黄色を抜いたら

藤原あすま

第1話

 あの花を抜かなければ、私は今どんな暮らしをしていただろう。


 薄汚いクリーム色のコンクリート、舗装されていない地面、威嚇する猫の鳴き声。ごく一般的、というには少し年数の経ちすぎた集合住宅の5階に私は住んでいた。もちろんエレベーターなどはない。特徴のないアルミ製の窓がずらっと並んでおり、使い込んだ布団や洗濯物が干していなかったらおそらく見分けはつかないだろう。そんな中、唯一私の部屋を見つける方法はを見つけることだ。何も干されていない無個性の窓が、私の部屋の個性なのである。


 部屋の中に物は少ない。ぽんと置かれた机と、細やかなキッチン、ベッド、仕事で使う資料、エトセトラ。暗い青の備え付けカーテンに布団の色を合わせたために、なんだか部屋全体が暗く見えた。そうは言っても、仕事に行って、帰ってきて寝る、ただそれだけの生活にこだわりも多くのものも必要ないと思っていた。

 無個性な窓の理由はそこにある。私の部屋には洗濯機がなかった。必要なときは、いつも近くのコインランドリーへと足を向ける。大きなものは乾燥機、皺になりそうなシャツはすぐアイロンをかけて部屋干し。よって少しでも窓がカラフルになるはずの洗濯物等々は、外へお目見えすることはなかった。


 そうはいっても、洗濯機がないのは私が物に無関心だからという理由だけではない。私はここに越してきてまだ一か月もたっていなかった。今の会社に入社して2年目の冬、比較的人の少ないこの地に移動になったのだ。会社の私に対する期待の低さが手に取るように分かった。そんな冬、新しいはずだった私の一代目洗濯機は「残念でした」と言わんばかりにごうん、と鈍い音をたてて止まった。残されたのは洗濯途中の衣服と、私のごろんと抜け落ちた心だけである。そんなこんなで、二代目洗濯機は私の部屋には置かれていない。今日も今日とて、長い階段を下っては赤い看板のコインランドリーに足を運ぶ。


 ある日アパートからコインランドリーの途中で気付いたことがあった。まだ外も寒い一月、舗装されていないアパートの前の土に1本だけ菜の花が咲いていた。はて、菜の花?この花は、春の風物詩ではなかったか。さらに不思議だったのは、その時は日が落ちた後だったにも関わらず、黄色いなぁと記憶があることだ。明かりがあったわけでもないのに、何故そんな記憶があるのだろう。まるでその花が色を出して光ってでもいたかのように、はっきりと頭に残っていた。まっすぐ立つその姿は、なんだか雷のようだった。



 その花がいよいよおかしいと気づいたのは、初夏になっても変わらずその場所にたっていたからだ。明るいときに近寄ってまじまじと見てみても、何の変哲もない本物の菜の花である。空に向けて背筋を伸ばし、ふさふさと黄色の花をつけている。しかし、他と違ければ無個性も個性である。私の部屋の窓と同じだ。他の菜の花たちは出番は終わったとばかりに日に日に元気を無くしていくのに、その黄色は元気いっぱいだった。何故だろう。やはり造花だろうか。しかし幾度触ってみても、しっかりと生きた植物である。


 そんなある日、私は仕事でミスをした。重要な資料の送り先を間違ってFAXしてしまったのだ。なんという単純で簡単なミスだろう。多くの呆れた目が私を突き刺して、私自身も心の内側から何やってるんだと自身を突き刺した。


 その日の夜も、いつものように天に向かって伸びている黄色い花が目に入った。その姿が無性に気に障った。

 そして気づいたときには、かの菜の花を根元から一気に引き抜いてしまっていたのだった。



 私は何をやっているんだ!! ぼんやりしていた焦点を、急いで黄色い花に移した。私のせいで葉が少し千切れ、小さな花びらも辺りに散ってしまっていた。その証拠に私の手のひらには緑色の血がついている。

 人を一人殺してしまった。何故だかはわからないが、その不思議な花を抜いてしまったことはそのくらいのショックを私に与えた。


 しかし、おかしなことに気付いた。

 引き抜いたはずの花は、長い根を未だに地面に伸ばしていたのである。


 するりと茎から根へと手を這わせた。根からはしっとりと土の水分を感じる。ふさふさと沢山枝分かれした根を辿ってさらに先へと手を這わせると、一本だけの太い根にたどり着いた。そいつをつうっと慎重にひっぱると、土を蚯蚓腫れみみずばれのように盛り上げながら私のアパートのほうに向かって抜けていった。引き寄せられるように静かに近づき抜いていく。



 そして行き着いた先は、なんと私の部屋の真下、ある1階の部屋の窓であった。



 なんとも言えない好奇心、そして少しの恐れが私の背中をぞわりとさすって、足と地面を縫い付けた。気づいちゃいけないことに気付いてしまった。そんな気がした。生ぬるい空気が、傷ついた緑の匂いを鼻腔に運ぶ。落ち着いて、短く息をひゅっと吸った。


 その瞬間、いつものアパートメントが一気に身震いをして色づいたように感じた。それほど、私は自分が思った以上に高揚していたのだ。初めに感じた恐れまでも丸め込んで、ざわりと体を駆け抜けた。それは嵐、いや、かの花に合わせるなら春一番のようなものだったのかもしれない。

 さて、こんなに言葉を並べたものの、私が目にしたのはただの長い草の根だ。なんというか、こんなことでここまで高揚したのは時期尚早だと思うかもしれない。植物は強い。特に野に生える植物の生命力は目を見張るものがある。人間がびっくりするほど長い根を持っていても、決しておかしくはないだろう。しかし初夏の菜の花という奇妙さと、自身がやらかしたことのショックと、何より垢抜けないこの生活に飽き飽きしていたことがこの発見をここまで大事にしてしまったらしかった。


 自分を落ち着けてから、その根の続く部屋のネームプレートに目をやった。ここの建物の表札は、「表札」というより「ネームプレート」といった感じだった。(つまりは安っぽいのだ)しかし菜の花はよく見えていたので気にしていなかったが、外はもう暗くなっていたので私の視力では文字を読むことはできなかった。そのため、おずおずと足を踏み出して近寄った。

 

 そこには、「与謝」とかいてあった。


 気づいたときには、勝手に指がこれまた安っぽいインターホンを押していた。

 なんてことだろう。私が青ざめて後悔したときにはもう遅い。ぴんぽぉーんとぴりぴり反響ながら、インターホンは家主を呼び出した。




 ここまでお願いだ、誰も出ないでくれと願ったのは初めてだ。果たして、「与謝」さんが出てきたらなんて反応すればいいのだろう? こんばんは、今日も暑いですね? ここの5階に住んでいるもので、遅ればせながら挨拶を? あの野良猫はあなたの家で飼っているんですか? こういう時に限って、思い浮かぶ台詞はどれもこれもまともじゃない。なんだこいつ、と白い眼で見られるのがオチだ。下手をすれば不審者扱い、これからどうすればいいのか。思わず逃げ出してしまおう、と思ったところで不幸にもガチャリと薄い扉が開いた。先にインターホンに出てくれよ! そんな検討違いな考えもが頭に浮かぶ。


 「あら、アルミくんじゃない」


顔を覗かせたのは、小学4年生くらいの女の子だった。

 

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