第三章 消失
1
「ご無理ご不便をお願いして、本当に申し訳ありません」
無数の星々の灯りに抱かれながらアルバユリア星域へ向けて疾走する多
「構わないよ、事情はわかったから」
必要以上に恐縮する兵士をそう言ってなだめる女性は、アイリィ・アーヴィッド・アーライル大尉、
その少し後方、部屋の奥側でやや所在なさげにひかえているのは、シュティ・ルナス・ダンデライオン生物科学少佐、アイリィ・アーヴィッド・アーライルとくらべて宇宙に生を
階級からいえば、彼女のほうが親友より上なのだから、こういった場合は表に立って小柄なふたりよりさらに身長を低くして陳謝する兵士に応対すべきなのかもしれないが、彼女のやや人見知りな性格と、頼りがいのある親友に対する甘えを合算した感情的重量が、階級社会的常識を上回ったようである。もっとも、彼女自身には、親友より地位が高い、という意識はもともとないのだが。
さらにその奧、士官私室用のデスクの上に置かれている鳥籠のなかには彼女の愛鳥が主人に劣らぬ愛らしい姿を見せている。むろん艦内に私的なペットをむやみやたらと連れ込めるはずはないのだが、彼の場合、
士官私室の前でかわされた会話は、ふたりにとってはたいしたことではないものであったが、しかしひとりのがわにとってはそれなりの勇気を必要とする任務であったようである。もういいから持ち場に戻るように、と槍術の名手として名の知れた特務陸戦小隊長に繰り返しいわれて、やっとふたりの前から去っていったが、まだアイリィの耳に届く距離で、大きくふう、と肺にたまった空気を体外に送り出していた。
一般社会では強権的暴力的な上下関係は人権意識の向上に伴って排除されていったが、軍組織においては、まだそういった
ひと仕事を終えた兵士を穏便に追い返して、ふたりの女性士官はひとつの士官私室のなかに腰を落ち着けた。
「まあ、たまにはこういうのもいいよね。修学旅行みたいでさ」
とめんどくさげな応対を階級がふたつ下の親友に押しつけた女性がいったのは、本来士官ひとりにひとつずつあてがわれるはずの士官私室が、
したがって、シュティはもちろん、高い水準の洞察力と思考力を誇るアイリィも、一連の扱いに、このときは何の不信感も
シュティの言葉は、あるいは軍の任務をまっとうするにあたっての緊張感を欠くものであったかもしれないが、アイリィはそれを非難するつもりはなかった。彼女は年下の親友のこういったどこか子供っぽさを残しているところを、むしろ貴重に思っているのだ。彼女がその言葉に感応しなかったのは、別の理由によるものであった。
「私は修学旅行の経験がないからね…」
「あ、ごめん…」
アイリィ・アーヴィッド・アーライルも人の子である以上、父親と母親が存在する、はずであった。中世、あるいはさらに古い時代より
無論、両親や祖父母より金銭のほうが重要であるとは彼女は思っていなかったが、同時に金銭の価値をまっとうに理解していたから、数波に及ぶ悲しみの波をひとしきり乗り越えると、これからもつづくみずからの航海の経済的困難さに悩まされることになった。両親の死があまりに早すぎたこと、十分な保険保障に投資していなかったこと、住宅用融資の負債残高が多く残っていたこと、さまざまな要因が相乗した結果、彼女に遺された資産は、必要十分量に比してはなはだ少なかった。
このような状況の遺児に対して、我星本星に本部を置くクロスロード財団が遺児奨学金を交付する援助をおこなっており、条件を満たせば基礎学費を無利子で借り受けることができるようになっている。その昔、我星統一政府が成ってすぐ後の時代、長年断続的に続いた争乱による荒廃で精神的な安息が欠落しつつあったなか、世界中を巡行して不足していた娯楽を人々に供給しつづけたクロスロード劇団を源流とするその財団は、遺児のみならず様々な社会的経済的弱者に対して資金援助をおこなっているが、その財産は無尽蔵ではないから、無償の善意を際限なくかたちにするわけにはいかなかった。交付対象者の状況によって取扱いは異なるが、アイリィ・アーヴィッド・アーライルの場合、借り受ける奨学金のうち六割をやがては返済しなければならなかったのである。
彼女は当時から文武両面の才覚にすぐれており、奨学金を借り受けて進学しても、将来その負債を返済してなお余る収入を得られるであろうと読んだ教員たちは、彼女に奨学金制度を利用してゆくゆくは大学院まで進学するようすすめたが、優秀なはずの学生はその
いずれにせよそういった事情で、アイリィはその人生で修学旅行というものに参加する機会を失っていたのである。もっとも、修学旅行それ自体が我星政府領全域の常識ではなく、我星首都星系のほか数星系にしかない
だから、アイリィは洗練度の低いその場
「だから、今回の〝修学旅行〟でその分をとりもどさせておくれよ」
そのことばと表情は、霜がおりて凍りついたかのような親友の白い顔をとかしきるのに、十分な熱量をもっていた。
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