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第一章 ヴァルバレイス号事件

 多目的航宙巡航艦ヴァルバレイス号は、すでに墓標としての役割を与えられつつあった。所有者を失った人間の身体が散乱し、その血液が、流体としての使命を忘れ去ったかのように各所に滞留している。


 生気を失ったその艦の通路を、駆け抜ける人間がいた。絶望的な状況下にあって、四散する多数の障害物をたくみに避けて駆ける様子はその有する身体能力の非凡さを証明していたが、さすがに呼吸は荒い。胸には少尉であることを示す階級章があった。注意深く観察すれば、それが女性であることに気付く者がいたかもしれない。しかし、それを検証する機会を与えられた者は、彼女の周辺には存在しなかった。


 我星ガイア政府軍第六艦隊陸戦第十二小隊長アイリィ・アーヴィッド・アーライルがけたたましい警報音に気付いて眠りの園から小柄な身体を起こしたのは、正確に一〇分前のことである。軍隊といえども被用者は人間であるから、休息を与えないわけにはいかず、まして戦闘宙域にもない以上、長時間交替制で任務にあたるのはむしろ当然であった。単艦行動であったことを考慮すれば、いますこし緊張感を持つべきであったのかも知れない。しかし、訓練と哨戒を兼ねた辺境宙域での生物化学実験という任務の性質からして、陸戦部隊に気の緩みが生じるのは無理からぬことであったし、それは当然のことでもあった。いつなんどきでも戦場にあるかのごとき緊張感を維持していては、いくら身体的に屈強な人間であっても、精神がもたないのだ。


「…まだ死にたくはないんだけどな」


 その独語はきわめて小さく、またそれを聴く者もいなかった。小柄な小隊長は駆ける足の速度を落とすことなく、脱出ポッドのある後部区画へと急いだ。



 直角に曲がる通路を通過して、アイリィははじめて足を止めた。彼女の視界が、すでに亡骸となった人間の身体をむさぼる二頭の獣をとらえたからである。獣は主人なき人間の身体からその片脚をひきちぎり、食卓の一物としている最中であった。狼に似ているが、牙は狼のそれより鋭く、に光がない。たいもひとまわり大きいように感じられる。獣も気配に気づいたのか、食事を中断させられた不快感とともにアイリィのほうに向き直ると、数瞬の間もなく、歓迎されざる訪問者めがけてとびかかった。


 アイリィは腰にそなえた光線銃をすばやく抜き取る、ことはしなかった。彼女は背中に掛かった闘槍とうそうを手にとり、側方に跳んで一頭をかわすと、正面にあいたいしたもう一頭の狼(のようなもの)を突き刺した。アイリィが繰り出した一閃は相手の跳躍の勢いをくわえて獣の口から身体の内部を貫き、不運な一頭は声も出せぬまま絶命した。


 幸運に救われたもう一方も、比してわずかに多くの時間を生きながらえたに過ぎなかった。相棒を永遠に失った狂獣の、空振に終わった初撃の余勢にあらたな力をくわえた二撃目は、しかしアイリィの槍のぎによって払われ、闘槍の先端に付属する刃部によって切り裂かれたその身体は、所有者の意志に反して、血しぶきをまといつつ強く床に接地した。獣はその身を起こす機会を与えられぬまま、小柄な小隊長の闘槍に身を貫かれてその生涯を終えた。



 白兵戦において、銃が主たる武器の座を追われて久しい。光線銃はそれが発明されて以降しばらく携行武器の頂点をきわめていたが、アンチ・レーザー装備の開発や自動照準を狂わせる擬体光子の登場により、必ずしも有能であるとはいえなくなった。接近されれば闘槍やせんなどをもつ相手に対して、柔軟な攻撃が行えない銃は不利である。より歴史の古い実弾銃は、光線銃に比して純物理的な打撃力がすぐれるものの、防弾性のすすんだ兵装相手では威力面で近接武器に遠く及ばず、やはり攻撃の柔軟性に欠ける。無理に威力を高めようとすると反動が大きくなり、人間には扱いづらくなってしまう。どちらにせよ、自動照準装置なしでは格闘戦において正確な射撃は困難なのである。


 では、生物の多様な進化や未開惑星探査の発展にともなって飛躍的に重要度を増した対獣戦ではどうかというと、そもそも野生動物と戦闘すべき場面では人間より敏捷性にまさる相手が多く、悠長に銃を構えるなど論外である場合が多い。それでも最初の一箭いつせんが効けばいいが、はずれたり効果がなかった場合に対処ができない。外皮が厚いために致命傷を与えられなかったり、うろこが屈強で弾をはじかれたりすることも多いのだ。


 結局、銃が有用な場面とは、十分な射程をもって戦える場合であって、敵に有効な防御手段がない場合に限られる。なかには、実弾銃と光線銃の特徴を十分に理解した上で、銃を有効に使用しながら格闘戦をおこなう銃闘士と呼ばれる人々も存在するが、その数はきわめて少ない。アイリィ・アーヴィッド・アーライルは他の追随を許さぬそうじゆつの名手であったが、銃のりようにおいては圧倒的多数派に属していたから、銃に手をかけることなく、闘槍による接近戦を選択したのである。


 その判断は自然なものであり、また、正しかった。

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