第22話 EX STAGE


「敵の技!」


 小股に両手を重ねた彼女シーは声を発しない。

 屈辱などという言葉では収まりきれないほどの感情が額の皮膚を震わせ、前髪が小刻みに揺れていた。


「『レベル2デス』!」


 ジンファンデルの影から骸骨姿の死神が立ち上がり、せせら笑いながら巨大鎌を掲げる。

 襤褸ぼろを纏っていることを除けば彼の仲間であるカルガネガとそっくりの風貌だった。


 ぎゅんと矢の速度で迫る死神。

 彼女シーは回避する素振りすら見せない。


「……」


 眼前に迫った死神が鎌を振り上げる。

 それでも彼女シーはたじろがなかった。

 振り下ろされた鎌の一撃は目もくらむほど鮮やかなレモン色のドレスを素通りする。


 彼女シーを通り過ぎた死神は首を刈り損ねた鎌を無念そうに見つめ、ふっと薄れて消えた。

 

「あー……こういうのは効かないクチか」


 全身に魔力の充溢を感じながら、勇者は彼女シーの大嫌いな「余計な一言」を添える。


「あんた小物っぽいから効きそうなモンだけどな」


 言うだけならタダだ。

 感情を少しでも揺さぶり、目と判断を曇らせることができればめっけもの。

 神の精神性には勝てないが、人の精神性には勝てる。


 まだ彼には多くの手が残されている。

 ――――もちろん、隠し持つ切り札も。


(……)


 くらくらするほどの激情を鎮めた彼女シーはしばし自己嫌悪に陥る。

 影に潜伏していることをジンファンデルに見破られたからではない。

 彼がとんでもない思い違いをしていることに驚き、そんな男を招聘しょうへいしてしまった自分自身の愚かしさに羞恥を覚えていた。


「敵の技! 『タイダルブレス』!」


 ずおお、とジンファンデルは胸が膨らむほど息を吸う。

 黒猫は慌てて古城の上部へ逃げ込んだ。

 

 噴き出されたのは突撃するまんの騎馬隊を思わせる激流だった。

 直撃すれば竜はおろか鯨すら溺死させる「敵の技」。

 渦巻き、逆巻き、荒れ狂う波が乾いた大地を喰らい尽くし、彼女シーへと迫る。


「……」


 彼女シーは微動だにせず、微かな吐息を漏らした。


「私は――――」


 怪物の口を思わせる波が彼女シーをひと呑みにし、そのまま半壊した古城へ突撃する。

 崖で砕ける波濤のごとき音。

 白波が銀氷天ぎんぴょうてんより高く伸び上がり、ぷつぷつと泡が割れる。


 ナイアガラは思わず耳を塞ぎ、目を細めた。


「……!」


 薄れゆく青き波を目で追った魔女は愕然とする。


 彼女シーはその場から一歩も動いていなかった。

 動かされてもいなかった。

 レモン色のドレスには水一滴染み込んでおらず、緑色のショールは変わらず風にそよいでいる。


 無効化や半減ではない。

 直撃すればダメージそのものがゼロでも衣服ぐらいは濡れるはずだ。

 それでいて『靄』でかわしたわけでもない。激流は確かに彼女を通り過ぎたのだ。


(……吸収か)


 彼女シーはタイダルブレスの持つ水属性を吸収したのだ、とナイアガラは判断する。

 

「――――あなた方を恐れて身を潜めていたわけではありません」


「負け惜しみかよ」


 一度。

 二度。

 三度の後躍を経、強く地を蹴り、高らかに跳躍したジンは空中で身を捻る。

 

「敵の技! 『鎌鼬かまいたち』!」


 指向性を得た風が塵を巻き込んで白いC字を形成する。

 曲刀が舞うようにして周囲に風の白刃が生まれ、それらが一斉に彼女シーへと放たれた。

 が、彼女シーはそよ風でも浴びるように目を閉じ、風属性の攻撃を平然と吸収する。


「もう一発! 敵の技!」


 着地。

 ジンの手の平に炎の芽が生まれる。

 それは火炎の花と化し、花冠と化し、花嵐と化す。


「『フレアガーランド』!」


 ジンの声と共に散る花冠が火炎の嵐となって吹き荒れる。

 花を嘯きつつも、真っ赤な蝶とも鳥ともつかぬ炎の細片。


 彼女シーは手で目を覆った。

 この程度の火遊びでダメージを受けることはなかったが、単純に眩しいのだ。


「もういっちょ! ブラックマンバ!」


 手の中で黒蛇を生み出し、炎の嵐を吸収した彼女シーへと放つ。

 彼女シーはうんざりしたような顔で蛇を見やった。


(……ここだ!)


 ジンは両手を地に置く。

 漲るは異世界の『力』。


「『断罪の快力オルゴン』!」


 闇の属性を備えるブラックマンバは吸収を待たず彼女シーの目の前で消滅し、代わって『影』が彼女を包む。


「……」


 彼女シーが振り返ると、周囲の大地に含まれる金属成分が地表近くまで吸い上げられ、巨大な三つ首の女神像を構築している。

 身の丈は彼女シーを超え、成人一人分、二人分、三人分、四人分の高さにまで至っていた。

 鈍色の女神像は長い影を落とし、彼女シーを見下ろしている。


 干物にされた魚のごとく、巨大な女神像がぱかりと左右に開く。

 内部には隙間なく銀色の棘が生えている。


「!」


 一瞬の後、彼女シーに針の雨が降り注ぐ。


「まだ行くぞ! 『断罪の快力オルゴン』!」


 両端に三又の刺突部を持つ槍を精製したジンはしっかりとそれを握りしめる。

 彼は二つの能力を同時に使用できないが、異能に依らない生成物は「敵の技」を切り替えても残る。


「『支配の快力オルゴン』」


 槍が薄い水の膜に包まれ、三又の穂先からは水流が生じる。

 ただし彼女シーとは逆方向に。


「お、おおおおっっっ!!」


 推進力を得た両刃の槍を快力オルゴンに満ち満ちた腕で掲げ、ジンは全力でそれを放擲する。

 びゅお、と槍は地面と水平に飛んだ。


「ジン! それでは属性が水のまま――――」


秘精ヌミノース


 ぽ、と勇者の手の平に宝玉が生まれる。

 飛来する槍を包んでいた水の膜が飛散し、純然たる武器となった槍が彼女シーを串刺しに――――


「……!」


 ――――していない。


 まず女神像から放たれた棘が彼女シーを傷つけていない。

 長い銀針はドレスの繊維一本すら絡め取れないまま地面に散らばっている。


 そしてたった今ジンの放った槍は彼女シーをすり抜け、鉄の女神像に弾かれ、宙を舞う。

 がらんがらん、と虚しい音。


(……全っ然効いてねえ。まさか)


 ジンの頬を伝う汗が顎から地へ落ちる。

 濡れた髪がぺたりと垂れ、獅子ではなく猫のように見えた。


(どんな属性でも吸収するのか? 物理攻撃も含めて……) 


 ありえない。

 物理攻撃の通じない石像と戦ったことはある。

 魔法を吸収する悪魔と戦ったことも。

 だがその両方が効かない相手なんているはずが――――


「私が身を隠していたのは神性を保つため」


 彼女シーは何事も無かったかのように続ける。


「あなた方ごときに傷けられる私ではありませんが、攻撃されたという事実は残る。それは私の神性を損なう。だから身を隠していた。ただそれだけのことです」


 彼女シーが軽く身を揺すると得も言われぬ柑橘の香りが漂う。

 匂いに引かれた黒猫が恐怖も忘れ、彼女の足元へ駆け寄った。


 人類より生存に貪欲な動物が本能で察しているのだ。

 彼女シーの傍に居ればジンやナイアガラが何をしようと安全だ、と。


「ジン! その石を外す!」


 この短時間で秘精ヌミノースの発生と還元の原理を把握したナイアガラが叫び、ジンに光の粒子を浴びせる。

 勇者の肉体にへばりつく秘精ヌミノースが一つまた一つと光に還元されていった。

 元の姿を取り戻したジンは軽く腕を回し、ナイアガラも彼女シーを見据える。


「確認するが、あやつを殺しても良いのじゃな?」


「ああ。問題ない……!」


 魔女は深く頷き、後方で戦闘態勢に入る。


「良かろう。帰れなくなったと後でわらわに泣きつくでないぞ」


「泣きつかれなかったら拗ねるクセに何言ってんだ」


 彼女シーの表情に失望が浮かぶ。


「……無駄なことを」


「無駄という意味がある」


 ジンは自らの長剣を風車のごとく空中で弄び、切っ先を自分の心臓に向けた。


「!」

「!」


 魔女と彼女シーがほぼ同時に絶句する。

 ジンファンデルは一切の躊躇なく、己の心臓を貫いた。

 ぼっと火が点くように胸が熱せられ、口からは唾液の混じる血が大量に溢れ出す。


「ふぶっ!! て、敵の技……」


 ジンの視線が地を這い、彼女シーを捉える。

 本来は味方にしか使わない技だ。

 だが回復魔法を敵に放てるのと同様、ジンは敵にも「アレ」を使える。



「『マイナスヒーラー』!!」



 負傷を取り換える「敵の技」。

 一瞬でジンの肉体は全回復し、一方の彼女シーは――――


「……!」


 ぶぷっ、と。

 そこで初めて彼女シーにダメージらしいダメージが入った。

 北光と同じく胸部にどす黒い血が広がる。薔薇のように。


 ぱっと薔薇の花が爆ぜ、赤黒い液体がばしゃばしゃと地に降り注ぐ。

 猫が驚いたように飛び退き、主を心配するように一声鳴いた。


「く、ぶっ!」


 彼女シーが足元をふらつかせる。

 ドレスは今や腰部まで汚されており、雨粒状の血が裾から地に落ちていた。


「っはは。そうだよな。この手の「攻撃と認識されないダメージ」ならあんたにも効――」


 ジンの言葉は続かない。

 彼女シーは既に体勢を立て直しており、胸からの出血も止まっていた。

 出血が「弱まる」ではなく、完全に止まっている。


 口の端についた血をジャムのように親指で拭い、ちぴゅ、と唇へ。

 彼女シーは白けた目で勇者を見返す。


「……何だよ、それ」


自動完全回復オートフルケア。私の肉体が傷を感知した時、すべての傷はたちどころに塞がる」


「……」


 言葉の意味をジンはすぐには理解できない。

 十分に吟味し、多角的に検討した結果、以下のような結論が導き出された。


 『何らかの形で彼女シーにダメージを通したとしても、瞬時に完全回復されてしまう』。


(化け物かよ)


 だがジンは諦めない。

 彼は勇者だ。

 彼の仲間も。


「ナイアガラ! アレを!!」


「もう詠唱は終わっとる」


 晴天が、翳る。

 澄み渡る青い空に墨一滴ほどの陰が差したかと思うと、ぶわりと天を覆いつくす。


「! これは……」


 彼女シーは天を仰ぐ。

 点々と、翳る空の彼方に何かが見える。

 見つめる内に黒点は種の大きさに、果実の大きさに、頭蓋骨の大きさに変わる。


 肥大化した球形の「それ」はよく見ると赤い炎を纏っていた。

 彼女シーは思わず目を見開く。


(隕石……!)


 数を数えることなどできそうにもない。

 天を覆いつくす災厄が今まさに彼女シーの下へと向かってきている。


「まどろっこしいことをする必要は無いのじゃ、ジン。属性を吸収するのなら無属性の魔法を撃てばよい」


 鼠色だったはずの天は今や目映い朱に染まっていた。

 繁栄の象徴である太陽が溶けだしたかのような朱色に。


「そしてダメージを完全回復するのなら、回復不能の一撃で仕留めるだけじゃ」


 ナイアガラは既にジンと自分に守護方陣を展開していた。

 手間は変わらないのでセキレイと北光の死体、彼のゴーレムにもそれを施している。彼女シーの足元で失神している黒猫にも。


「死ぬるが良い。……『メテオ』!」


 魔女ナイアガラの呟きの後、世界を轟音と衝撃とが包んだ。 

 ジンファンデルは大地に手を置く。












 



 大きくえぐられたボウル状の地面にジンは立っている。

 古城と女神像は跡形も無く吹き飛び、周囲にはもうもうと濃い砂の霧が立ち込めていた。

 見上げれば空は快晴に戻っている。


「うぇほ! えっふぉ! ……久々だな、これ撃つのは」


 何度か咳き込んだジンの横でナイアガラがそよ風を起こしている。

 砂煙が晴れ、視界が少しずつ開けていく。


「シュナンに見せてやりたかったのぅ。アレは派手な魔法が好きじゃか、ら……」


 ナイアガラは慄然とする。

 彼女の見つめる前方に、以前と何ら変わりない彼女シーの姿があったからだ。

 否、変わっている部分もある。

 ジンのマイナスヒーラーで胸元を破かれたドレスが元通りに修復されていた。


「お、お主……」


 ナイアガラは取り乱しながらも現状を冷静に分析していた。


わらわと同じ自動蘇生リザレクションを……!」


自動蘇生リザレクションではありません」


 彼女シーはにべもなく言い放つ。


「これは永続自動蘇生キープリザレクション。私は私が望む限り何度でも蘇ることができる」


「は……!?」


 何度でも蘇る。

 その言葉に魔女は半ば恐慌状態に陥った。


 『物理攻撃も含めたあらゆる属性攻撃を吸収する上、傷ついた瞬間に体力が完全回復して、更に何度でも自動的に蘇る』


 そんなバカな。

 そんな存在がこの世にあっていいはずがない。

 それはまるで――――


「所詮あなたは一つの世界で万能を気取っているに過ぎない」


 彼女シーは氷のような言葉を放る。


児戯じぎなのですよ、文字通り。砂場で遊んだことしかない子供が大人に向かって世界を語るようなものです」


「く、ぬ……!」


「ナイアガラ!」


 地に手を置いたまま、ジンは叫ぶ。


「思い出せ! 俺と、お前の力を!」


「! ジン」


「例えこいつが無敵でも、俺とお前がいれば何でもできる! いいか! 『何でも』だ!」


(……!)


 ナイアガラは思い出し、閃く。

 これまでのジンの言動と、そこから導き出される勝利への活路を。


 悔しそうに引き結ばれた唇が持ち上がり、歪んだ笑みへと変わる。


「……ふ、ふふっ」


 きっと顔を上げ、ナイアガラは彼女シーを睨む。


「偽神よ! そのようなハッタリに妾が騙されると思うてか! 愚かなり!」


 短い詠唱を終えた魔女の肢体をスミレ色の光が包む。

 ぽう、ぽぽう、と幾つかの砂時計が魔女の周囲を舞い、消えた。


「時よ繰り返せ! 『タイムツイスター』!」


「?」


 光に包まれたナイアガラはあらゆる条件を無視して『一つ前の行動』を繰り返す。

 連続して発動することはできないが、強力な魔法すら再発動できる『時魔法』の秘技。


「いくら肉体が無事であろうと、生と死を繰り返せば心はただでは済むまい!」


「……」


「妾はお主の精神を殺す! 現れよ、メテオ!」


 再び、天が恨みがましい鼠色へと変わる。

 胡麻粒ほどの点が遥か上空に生まれ、魔力の補助を得ながら飛来する。

 引力の中心点に居る彼女シー目がけ、魔女の持つ最大最悪の魔法が放たれる。


「……愚かなのはあなたです、魔女よ」


 彼女シーは嘆息し、斜め四十五度の空を見上げた。


 かつての彼女シーは『布』という漠然とした形でしか異世界を認識できなかったが、今は違う。


 彼女シーは世界認識のダイヤルを回す。

 北光やデラウエアの世界で言う「金庫」のダイヤルと同じだ。

 こりこり、かりりり、と「世界の目盛」を動かすことで彼女は重なり合う多世界を透かし見る。


 その間、彼女自身が見ている世界も半透明になる。

 ジンも、ナイアガラも、猫も、死体も、空も、大地も。

 ダイヤルを回している間、彼女シーの見るすべては半透明の曖昧な事象へと変じる。


 快力オルゴンの世界に目盛が合うと、セキレイの死体だけがくっきりと実像を持つ。

 光片子デミパーシャルフォトンの世界に目盛を合わせると、北光の死体だけが浮かび上がって見える。


 彼女シーは一つの世界に目盛を合わせ、更に「位置」の目盛を銀河の最果てに設定した。

 人類と呼ばれるちっぽけな生き物が観測可能な宇宙の最果てに。


 掌に生まれた黒いもやを両手で包み、彼女シーは空へと広げた。

 靄のサイズは彼女シーの好きなように拡縮できる。

 今のサイズはオーロラ程度だ。


 曇天の空が大銀河あるいは光無き深海を思わせる黒のカーテンに包まれ、飛来する隕石がその中へ吸い込まれていく。

 次々に。次々に。

 一つたりとも漏らさず。


「な……!」


 降り注ぐ流星群をすべて『靄』に飲み込ませた彼女シーはそれを閉じた。

 隕石の行き先をナイアガラやジンの世界に設定しても良かったが、彼らには彼女シーの神威を知らしめる役目があるのでやめておいた。


「その程度で魔女を名乗るのですか、あなたは」


 彼女シーはせせら笑うと共に怒りを覚える。

 彼女の知る『魔女』は老若を問わず真理の探究者であり、魔法使いの枠に収まらない哲学者ばかりだった。

 彼女の知る魔女の中に隕石を降らせることを誇る者などただの一人もいなかった。


 ナイアガラは明らかに低稚だ。

 矮小で、取るに足らない。

 こんな木っ端魔法使いが魔女を気取るのは我慢がならない。

 真に偉大な魔女たちにとって大いなる侮蔑だろう。


 彼女シーはナイアガラの狭い見識を許さない。


「……」


 ジンは地に着いた手をゆっくりと持ち上げ、それを振った。


「どこで手に入れたんだ、そんな魔法を」


 彼女シーはもちろん答えない。


 斬撃や刺突、射撃といった物理も含めた全属性吸収。

 全悪性状態異常無効化。

 自動完全回復オートフルケア

 永続自動蘇生キープリザレクション

 無制限に他者を蘇生させる秘法。

 言語認識を溶融する秘法。

 

 これらはいくつもの世界を救った彼女シーに捧げられた供物、すなわち「アイテム」によって得た力だった。

 レモン色のドレス。ルビーレッドの肌着。緑色のショール。

 太ももに巻いた宝珠、胸元に忍ばせた羽を模したチョーカー、髪飾り。

 そうした稀少なるアイテムの数々が彼女シーに無限の力を与えてくれる。

 ――――当然、ジンファンデルがこれらの恩恵を習得ラーニングすることはできない。


 もしこれらのアイテムを失えば彼女シーは「ただの人」に戻ってしまう。

 実際、久しぶりに元の世界へ帰還した彼女シーは「装備外し」の罠を踏んで命を落としかけたことがある。

 だがあの罠は他の世界には存在しない。


 これら極上の装備は呪われている。

 否、「呪わせて」いる。

 今や装備品一式は彼女シーの存在と不可分であり、魔法を受けようと剣で傷つけられようと衣服を脱がされる心配は無い。

 ゆえに誰も彼女シーを殺すことはできない。


 「装備外し」以外に自分を殺す方法があるとすれば。

 ――――「空腹」ぐらいのものだ。


 彼女シーはくすりと微笑し、そして――――







 影に紛れ、自分の足元に迫っていた小さな『靄』を新たな『靄』でかき消した。







 ひゅぼっと靄が消える音。

 数秒、ジンの思考が停止する。


「……。……え?」


 彼女シーは微笑を冷笑に切り替え、ジンへと向けた。






「私から習得ラーニングした『靄』で私を殺すつもりだったのでしょう?」






 世界から音が消える。

 風がやみ、砂埃は観衆のように地へと落ち着く。


「目の付け所は悪くありません。私は確かに無敵ですが、『靄』の影響だけは受けている。あなたはそれを見逃さなかった」


 彼女シーは自分の「影」を見下ろす。

 つい先ほどまで巨大な女神像の「影」によって見えなくなっていた自分の影を。

 あの女神像は針を放つ攻撃の為に作り出されたのではない。

 大きな影を生み出すために作り出されたのだ。


 乱雑極まりない攻撃の最中、ジンは彼女シーの影により大きな影を重ねた。

 理由は簡単だ。

 彼女シーが実際にそうしたように、純黒の現象である『靄』は『影』に紛れ込ませることができる。


 ジンの影。

 槍の影。

 彼女シーの影。

 影から影を伝い、靄が彼女シーへと迫っていたのだ。

 靄は生成物であるため他の敵の技と併用できたのだろう。


「おそらく『靄』を通過してこの世界へ来た時点で、あなたは私の『靄』を習得ラーニングしていた」


「っ」


「『靄』があれば私を殺すことも元の世界へ戻ることもできる。あなたはそのことばかりを考えていたのでしょう? 隠し通せるとでも思いましたか?」


 ジンは返す言葉を見つけられない。

 ナイアガラもまた、唇を震わせることしかできない。


「愚かなことね。早々に自分達だけ逃げ出すこともできたでしょうに。……まあ、この完成度だと一人ずつしか転移できないから、どの道私に止められていたでしょうけど」


 かち、と。

 ジンはおかしな音を聞く。

 それが自分の口からこぼれおちる音だと気づき、彼は思わず下唇に手を当てていた。


 かちかち、かちかちかちかち、と。

 骸骨スケルトンが笑う時と同じく上下の歯が軽快に噛み合う。

 ――――恐怖が彼の肉体を笑わせている。


「私の技が私に通じるわけがないでしょう」


 彼女シーもまた嗤う。



「経験値になる準備はお済みかしら?」



 初めて、ジンファンデルが凍り付く。

 心の臓まで。

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