五名の人間は背走をつづけ、巨大亀生物の身長が十分の一ほどに縮小する距離で立ち止まった。


「まったく、あんな奴が居るとはな」


 二名の兵士の上官であるらしい剣士が、深い溜息とともに振り返っていった。巨大な亀は、槍術の名手に傷つけられた脚を引きずって、身心を癒やすためにすみである湖中に帰っていった。もっとも、彼にしてみれば、平穏な生活を妨害してきた侵入者を追い返そうとしただけなのに、にされたあげ〝あんな奴〟呼ばわりされているのだから、やや気の毒ではある。


 その剣士は二名の兵士に先に行くよう命じておいて、自らは戦闘に途中出場してきたふたりの乱入者に視線を相対させた。


「危急のところを助けられた。残り二名の分もふくめて礼を言わせてもらおう」


 それはやや高圧的な言い回しであるととらえられなくもなかったが、それを不快と思わせない何かを、二名の乱入者は感じ取った。剣士の音声には聞いたことが無い訛りがあって、ふたりにはやや聴き取りづらかったが、意味を取り漏らすほどでもなかった。

 どうやら助けたがわとして認められたらしい二名が返答する前に、彼女は言葉を継いだ。


「これは失礼した。私は連邦軍第三独立艦隊司令官サヤカ・シュウしようじようだ。艦隊の陸戦司令官も兼ねているが」

「提督閣下!?」


 その階級と職責に、一応序列としては親友より上であるはずの生物科学少佐は明敏に反応できず、かわりに着任一年ほどの大尉が驚きの声をあげた。アイリィはあらためて、その少将提督を見やった。


 淡い墨色グレーの短い髪に、同色の瞳。黒赤髪の親友に劣らないほどの白い肌でかたちどられた端正な顔は、鏡の前に〝美形〟という文字を反射してなお光を余している。ただ、その視線にはやわらかさよりも鋭さが、表情には豊かさよりも無機質さが、それぞれ勝者となっているように、アイリィには感じられた。それが冷酷な雰囲気を生じさせるわけではないところが、彼女を造形した神の意匠であるのかもしれない。


 アイリィが驚いたのは、どうもこの剣士兼少将提督が、外見からして同年代か、もしくは年少ではないかと思っていたからである。彼女の元上官であるメアリ・スペリオル・ルクヴルール提督は、二九歳でちゆうじようとなり艦隊司令官を拝命したが、それでさえ異数の出世といわれているのだ。


 短い時間に思考をめぐらせているうちに、ききおぼえのない組織名を、少将提督が口にしたことに、アイリィは気がついた。


「連邦…?」


 連邦とは、複数の統治体が連合してなすひとつの国家もしくは政体であり、我星の歴史では、東方帝国イースタンに併合される前のリトルエイシアという国家がその体裁を取っていた。南洋諸侯連合サウザンは各諸侯領同士の結びつきの弱さから、名称としても実態としても連邦制をとっておらず、猛虎王リヒター・フォン・シルバーブレイトの代の西方王国ウエスタンに併呑された緯北部地域ノーザン・テリトリーは、国家といえるほどの統治機構をもっていなかった。我星統一政府が樹立されて以降は、正式な国家としてはもちろん、海賊や反政府組織などにおいても、〝連邦〟と名のつく組織体は、現代に至るまで現れていない。


「ん? 戦線の人間か?」


 ライトグレー髪の少将提督の眼光がにわかに鋭さを増した。戦線という名称は、反政府組織でしばしば使用例があるが、アイリィは今度は不用意な反応を避けた。

 短髪の司令官は数秒ほどなにか考えていたが、自分の態度が恩人を萎縮させてしまっていることに気付いて、あまり笑い慣れていない人間がつくるような笑顔をふたりにむけた。


「いや、構わない。けいらの出自がどうであるにせよ、私の恩人だ。可能な限りの礼はさせてもらうつもりだ」


 アイリィはやや胸をなでおろした。細い糸を渡り歩くがごとき心理的な駆け引きとは、できれば縁を結びたくないところである。


「ところで、卿らは、この惑星の先住民というわけでもないようだが…」


 間接的な問いかけに、アイリィはようやく自身の非礼に気付いたようであった。


「失礼しました。私はアイリィ・アーヴィッド・アーライル、こちらはシュティ・ルナス・ダンデライオンです。訳あってこの惑星に不時着し、あてなく救援を待っておりました」

「そうか、それは災難だったな。苦労も多数あったことだろう。救ってもらった返礼としては水のひとしずくにも満たないが、ひとまず、我が艦に招待させていただこう」


 ふたりの遭難者にとって、その一滴の水は、一しようの聖水よりも貴重であった。なんにせよ、これで宇宙のどこにあるのかも分からない無名の一惑星でれ死にすることだけは避けられるのである。さんさんと降り注ぎはじめた明日への光明を全身に感じながら、アイリィは心から淡墨髪の救世主に謝辞を述べた。


「とんでもございません。ぜひ、ご厚意に甘えさせていただきたく存じます」


 もともと助けた側のはずの人間が助けられたはずの側の人間に対して丁重な敬語を用いているのは、むろん、少将と大尉、少佐という階級が考慮された結果である。シュティがまったく言葉を発しないのは、初見の人物とのあいだに関係を築く技術とともに、自身の敬語の用法に自信を欠いていたからかもしれない。

 それを洞察したからかどうかはわからないが、少将提督は小鳥の主人に会話を強要することはせず、比較級においてじようぜつなほうの人物との会話を重ねることを選んだようであった。


「いろいろと聞きたいこともあるが、まずは身体を憩めるのが第一だろう。この奧の入江にシャトルを泊めてある。用意ができたら来るといい」


 少将提督の語り方はやや抑揚がとぼしく、視線と同様に一種の温度の低さをアイリィは感じたが、そのことは、ことばに落とし込まれた厚意の暖気が相手に流れ込むことを、阻害してはいなかった。無機質さと情の深さの絶妙な調和が、この少将提督の個性であるらしかった。



 用意といっても、そもそもが遭難者である彼女らであるから、重要な荷物がたいして多くあるわけでもない。最低限持ち帰るべき物品をひとつにまとめると、数分間だけ待たせておいた少将提督の案内に応じて、三日間滞在した名も無き惑星から飛び立つためのシャトルに向かった。


「なんだか拍子抜けだけど、助かったみたいだね」

「うん」


 アイリィの感想に、まだ見知らぬ人物との交流に緊張感が抜けきらない様子の黒赤髪の親友が短い言葉で応じた。無論、アイリィは事態の〝拍子抜け〟な展開に思うところはあったが、とりあえずいまは、きゆうを脱しえたことを喜んでよさそうであった。

 ふたりの短いやりとりは、先導する少将提督には届いていなかったようで、彼女はふたりに向けてまたちがった感想をもらした。


「しかし、勇敢にして聡明、俊敏にしてけいがん。これほどのへきにまで卿らのような勇者がいるとはな。宇宙というのは広いものだ」


 アイリィはその我星有数の槍術の腕を賞賛されたことは枚挙にいとまがないが、あまりに過剰な賛辞で飾り立てられては、言語の水脈が流れを遮断されてしまうようで、返答はきわめて平凡なものになってしまった。


「いえ、そのような…」


 その返答に、少将提督は、表情の中央で寒流と暖流がかさなりあったような、個性的な微笑で応じた。


 剣の技術とともに人格にも相応の水準を有するらしい淡墨髪の若い提督は、しかし、一片の事実から宇宙のすべてを見渡す視力を持ち合わせてはおらず、彼女が漏らした感想の最後の部分も、すべての真実を念頭において発した言葉ではなかった。むしろ、この短い時間に彼女が構築した仮説のひとつが、真実の一部分をとらえていたことを、彼女は賞賛されるべきであるかもしれなかった。


 湖水を走りだしたシャトルは可能性豊かな惑星の地表を離れて、重力の抱擁を振り払い、漆黒の宙空にむかって上昇していった。碧い湖水が白い波紋を描いて、束の間の客人を見送っていた。それは、あまりに突然の別れを惜しんでいるように、アイリィには感じられた。




 この無名の惑星が、人類社会にとってどのような機能をあたえられることになるのか、シャトルの搭乗員たちは知りようもない。だが、すでにこの惑星は、ふたつの潮流をしてひとつの大きな渦となす結節点としての役割を、果たし終えている。その功績を指摘されることになるのは、人類の手がとどく限りの全宇宙を巻き込むまでに巨大化した渦が、すべてのエネルギーを消化して、その回転を止めたあとのことであった。

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