アイリィにとっては状況と同行者を変えて再演するかたちとなった脱出劇の終着地は、当然のことながらヴァルバレイス号事件のときと同じ容姿をしていた。その扉の前に鎮守する狂獣がいないのが大きな違いであって、とりあえずこの場所で生命をチップにかえたばくはうたなくてよさそうである。

 もっとも本音をいえば、アイリィは強力な敵と相まみえて一戦演じてみたいところであった。彼女は非凡な頭脳を有してはいたが、槍術の名手たる彼女の本来の気質は戦士であり、考えるより身体を動かす方が幾分楽なのである。とはいえ事態は個人的な希望でしゆしや選択できる水準をこえており、いまはめぐまれた思考能力を最大限活用して、三本の生命の清流をとだえさせないよう努力しなければならなかった。


「ちゃんとあるかな…」


 と黒赤髪の生物科学少佐がいったのは、脱出ポッドがすべて使用されたか、もしくは故意に廃棄された可能性を指摘してのことである。


「ぜひとも残っていてほしいね」


 こちらは濃い茶色の髪をした特務陸戦小隊長が応えながら、脱出ポッド区画の扉を開いた。


 ふたりの眼前に、実が抜け落ちた穀物のような、既に脱出ポッドがその仕事をはたしたあとの光景が広がり、一瞬、ふたりの背筋を極低温の電流がかけぬけた。だが、よく目をこらすと、ふたりと一羽の乗客を気長に待っていたであろう生命の舟が、無機質な壁に囲まれた区画の一番奥に残っていた。たった一隻だけ。


「なんだか、いかにもって感じがするねぇ」


 アイリィはたったひとつ残された脱出船に近づきながらつぶやいた。催眠ガスを流され、艦のシステムをロックされてとこうも深刻なが続いては、人のい槍術の名手も疑り深くならざるをえない。


 彼女は乗客兼操舵手パイロットとなる脱出ポットのハッチを慎重に開けると、親友を外に待たせて、これまた慎重に、爆発物の類が仕掛けられていないか調べた。専門家でない以上万全とはいかないが、脱出船が母船から果てしない暗闇の空間に産み落とされた瞬間に爆発四散して終了というのでは、人生劇の終幕としてあまりにも芸がなさ過ぎる。

 だが結局、今回の懸念はゆうにおわり、すくなくともアイリィの把握できる範囲で悪意ある爆弾類は見つからなかった。よほど精巧に隠されていればお手上げだが、とりあえず名前も知らない宇宙のひんきやくとなることはできそうであった。


「大丈夫そうだよ」


 臨時の爆発物処理班員はいい、親友とその相棒を、これから当分の間生活圏のすべてとなるであろうはこぶねに迎え入れた。


「意外と広いんだね」


 シュティは乗り込みながら感想をもらした。その歴史的な経緯から脱出ポッドという名で呼ばれているが実際はほぼシャトルといってよく、一隻当たり一〇名の人間が最低限生活できる空間と設備、通常航行動力、それらを維持するためのソーラー・パネル、そして航続可能距離は限られているものの超光速航行オーヴァ・ドライブ用のエンジンまでそなわっている。この脱出ポッドを使用した艦からの脱出はふたりとも訓練で何度も経験しているが、そのときは定員いっぱいに乗り込んでいたため、艇内にふたりしかいない状態を広く感じたのである。


 一人分として計算された空間の五倍のスペースを与えられるなか、ふたりは暗黙の了解によって役割を分担し、アイリィが操縦席に、シュティがサブ・ナビゲーター席に、当面の根拠地をおくことにした。自分の身は自分で守る、という軍の人間としては当然の基本原則から脱出艇の操縦技術はシュティもひととおり身につけているはずだが、本人もその友人も、彼女が主たる操舵手となることに安心の朱判を押すことをためらったのである。もっとも、他方にくらべて腕に自信のあるほうの乗員も不眠不休というわけにはいかないから、その友人が眠っているあいだはシュティが船の針路を守らなければならない。艦と同様、星図の無い状況では自動オート操縦・パイ機能ロツトにたよることもできないのだ。



「さ、行くよ」


 操縦桿に商売道具を変えた槍術の名手はいった。どこへ、とはいわなかった。船の針路を定める彼女自身が、目的地を知ることができなかった。赤黒髪の親友が省略された指示にしたがって安全装置座席で座席に身体を固定した。相棒の小鳥を自分の服の内側にしまいこんで、の安全を確保することも忘れなかった。


「よし、発射…!」


 という表現が正しいかどうかは微妙なところだったが、アイリィの小さい掌が緊急脱出の赤いボタンをおうした瞬間、けたたましい警報音がひびいて、のぞまぬ自殺願望をおしつけられた母艦から一隻の胎児が真空の大海に放出された。艦の人工重力からの離脱とそれにつづく無重力、さらに脱出艇の人工重力の作動が鬼畜な試験官となって産まれたばかりの無力な乳児を上下左右の峻別なく揺さぶり、ふたりの脱出者の平衡能力に苛酷な尋問を続けた。


 きわめて短時間だがその長さに反比例するかのような苦痛をともなった出産劇はやがて終息し、ふたりと一羽の生命をのせた舟は姿勢を安定させて漆黒の宙空をゆるやかにはしりはじめた。


 じつは、緊急脱出用のボタンは艦にごうちんの危険が生じるような深刻な被害が生じたときにもちいるためのもので、今回のように時間に余裕があるときは艦の重力からポッドの重力に時間をかけてなめらかに移行する通常脱出の手順があり、あえて自らの三半規管を痛めつけずともよかったのである。不必要なごうもん装置を作動させた張本人は身体の平衡をとりもどしてからようやくそのことに気付いて、決まりの悪い苦笑をうかべながら、となりでぐったりしている友人に謝罪したが、反応はなかった。


 その友人はまさか自分の信頼する操舵手がこの状況で緊急脱出を選択するとは思っていなかったので、舵を取る親友が突如サディストな拷問係に変貌した瞬間から悲鳴とも驚声ともつかない叫び声をあげつづけ、軌道レールのないジェット・コースターの激しい揺動にたえながら、気を抜けば他の銀河系へ飛んでいきかねない意識の襟首をつかんでなんとか体内におしとどめようと努力していたのだが、すべてが終わってみれば彼女の魂は生命維持に必要な最低限の分量を残して飛散してしまったようであった。死んでいるわけでないのは外見からなんとなくわかるが、彼女の視線は無言で虚空を貫き、身体は自らの意思では動かないようすである。


 アイリィは先刻のそれとはまた性質のちがった苦笑をうかべつつ、講義中に眠ってしまった友人を起こすように親友の身体を揺さぶって、抜けてしまったらしいその霊魂を現世に呼び戻した。決して快眠とはいえないあまりに短い眠りからさめた黒赤髪の親友は、意図せずも乱暴な所業をはたらいた操舵手に不平を述べたが、心底から責めたわけではなかった。アイリィは不満の薄皮の下に透けて見えた親友の笑顔をみつけて、悪い悪い、と本気ではない抗議に対して真剣さに欠ける謝罪をおこなった。心優しい生物科学少佐の服の中で拷問からまもられていた小鳥がいつのまにか胸元から顔をのぞかせて、ふたつの黒い目で主人を見つめていた。それは操舵手の失敗より、気絶してしまった主人のふがいなさをたしなめているように、アイリィには感じられた。


「あはは、ごめんごめん、本当に悪かったよ」


 小鳥の責めるような視線に飼い主がふたたび機嫌を悪くしたようだったので、アイリィは笑いながら重ねて謝罪した。本当の苦難はこれからもつづくはずであったが、一時ながらそれを忘れられるようなあたたかい空気が、三つの生命をあてもなくはこぶ宙空の方舟のなかをみたしていた。

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