留守番

 絶対に傷ついた魚を家に入れてはなりませんよ。母親はそう言って外出した。ひとり家に残された娘は最初、それに疑問を抱いていた。なぜ、魚はいけないんだ? 売られた生簀を土に埋めてしまっても墓標は必要だろうに。なぜ! もうそんな余力も? そうして考えているうちに、果たして微熱の魚はやってきた。ドア越しに声がきこえる「あの、熱いんだよ、体が……変温動物てさ、水の中にいると、体温が水温と同じになるのよ。わかる? 俺体温が五度くらいしかないわけ。冬だし。っていうか、検温するためにわれわれは体に体温計を突き刺さなければならないのですよ。だから体温をしりたいな、っと思った時、それは体に体温計を突き刺すこと、自分の体を破壊したいという欲求の婉曲表現となってしまう。必然的に。くそう、やはりだるい。きっと微熱のせいだ。だから体温計を貸してくれ! 俺が自己破壊する一翼を担ってくれ!」扉はドンドンと強く叩かれていた。娘はおそろしくなりアーミーナイフの刃を立て、両手で持ってドアに向って言った。「母さんが駄目だといったから!」魚はドアの向こうで鱗をぽろぽろ落とした。それは涙のようだった。

 そのときふと魚がいけない理由がわかった。生臭いのだ。こんな生臭いやつを部屋の中に入れたら、わたしたちは善意に従って弱きを助けることが欺瞞であることを知ってしまうことになる。きっと生臭すぎて逆上し、持っているナイフでメッタ刺しにしてしまうだろう。そうなったらわたしたちの中にある善意とはその程度のものだったと自覚することになる。それはいけない。我々は自覚してはいけないものを内部にたくさん持っている。何も知らないのが幸せなのだ、そしてその恍惚的な家庭の幸せを守るためにもこの生臭い傷ついた魚を迎え入れることは絶対にあってはならないことなのだ。

 娘は「それ以上玄関に留まり続けたら、攻撃する」と警告した。ドアのノックは止んだ。そのかわり、樫の木でできたドアは腐りはじめた。粘液をこすりつけているのだ。ドアの向こう側では、魚が体をドアにこすりつけ、体表を覆う粘液をドアに移動させているのだ。ドアはそれに耐えられないのだ。だってそうだろう、誰だって魚にこすりつけられるのはいやだ。しかも奴は傷ついてる。粘液が取れたら傷が化膿して衛生的によくない。「奴の自己破壊はすでに始まってる!」娘は戦慄して、ドアに向って走り、ナイフを思いっきり突き立てた。刃はドアを貫通して向こうに飛び出た。しかし、魚の体からは外れていた。「こりゃどういう真似だ?」魚はその切っ先を見て言った。娘は心底恐怖し、台所にあったプロパンガスのボンベをドアまで引きずってこようとした。爆殺を考えたのだ。そしてどうやって発火させるべきかを考えた。だが娘は幼すぎて、ガスが爆発することは知っていたが、このボンベを爆弾に変える方法は見当もつかなかった。少女はボンベをドアに押し当て、せめてバリケードになるようにした。だが魚は大人だった。ガスボンベを押しのけるくらいの力は普通に持ち合わせていた。長い時間をかけてドアを朽ち果てさせることができてしまえば、それは問題にならないのだった。時間の問題なのだった。

 「ああ、今、俺は自分を破壊してるんだなあ」魚は全身の痛みに耐えながら……いや、耐えてないのかもしれない……天国を感じていた。この気持よさが得られるなら人の敷地に無理矢理押し入って体温計を借り、自分の体に突き刺して生臭さを発することなんて全く抵抗なくできたし、実際自分は積極的にそうすべきだと思った。生き物は幸せにならなきゃいけないからだ。だから朽ち果てたドアの損害や、これから首を絞めて殺す娘の賠償金がいくらかなんて考える必要はぜんぜんないんだ。自分はむしろ神に近い存在なのだから、他人の命をゴミクズのように扱うことが義務とすらいえるのだ。だからこの娘を今から殺戮しなければならない。なぜなら自分は神だからだ。そしてドアはついに倒れ、魚は部屋の中に踊りこもうとした。そのとき、プロパンガスの陰から娘が飛び出し、体温計を魚の目に思い切り突き刺した。深く突き刺さった体温計は喉を貫通し、エラの組織にまで至った。激痛のショックで魚は硬直し、おぞましい悲鳴を上げた。娘はすぐにプロパンガスを押し倒し、魚を下敷きにした。重いボンベに圧迫され、胴体はひしゃげ、魚の内蔵は崩れて口から吹き出した。浮き袋から空気が押し出され、口の中の血がゴボゴボと音を立てた。娘はその光景に耐えられず、その場で嘔吐した。魚は既に死の痙攣が始まっていた。しかし、目からそそり立つ体温計の水銀は、ぐんぐん高まっていったのだった…………

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