ちゃん(はぁと)」

「キィーッ!!!!!!!! 浩一、アンタって奴は妹に手を出すのかよ」

 ぽっ、と顔を赤めるという、いかにも、な祐佳里の演出を目にした七星が、俺の首根っこを掴むと、あらんばかりの力でつるし上げる。人間、リミッターが外れると十倍くらいの力が出ると言うが、気が動転したのか、まさに怪人みたいな力を発揮していた。俺の足は宙を蹴る。

「妹じゃないって、従妹。祐佳里もウソつくなよ」

「いや、おもしろいから。祐佳里、もうぉ兄ちゃんなしじゃ生きていけない躰になっちゃった。ねえ、今度はいつ相手してくれるの」

「どーゆーことよっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 もはや、血そのもので顔が形成されているのかと思うくらい、真っ赤な莉紗。堪忍袋? 切れているとか言うレベルでなく、もう消滅しているだろうな、という感覚で死期を覚悟すべきか?

「祐佳里、俺が殺されそうなのだが」

 と言うと、祐佳里はふいと余所を向いた。楽しんでやがるな。

「祐佳里、まだ処女だよ。莉紗おねーちゃんにもまだチャンスあるよ」

「そ、そうなの?」

 急に首筋に突き立てられた七星の手が緩む。

「死ぬかと思った」

 俺が自分の喉に手を当てると、七星の手の指の痕跡がはっきりと残っていた。

「不純兄妹異性交遊の代償よ」

「俺は何もやっていない、だろ」

 抗議するも、七星には逆に鋭い目つきで睨み返された。そして、

「疑いの目を向けられるような言動をとることが、私に対する背徳よ」

「別に、七星さんには……関係ないだろ」

「あるわよっ、充分!!」

 吐き捨てるように叫ぶ七星。そこに、祐佳里が口を挟む。

「莉紗ぉ姉ちゃんは浩一お兄ちゃんが好きなんだよね。違うの?」

「そうなのか?」

 もし、そうだとしたら……俺は妹の言葉にドキドキした。さっきとは全く逆の意味で。

「そ、そんなことないのだよーっ!!」

 莉紗の渾身の叫びに、俺はため息をついた。

「そう、だよな」

「だったら、祐佳里が浩一ぉ兄ちゃんを独占してもいいよねっ」

 そういって祐佳里は、俺の身体を横からぎゅっと抱きしめる。莉紗に見せつけるように。

「何をしてるのよ。近親相姦よ!!」

 見かねたように土足で上がり込んできた莉紗は、俺と祐佳里の間に横たわる腕を引きはがしにかかる。

「だぁかぁらぁ、従妹だって! 合法だよっ!!」

「法律云々なんて関係ないのよ。倫理的に問題だってこと」

 俺と祐佳里の間に割り込むことに成功した七星は、妹に背を向け……即ち、俺の方を向いていた。彼女のあまりに豊満な胸部が、俺の肩から顎のあたりにかけてを刺激する。

「あ、あの、七星さん。ちょっと、俺には刺激が……」

「アンタがこの妹のこと忘れてくれるなら、そこを触るなり顔をうずめるなりとていいから……と・に・か・く、この女と別れるのよ」

「色ボケおねーちゃん、ずるい。祐佳里も対抗しちゃうんだから」

 祐佳里も負けじと俺に身体を寄せてくるものの、その残念な胸は七星のそれに阻まれてしまう。

「誰が色ボケですって? 私は冷静なのだよ!」

 七星の声、吐息、心音。空気による振動を介することなく、直接的な接触によって伝達される。それら全ては、短く、多く……高い興奮状態にあることが容易に推察できた。

 いや、俺の方が興奮だよ。何せ、密かに想い続けていた七星に身体を接触させているのだから。顔の表面から、あまりに柔らかすぎるのに強すぎる刺激が俺の体内を沸騰させる。

 いや、いけない。

 しかし、顔をそこから離そうとしても、俺の頭を抱きかかえた七星の腕に阻害されて思うように行かない。く、苦しい。

「ぬぁ、ぬぁぬぁほしぃ~」

「何、言っているのよ」

 手を緩めない七星のせいで、俺の呼ぶ声はもう、誰にも届かない。

「あっ、ぉ兄ちゃんが死んじゃう……」

「えっ」

 祐佳里の指摘に過剰反応したのか、すっと拘束が外れる。今まで、胸の隙間からわずかに入っていた空気が、一気に俺の肺に流れ込む。

 ぜーはー、ぜーはー。

「七星~」

「何?」

 きょとん、とした印象、まるで俺の生死なんぞ関係ないかのような物言いに、つい怒鳴る。

「死にそうになったじゃないか」

「死ねば? 不純異性交遊なんて企図する変態さんは」

 そう、さらっと言われる俺。幾らクールなキャラクターでも、死ね、なんて言われると俺もがっくりくる。

 しかも、それが、まだ告白もできない想い人だったら。

 ……諦めました。

 もう、ただのお隣さんですよ。怖い……。

「祐佳里……、ぉ兄ちゃんはもう駄目だ。最後に子供でも残して……」

 俺はもう、頭が真っ白になって前後不覚、とんでもないことを口走ってしまったようだ。

「妹とくっついたら本当に殺す!」

 凝視する七星の目には殺気が宿っていた。それを見て俺は、ふと我に返る。

「そうだ、話題を変えよう。で、七星も学校行くのか?」

「……部活よ。別に、あんたが学校に行くというのが聞こえたからって着替えたわけじゃないんだからね」

 俺の作戦……という程のものではないが、とりあえず話題を逸らすことに成功した。というより、何、その変な回答?

「わかってる?」

「はいはい」

 俺は適当に応える。

 それにしても、七星の制服姿、である。学校のマドンナ、いつも遠目に見ていた理想の少女がそのままの姿で目の前いる。というか、さっきまでその大きな胸に顔をうずめていました。

「なに、ジロジロ見ているのよ?」

「い、いや、何でもない。部活なんでしょ」

「そうよ」

 鋭い目つきで七星が凝視してくる。いや、俺のことを見ててくれるのはうれしいのは確かだが、どうにかいつものカワイイ七星さんでいてくださいよ、ねえ。……そう言えないくらい、目も逸らすこともままならないほど彼女の“刺す”視線が痛い。

「祐佳里の方をもっと見てよ、ねぇ」

 祐佳里は俺の顔を自分の方へ向けさせると、

「七星さんよりかわいいでしょ。あんな怖い人、追い出してよ」

と言うのだが、その七星のほうを見ると俺は萎縮してしまう。

「あなたたちが変なことしなければ、ね」

「しないよ!」

 七星の言葉に俺は抗議するも、

「信用ならないわね。だから、あんたの行動をチェックしているのよ」

と言って、俺の方に目を向けていたのだが、時々、目を背け始めた。

「なんなのよ、ソレは? どうにかしてよ」

 顔を真っ赤にして、あさってのほうを向いたまま、俺……のやや下の部分を指差す。

 そりゃ、早朝一番に七星という美少女を見たから……。

「仕方ないだろ、生理現象なんだから。というか、着替えるから、七星は出ていってくれよ。祐佳里もちょっと向こう、行っててほしいな」

 ま、着替えている間にこれも収まるだろ、という打算もあったが、何よりちょっとだけの間でも一人の時間が欲しかった。ただ、昨日祐佳里がやってきたその時から、俺には、ちょっとハイテンションすぎて付いていけない所があったからだ。

「祐佳里、ぉ兄ちゃんの裸、みてみたいな。ご所望とあらば、私のも」

「こっ、この変な妹さんを監視しとかなければならないから、私も、ここに居るわ」

「な、何言っているんだ。祐佳里は今に始まったことではないが……七星は、お願いだから祐佳里を連れて外に出てくれ。頼む、手を掛けるが」

「しょうがないわね、貸しよ。祐佳里ちゃん、出て行くわよ」

「はーい。ぉ兄ちゃん、早く出てきてよ」

 貸しよ、貸しよ、貸しよ。七星のその言葉が、俺の頭に響く。これって、七星との間に一つの関係が出来たってこと? なんて思ってちょっとデレていたりする自分の頬を軽く叩く。熱、持っていた。たぶん、少なからず赤くなっていた事だろう。そんなことをつゆ知らずか、七星は祐佳里を連れて、ドアの外へ消えていく。

「ぉ兄ちゃん、まだーっ?」

「私を待たすなんてたいそうなご身分ね。このナマケモノが」

 ドアが閉まったその瞬間から、いやマジで、間髪入れずに俺を待つ言葉と、そして俺を罵る言葉が降りかかる。容赦ないな、七星。

「今着替えている所。そんなにせかすなよ」

「グズね。しかも、デリカシーもない。そんなんだからもてないのよ」

「ぉ兄ちゃんには祐佳里がいるから、もてなくても問題ないよ」

「そうよ、……ってそれは問題。少なくとも、私が、魅力的だと思えるような男性になって欲しいわね、ね、ね、絶対よ」

「はいはい。もう少しかかるから、静かにしておいてよ」

 そんな声に混じって、

「こんないたいけな子を外で待たすのは、関心せんな」

「魔法少女のごとく、一瞬で変身するであります。勿論、そのバンクシーンこそが見所でありますが」

先輩方の声が混じってくる。

 取り敢えず、ズボンを穿きシャツを着たので、慌ててドアを開ける。

「ぉ兄ちゃん、社会の窓……」

「何がしたいの?」

「だから、早く早くって皆が言うから……」

「せめて、変態と勘違いされない格好にしなさい」

「そうですぞ、変態紳士は二次元の中にのみとどめておくべきものであります」

「ま、浩一のことだから仕方ないように思うけどね」

「ぉ兄ちゃん、でも祐佳里は嫌いじゃないから、ね。変態……特殊性癖でも受け入れるよ」

「だから、違うって。慌てただけ! で、先輩方まで何でいるんですか?」

 更に増えた二人の客人……金平先輩と佐々木先輩は、ちらちらとこちらを見るなり視線を逸らし、そして必死に笑いをこらえていた。

「浩一、なんでもない」

「そうですぞ。ふふっ、いや、至って普通であります」

 そういいながら、俺の下半身を指差してくる。

「しまってください。何を見せてるんですか。言わなくてもわかるでしょ」

 七星は顔を真っ赤にして、目を逸らしがちに言う。しかし、何度もこちら方を見て確認しているようだが。

 俺は、……あああああぁぁぁぁぁ。そういうことか。彼女たちと反対を向いて、ファスナーを閉める。

「鈍いのよ。こっちも恥ずかしいんだから、早く気づいてよね」

「はいはい、すみませんでした。もう恥ずかしいから、その話、しないで」

「家の中じゃ、全部出していいんだよ。中身まで」

「祐佳里殿、かなり過激でありますな。放送では真っ白になるシーンですな」

「だから、その話はしないでくださいって」

 俺の抗議などいざ知らず、俺を『変態』に貶めようとする彼女たち。

「でも、未だに祐佳里のこと、襲ってくれないんだよ。男として、ちょっと残念だよね」

「祐佳里、追い出すぞ」

「それはダメ」

「じゃ、もうそういう話はしないでくれないか」

 祐佳里は、口を尖らせながら言う。

「しょうがないな、もぉ。でも、いつでも襲っていいんだよ」

「しないって」

 俺は嘆息する。

「あー、それにしても昨日はあまり寝付けなかったな」

 部屋の柱に取り付けられた鏡に映るのは、まるで隈取りでも入れたかのように目の隈が入っていた。

「それはね、祐佳里がぉ兄ちゃんに気持ちいいことしてたんだよ」

「祐佳里……」

 そうすると祐佳里は手を横に振って、

「ちがうちがう、ただ、ぉ兄ちゃんの布団に潜り込んで、身体をぎゅーっと抱きしめたり、頬をすり寄せたりしただけだから」

「同じだろ。そんなことされてたから、眠りにつけなかった訳か……。あのな、祐佳里。好きでいてくれるのは嬉しいけど、あまりに変なことはしないでくれないか」

「いいでしょ、好きなんだから。誰かさんみたいに……」

 祐佳里がふいに言葉を止める。七星の眉間に皺が寄り、恐ろしい形相を放つ。

「どうしたんだ、七星さん……」

「行くわよ、花村。もう、こんなの付き合っていられない」

 彼女は腕を掴むと、ドアの外へと向かっていく。なんとかカバンを手に取ったものの、俺は彼女に引きずられる形で部屋を後にする。

「あ、待ってよぉ、ぉ兄ちゃん。祐佳里を放っておかないで」

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