トナリノコ・イトコノコ

ままかり

(I)

第1話

「やっと撮れた」

 高校一年生の最後、終業式とホームルームが終わり、俺たちは春休みという野に放たれた。そこで俺は、一人の同級生の姿をこっそりと携帯電話のカメラに納めた。こっそりだ、あぁこっそりだ。盗撮、っていったほうが適切ですらあるかもしれない。けれども、そのために行った特別な行為、それを挙げるとするならば、電話機をしっかり抑えてシャッター音(厳密に言えば、携帯電話のカメラに音の出るシャッターが付いているわけないので違和感があるが、撮影時に出る確認音である)が漏れないようにしっかりと電話機を握っていたくらい。でも俺にとっては犯罪行為でもするような緊張と胸の高鳴りを覚えていた。

 七星莉紗。

 いや、普通科特進コースの七星莉紗様。

 去年の秋ぐらいだったと思う。そうだ、思い出した。秋で間違いない。課外学習でバス移動した時、俺のクラスは別のクラスに割り当てられた観光バスに分散して乗ることになり、指示された観光バスに乗り込んだ。俺から見れば全く縁も所縁もないエリートたち、特進コースのクラスのバスに。

 俺がバスの扉をくぐったその時は、彼女は席上の棚に、荷物移すべく立ち上がって、俺に背中を向けていたのだが……。

 いつも見慣れた、女子が着用する、真っ白に青いラインの入ったセーラー服。そのラインよりやや濃いめの藍色のスカート。しかし、それを着こなす器が違った。

 その彼女が振り返り、こちらを向く。俺よりも高い長身から腰のあたりまで流れるような黒髪が印象的な、まさに俺の理想を体現したような体躯の美少女。白い制服の下には隠しきれない膨らんだ胸とは対照的にくびれる腰と、そこに纏った短いスカートから伸びる細く長い両足に、俺は胸の高鳴りを押さえられなかった。そして何より、顔。通った鼻筋と、色白の肌に咲く薔薇のように血色の良い唇。細面の小顔とは対照的に大きく見開かれた瞳がまっすぐこちらを見られると、俺はくらくらと眩暈に襲われるような感覚をおぼえた。もはやな規格外。その美しさが俺の許容を超えてしまっていたんだ。彼女を一度見てしまったら、例えどんなアイドルをブラウン管の中で見たとしても、「典型的な美少女」と教科書に載っているとしたら彼女以外に絶対に考えられない、と言い切れるほどの素晴らしい容姿を誇る女性である、と俺の価値基準が頭の中で反芻される、反芻される、反芻される……。

 もう俺は、出逢ったその瞬間から彼女を意識、すなわち恋してしまったのだった。

 目が合った?

 ……

 俺は不意に目を逸らす。綺麗なものの見過ぎで目が潰れる、とまでは言わないが、神々しすぎるほどの美しさの彼女を直視できないでいた。むしろ、心の目で、一瞬だけ捉えた美しいままの彼女を何度も舐め回すように凝視した。

 彼女の横を通り過ぎて、最後部の席へ。通路突き当たりのその席から、彼女の席を見ても、ただただ紺色の座席が居並ぶだけであった。

 俺はせわしく前を見ていると、

「もうすぐ出発するが、酔いやすい奴はいないか?」

 その教師の言葉に、俺はすぐさま挙手をした。

 ……体質の問題ではない。俺はもう、彼女に酔っていたんだ。

「おっ、花村、前に来るか?」

「はい、そうしていただけると助かります」

 立ち上がり、先生の指示に従い前の席へ。高鳴る気持ちを抑えながら最前列、運転席の一つ手前で立ち止まる。

「どうぞ」

 至高の女性に声をかけられた。そんな動揺を声に出さないように……

「し、失礼します、すみません」

……するのは無理。俺の声は確実に上擦っていた。顔が火照っていることを自分ではっきりと感じられるほどだったから、顔も赤かったと思う。窓際に座る彼女の横に腰を落ち着かせると、

「車、出しますよ。皆さん、高速道路通りますので、シートベルトを締めてください」

 運転士の言葉に慌ててシートベルトを探す。ベルトそのものは、あった。反対側、と。

 差し込み口を探るべく体勢を変えると、隣に座る美少女と目が合う。

「あ、ごめんなさい。バスのシートベルトってちょっと面倒よね」

「う、うん」

 相槌を打つ俺。差し込み口は、俺と彼女の間にある。彼女との間にある隙間も、そこに手を入れれば消えてしまうほど、俺たちは近づき過ぎていた。その隙間を拡げるべく、俺は腰を少し浮かせる。

「シートベルト締めましたか……じゃあ、出発しますよ」

 運転手の言葉と共に、後方車体下に鎮座するエンジン回転が吹き上がり、前方方向へと加速がかかる。

 その勢いで、俺の手と彼女の足が接触事故を起こした。

「ご、ごめん」

「私こそ」

 決して急発進ではないのだが、腰を浮かせていた俺の姿勢を崩すには十分すぎる衝撃であった。ふらついた足が、彼女の柔足に触れた。

 こんなアイドル以上に素晴らしい女性に触れられるなんて。

 そんな想いをひた隠し、さっさとベルトを締める。そして、隣の席用のベルトを引き出すと、右ななめ前へ差し出した。

「ありがとう」

 よし、いいぞ俺。女神様に感謝された。そんなふうに頭の中で舞い上がっていた俺。しかも、

「あれ? どこ?」

 差し込み口を探す彼女、彼女の臀部が彼の臀部に重なる。

 ……柔らかかった。

「ご、ごめんなさい」

「あ、……な、なんともないよ」

 何ともないわけないじゃないか。

 もう、これ以上意識しないように前を向く。でも、どうしても右側を見たくなる衝動に駆られる。我慢だ。

 しかしながら、車窓を見ているはずなのに、ちらちらと彼女の顔に目が吸い寄せられる。時々、自分の視線の移動に気づいて修正をかけるものの、いつの間にか、元の木阿弥になってしまう。

 出発して数分、……ちょうど俺の住んでいるのアパートの近くだったのだが、彼女を意識している時間は余りに長く感じられた。そして、彼女が声をかけてきた。

「窓、開けようか? 顔色悪そうだし」

 こくり、と頷くと、俺の顔を風が凪ぐ。思わず風の来る先を見る、いや見ざるを得なかった。

 風にそよぐ彼女を梳(す)いて、朝日が髪にきらめく。漆黒と光の対比。添えられた淡い頬。自分に向けられた見開かれた瞳に、俺はもう虜になった。

「どう? 調子はよくなった」

「は、はい。ありがとうございます」

「よかった」

 そう言うと、彼女はほほえむ。月並みな表現だが、かわいかった。かわいい、なんて言葉を完全に超越しており、表現としては不適切ではあるが、もはや心が蒸気を立てて煮え立っていた俺の頭に適切な表現を探すことなんかできやしなかった。

「ねぇ……」

 もはやそれから先のことは、自分の記憶から飛んでいた。何も覚えていない。何度となく、その彼女から話しかけられるごとに心の中で舞い上がっていたのだと思うが、あまりにしあわせな時間は記憶とともに瞬く間に過ぎ去っていった。

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