『気分』

矢口晃

第1話

 コーンがたくさん乗ったパンが食べたいと僕は思った。

普段から特にコーンが好きだというわけではないのだけれど、今日朝目が覚めたら、「あ、コーンの乗ったパンが食べたい」と、何となくそんな気分だった。

 顔を洗って髪の寝癖を整えてから、とりあえず財布の中に小銭がたくさん入っているのを確認して、僕はそれをポケットに入れ家を出た。愛車の、と言ってもギヤも付いていない自転車だけれど、その鍵をはずしてサドルにまたがった。一番近所のコンビニまでは、歩いても三、四分の距離だ。僕は口笛を吹きながら、ゆっくりと自転車を漕ぎ出した。

 もう四月が近付いてきていた。朝からよく晴れた青空はとても気持ちがいい。途中の空地の草むらには、スズメがたくさん降りてしきりと地面をついばんでいた。彼らにとっても、これからは過ごしやすい時期がくるだろうと僕は思った。

 コンビニに到着すると、僕は用心深く自転車の鍵を閉めてから店内に入った。パンの置いてあるコーナーに行くにはレジの前を通り過ぎるのが一番近道だ。僕は何度も通ってすっかり顔なじみになってしまった店員さんの前を横切ってパンのコーナーに回った。

 そこには、しかし目当てのコーンの乗ったパンは一つもなかった。あるのはハンバーグの乗ったものやソーセージの乗ったもの、その他甘いものから辛いものまで色々とあったが、僕の食べたいコーンのパンはどこにも見当たらなかった。なら別にハンバーグのパンでもいいや、という気分にもなれなかったので、僕は徒手空拳のまま再びレジの前を横切って店の外へ出た。店の中と外との気温差に、僕は少し肌寒さを感じた。

 幸い、家の近所にはもう一軒別のコンビニがあったから、僕はそちらへ行ってみることにした。

 自転車を漕ぎながら車道の脇を走っていると、僕の向かいから大型のダンプカーが地響きを立てながらやってきた。ダンプカーは瞬くうちに僕の横を通り抜けて行った。すれ違う時、真黒な粉塵を僕の行く手に撒き散らしていった。毎日知らず知らずの内にこんな濁った空気を吸っていたんだなと思うと、僕は別の意味で再び肌寒さを感じた。

 そんなこんなでもう一軒のコンビニについた。僕はやはり自転車の鍵をちゃんと掛けてから店の中へ入った。「いらっしゃいませ」という店員の声が聞こえた。そういえばさっきの店では聞こえたっけな、聞こえたような気もするな、聞こえなかったような気もするな、そんなことを考えながらパンのコーナーに僕は向かった。そしてそこに並んだパンを見てみると、やはりそこにもコーンの乗ったパンは一つも見当たらなかった。おかしいな、今日はコーンの外れ日なのかな、と僕は思った。その代わり、この店にもハンバーグの乗ったパンならちゃんと置いてあった。 ハンバーグの当り日なのかな、と僕はまた思った。

 いつもの僕だったら、この辺で妥協して、コーン以外のパンを買って満足していたかも知れない。しかし今日の僕は違った。今日のコーンの食べたい欲求の強さは、とても妥協なんてできる程度のものではなかったのだ。こうなったら意地だ。意地でもコーンの乗っているパンを探し出してやる。そう決意して、僕は再び店外の自転車にまたがった。

 まずはいつも使っている駅の西口と東口にそれぞれ一軒ずつあるコンビニを潰しにかかった。どちらにも、残念ながらコーンのパンはなかった。ただしそのうち東口のコンビニにはピザ風のパンがあって、そこに多少コーンの乗っていないことはなかったのだが、純粋にコーンとチーズだけの乗ったパンが欲しかった僕は、ピザ風のパンで折り合いをつける気にはならなかった。

 東口から商店街をまっすぐに抜けた先は、大きな幹線道路に突き当たる。僕はその片道三車線の幹線道路に沿って、コーンのパンが見つかるまでとにかく自転車を漕ぎ続けることにした。

 しかしいくら漕ぎ進んでも、なかなかコンビニらしいものは見つからなかった。僕は気づいた。コンビニというのは、大きな道路沿いというよりも、むしろ少し町中に入ったところに多いのかなと。道路沿いには、むしろレストラン系の店が見つかりやすかった。

 でも僕は、あくまで自分の計画に忠実に行動することをこころがけた。いくら道路沿いに少ないとは言え、このまま永遠にコンビニが見つからないということはありえないだろう。この道を行きさえすれば、必ずいつかはコンビニに巡り合うはずだ。僕はそう固く信じて、自転車のペダルを踏み続けた。

 途中で道路は、大きな川を跨いだ。僕はその橋の真ん中付近でいったん自転車を止めた。ぼんやり霞みがかる空気を透かして川上の方を見ると、そこにも一本の鉄橋がかかっていて、その上を長い列車が通過しているところだった。それは僕が毎日通勤で使っている電車だった。橋が一本変わるだけで、周りの風景の見え方が全然違うことが僕には新鮮だった。いつもは見えない鉄橋の下のスペースでは、親子が仲良くサッカーボールを蹴り合っているのが見えた。日が当たって、ぼかぽかと暖かそうだ。

 僕はそれから、また自転車を漕ぎ出した。橋を渡り切ると道路が本線と支線に分かれていて、その交差点の所に一軒コンビニを発見した。

 中に入ると、さっそくパンを見に行った。しかし残念ながら、ここにも僕の探しているコーンのパンは見当たらなかった。それにしても不思議なのは、初めて来た店なのに僕はパンの置いてある棚まで一度も迷わず辿りつくことができた。コンビニではたいてい、レジの正面の棚にパンのコーナーがある。所変わっても、それはほぼ全国共通のルールだ。コンビニというのは、便利にできていると思う。でも逆にそれによって、人間が若い世代を中心にだんだん画一化されて行くのかな、なんてこともふと思った。

 とにかく僕は長居をしないうちに店の外に出て、再び自転車を漕ぎ始めた。大きな道路の周りにはコンビニが少ないことが分かったので、僕はそこから延びる支線に沿って走ってみることにした。

 そこからは緩い登りがしばらく続いた。僕は途中から立ち漕ぎに変えてその坂に挑んだ。少し行くと体温が上がって、息も切れ始めた。運動不足を痛感した。

 それでもどうにか登り切ると、坂の上には静かな住宅地が広がっていた。初めて来る土地だから、一体どちらに行くかは完全に勘だけが頼りだった。家はどれも同じ方向に窓があって、なるべくたくさん日差しを受けようとしているのがよく分かった。それは僕たち人間の本能でもあるし、また家になるために木材に使われた木だって、きっとその方がよかったに違いない。

 住宅地の中には小さな交差点がたくさんあるので、僕は左右から車が飛び出してこないか注意しながら先に進んだ。

 日曜の朝だからもう少しにぎやかでもおかしくないなと思うくらい、その一帯は物静かだった。日曜というのは、ひょっとしたらこんなものなのだろうか。家族で遊びに行くところはもう出て行ってしまっているし、普段会社で働いている人は、用がなければ滅多に外には出てこない。だから日曜が平日とくらべて断然静かなのはもっともなのかもしれない。ただパンパン布団を叩いている音が、どこかから気持よく響いていた。

 住宅地をしばらく行くと緑の多い公園があって、そこの標識で電車の駅が近いということが分かった。駅の周りに行けばきっとコンビニがあるだろうと思って、僕は標識の指す方角へ行ってみることにした。

 しばらく行くと、苦もなく駅を見つけることができた。その駅は、通勤途中に通り過ぎたことは何度もあったけれど、実際に自分で歩いてみるのは初めてだった。割と小さな駅で、駅前には個人商店の他にコンビニらしいものは見つからなかった。少しがっかりたけれど、気を取り直して線路に沿ってしばらく漕いでみることにした。

 途中で、竹竿売りの車とすれ違った。僕の後ろに行ってからも、竹竿売りの声はしばらくの間僕の耳に懐かしいメロディーを送り続けていた。

 線路にそってどこまで行っても、コンビニには一軒も出会わなかった。そして気がつくと、もう次の駅がすぐ目の前だった。次の駅は急行列車も停まる少し大きめの駅だからきっとコンビニも何件かあるに違いないと僕は思った。

 駅前に来てみると、果たして目につくだけでも三軒もコンビニが見つかった。僕はそれを一つずつしらみつぶしに見て行った。

 一軒目のコンビニ、二軒目のコンビニではともに成果を上げられず、残った三軒目に僕は運命を託した。自動扉をあけるとお決まりのベルの音が流れて、店員の「いらっしゃいませ」が後に続いた。迷わず店の奥の方へ進んでいくと、やはりいつもと同じ位置にパンのコーナーがあった。初めて来た場所でも、標識なしで迷わず歩けるのはコンビニくらいのものだ。いつ行っても同じ場所に同じ物があるということが、僕たちの生活にどれだけゆとりを与えてくれているか計り知れない。もし日本中のコンビニの商品の陳列が店によってまちまちになったら、僕たちは小説の中で日本が沈没したとき以来のパニックに襲われるのではないか、なんてことをふと思った。大げさなようだが、でもたぶんきっとそれは大げさなんかじゃない。少なくとも、トイレに入ってからトイレットペーパーが無かったと気づいた時以上の不安にはかられるはずだ。

 そんなことをつらつら考えてはみたものの、肝心のコーンの乗ったパンはここにもなかった。家を出てから、もう何件のコンビニを回ったことだろう。こうまでしても食べられないというのは、何かよほどコーンの恨みを買うようなことを僕がしたせいかもしれない。でも、僕にはざっと思い返してみてもそんな記憶は一度もない。蒸かしたトウモロコシは一列ずつ丁寧に最後まで食べてきたし、ポップコーンの封を開けた弾みで中身が大量にこぼれてしまうということもなかったし、ラーメンの中のコーンも、箸で器用につまんで最後の一粒まできちんと食べた。少なくとも、僕は過去にコーンの顔に泥を塗るような行為は働いていないはずだ。

 なのに、今日に限ってどうしてこうまでコーンに見放されるのだろう。

 僕はだんだん悲しい気持ちになってきて、次のコンビニでももしコーンのパンが見つからなかったら、諦めて引き返そうと決めた。そして駅の反対側に行けばたぶんもう一、二軒はコンビニがあるだろうと予想して、駅の階段のスロープを自転車を押して上がり、反対側の出口の方へ向かった。

 そちら側の駅前には、ファーストフード店が二軒に、コンビニが一軒あった。僕は意を決してそのコンビニ向かって行った。

 店内に入ると、やはりどこでも変わらない、肉まんの蒸された匂いとおでんのだしの匂いが混ざった何とも言えない匂いが僕の鼻をついた。スーパーや八百屋に通いなれた高齢者は、もしかしたらこういう匂いは苦手かもしれない。しかしすっかり慣れっこの僕はそんなことには少しもひるまず、まっすぐにパンのコーナーへ向かって歩いた。

 パンの棚の前に来ると、僕はそこに並んだ商品をくまなく目で探して行った。

 すると、ついに僕は発見した。一番上の棚の、それもちょうど中央付近に、燦然と輝く無数の金の粒を。

 とうとうやった。今日のこれまでの苦労が一気に報われた。僕はあまりの嬉しさに、コーンのパンを手に取った後、しばらくの間、手の中のパンをまじまじと見つめてしまった。

 このパンに出会うために、今日僕がどれだけの苦労をしてここまでやってきたか。僕はここまでの道のりを思い返すと、その一個のパンに涙が出るほどの喜びを感じた。しかし、これでやっと念願のコーンのパンを口にすることができる。僕は勇んで、一個百二十六円のそのパンをレジに持って行った。

 会計を済ませてパンをレジ袋に入れてもらい、僕は再び店の外に出た。気温が上がったせいか、今はもう肌寒さもそれほど感じなかった。

 ふと時計を見て、僕は家を出てから、実に一時間も時間をかけて、電車三駅分の距離を自転車を漕いで来ていたことに気がついた。それでも、やっと念願のコーンのパンを手に入れられたことは、とても嬉しかった。

 ただ不思議なことに、その時の僕は、コーンのパンより、むしろハンバーグの乗ったパンの方が、無性に食べたい気分になっていたことに気がついた。

 駅前では、大きな桜の木が枝いっぱいの花を咲かせていた。

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『気分』 矢口晃 @yaguti

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