第三章 消失

「ご無理ご不便をお願いして、本当に申し訳ありません」


 無数の星々の灯りに抱かれながらアルバユリア星域へ向けて疾走する多M航宙CC艦サルディヴァール号艦内の士官用私室のひとつの前で、ひとりの男性兵士が、ふたりの女性士官の前で頭を下げながら謝罪を繰り返していた。


「構わないよ、事情はわかったから」


 必要以上に恐縮する兵士をそう言ってなだめる女性は、アイリィ・アーヴィッド・アーライル大尉、我星ガイア政府軍第一艦隊の特務陸戦部隊小隊長のひとりである。ダーク・ブラウンのやや長めの髪と、陸戦部隊の人間とは思えない小柄な体格が特徴的である。年齢は二十五歳、女性としての外見的魅力も申し分のないものを持ち合わせているが、いますこし化粧メイクに努力をはらえば、歳相応のいわゆる〝大人の色香〟というものも備えることが可能であろう。それをしないのは、当の本人が外見で男性の興味をくことに、たいして価値を見いだしていないからかもしれない。彼女の真価はむしろ、一兵卒から二十五歳にして大尉にまでなりおおせた所以ゆえんに求めるべきであった。一五〇センチメートルをようやく超えようかという小柄な体型ながら、我星政府軍でも片手の指に入るであろうそうじゅつりょうは、外見的魅力のそれをはるかに凌ぐ評価を、我星ガイア政府軍の広い範囲の人間から受けているのだ。


 その少し後方、部屋の奥側でやや所在なさげにひかえているのは、シュティ・ルナス・ダンデライオン生物科学少佐、アイリィ・アーヴィッド・アーライルとくらべて宇宙に生をけたのが二年ほど遅れているが、親友のあいだがらである。紅榴石ガーネットを連想させる黒みがかった赤色ダーク・レッドの長い髪に、処女雪パウダースノーのような白い肌が他人の目をひく。親友と同じく美人と評してよい外見を有しているが、人によっては、その顔立ちに年齢に比して幼い印象を受けるかもしれない。

 階級からいえば、彼女のほうが親友より上なのだから、こういった場合は表に立って小柄なふたりよりさらに身長を低くして陳謝する兵士に応対すべきなのかもしれないが、彼女のやや人見知りな性格と、頼りがいのある親友に対する甘えを合算した感情的重量が、階級社会的常識を上回ったようである。もっとも、彼女自身には、親友より地位が高い、という意識はもともとないのだが。


 さらにその奧、士官私室用のデスクの上に置かれている鳥籠のなかには彼女の愛鳥が主人に劣らぬ愛らしい姿を見せている。むろん艦内に私的なペットをむやみやたらと連れ込めるはずはないのだが、彼の場合、プラネツトフオースに長じる種の特性とアクテイブ・プラネツトフオーサーである主人とのコンビネーションが、実験や未開惑星探査に有用であるとして、持込(ということばは主人にとって不愉快であったが)許可がおりているのである。ただし艦内を自由に飛び回るようなことがあってははなはだ迷惑であるから、任務に必要とされないときは私室にとじこめられて、不本意ながら〝籠の中の鳥〟の地位に甘んじている。


 士官私室の前でかわされた会話は、ふたりにとってはたいしたことではないものであったが、しかしひとりのがわにとってはそれなりの勇気を必要とする任務であったようである。もういいから持ち場に戻るように、と槍術の名手として名の知れた特務陸戦小隊長に繰り返しいわれて、やっとふたりの前から去っていったが、まだアイリィの耳に届く距離で、大きくふう、と肺にたまった空気を体外に送り出していた。

 一般社会では強権的暴力的な上下関係は人権意識の向上に伴って排除されていったが、軍組織においては、まだそういったふるい意識をもちつづけている人間はすくなくない。そういった人間にとっては非礼ととらえられるであろう一兵士の行動を、むろんアイリィはとがめることはせず、あきれと失笑の中間の表情で、こちらは小さくふう、と息を吐き出した。



 ひと仕事を終えた兵士を穏便に追い返して、ふたりの女性士官はひとつの士官私室のなかに腰を落ち着けた。


「まあ、たまにはこういうのもいいよね。修学旅行みたいでさ」


 とめんどくさげな応対を階級がふたつ下の親友に押しつけた女性がいったのは、本来士官ひとりにひとつずつあてがわれるはずの士官私室が、重要人物VIPが急遽乗艦することになったという理由で一部屋不足してしまい、このふたりが一つの士官私室を共有することになったからである。ふたりが選ばれた理由は、個人的な御ゆうを頼って申し訳ありません、という兵士のことばから容易に想像できた。ふたりはとくにその仲を声高らかに公言しているわけではないが、任務中であっても艦内食堂などでよく一緒にいる姿を目撃している人間も多いであろうから、その関係を知っている者がいても不思議ではなかった。

 したがって、シュティはもちろん、高い水準の洞察力と思考力を誇るアイリィも、一連の扱いに、このときは何の不信感もいだかなかった。重要人物とは誰か、ということに関しては知りたく思ったが、とくに自分に関わりのあることとも思えなかったので、興味本位の質問を、見えない汗で心を濡らしているように見える若い兵士に質問することは避けた。


 シュティの言葉は、あるいは軍の任務をまっとうするにあたっての緊張感を欠くものであったかもしれないが、アイリィはそれを非難するつもりはなかった。彼女は年下の親友のこういったどこか子供っぽさを残しているところを、むしろ貴重に思っているのだ。彼女がその言葉に感応しなかったのは、別の理由によるものであった。


「私は修学旅行の経験がないからね…」

「あ、ごめん…」



 アイリィ・アーヴィッド・アーライルも人の子である以上、父親と母親が存在する、はずであった。中世、あるいはさらに古い時代よりるいるいと受け継がれてきた〝アーヴィッド〟と〝アーライル〟の二本の水脈をひとつのながれとして娘に注ぎこんだふたりの人物は、しかし、アイリィが五歳と七歳の時に、彼女の前から永遠に姿を消した。父親は交通事故、母親はおそらく夫の死を遠因とした病を得てのことであった。両親をうしなった娘を引き取って育ててくれた祖父母も、彼女が中等教育を修了する前に、相次いで他界した。彼女は、親友とは大きく異なる意味で大切な存在とともに、十分な教育を受けるために必要な金銭の供給源を失ったのである。


 無論、両親や祖父母より金銭のほうが重要であるとは彼女は思っていなかったが、同時に金銭の価値をまっとうに理解していたから、数波に及ぶ悲しみの波をひとしきり乗り越えると、これからもつづくみずからの航海の経済的困難さに悩まされることになった。両親の死があまりに早すぎたこと、十分な保険保障に投資していなかったこと、住宅用融資の負債残高が多く残っていたこと、さまざまな要因が相乗した結果、彼女に遺された資産は、必要十分量に比してはなはだ少なかった。


 このような状況の遺児に対して、我星本星に本部を置くクロスロード財団が遺児奨学金を交付する援助をおこなっており、条件を満たせば基礎学費を無利子で借り受けることができるようになっている。その昔、我星統一政府が成ってすぐ後の時代、長年断続的に続いた争乱による荒廃で精神的な安息が欠落しつつあったなか、世界中を巡行して不足していた娯楽を人々に供給しつづけたクロスロード劇団を源流とするその財団は、遺児のみならず様々な社会的経済的弱者に対して資金援助をおこなっているが、その財産は無尽蔵ではないから、無償の善意を際限なくかたちにするわけにはいかなかった。交付対象者の状況によって取扱いは異なるが、アイリィ・アーヴィッド・アーライルの場合、借り受ける奨学金のうち六割をやがては返済しなければならなかったのである。


 彼女は当時から文武両面の才覚にすぐれており、奨学金を借り受けて進学しても、将来その負債を返済してなお余る収入を得られるであろうと読んだ教員たちは、彼女に奨学金制度を利用してゆくゆくは大学院まで進学するようすすめたが、優秀なはずの学生はそのみちをえらばなかった。彼女は中等教育を終了すると、周囲の反対をおして、ちょうどその年齢から認められる軍隊兵士に志願し、生命の危険とひきかえに俸給と名誉を手にすることができる進路を選択した。その後の活躍は周知のとおり、というのは誇張としても、知る人ぞ知る、という表現の守備範囲には十分に入るであろう。彼女は明言しなかったし、あるいは自覚もしていないかもしれないが、失うべからざるものを失うべからざるときに失ったことによって生じた心の隙間を、過酷な訓練と激務によって埋めようとしたのかもしれない。



 いずれにせよそういった事情で、アイリィはその人生で修学旅行というものに参加する機会を失っていたのである。もっとも、修学旅行それ自体が我星政府領全域の常識ではなく、我星首都星系のほか数星系にしかない局地的ローカルな慣習であるから、彼女自身はその欠損をそれほど重大なものとして位置づけてはいなかった。事実を失念して不用意な(と言った側は思っている)言葉を放った親友に適当なあいづちで誤魔化すことをしなかったのは、事実を告げないうちに親友が一連のアイリィの過去を思い出したとき、いまだ高い純度をほこる心が、よりいたむことを知っていたからである。嘘をつくべきときとそうでないときを正確に判断できることは、優しい嘘が上手い、という評価を得るための最低限の条件であった。


 だから、アイリィは洗練度の低いその場しのぎをしなかった。かわりに、たいせつな友人の心を傷つけてしまったかもしれない不安から表情の照度を数段階は落としていたその親友に対して、陽光に似たあたたかさをもつ笑顔を向けていった。


「だから、今回の〝修学旅行〟でその分をとりもどさせておくれよ」


 そのことばと表情は、霜がおりて凍りついたかのような親友の白い顔をとかしきるのに、十分な熱量をもっていた。

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