終章 空と大地の始まり

第73話 夜明けと始まり(1)

 ふわり。湿気をはらんだ暖かな風が蜂蜜色の髪を揺らす。透き通った琥珀色の瞳を細め、少女は大きく伸びをした。大きく開かれている窓辺に寄って道を見下ろすと、昼間にもかかわらず道行く人は極端に少ない。時たま前を通り過ぎていく人の多くは白衣やローブを身に着けた魔法使いたちだ。こんなに気持ちのいい晴れた日なのに、彼らは何かに追い立てられるようにせかせかと歩いていた。


 もったいないなあ、とつぶやいたところで、彼らと同じ場所で働く友人たちと昔授業を抜け出し、昼寝をしたことを思い出す。お気に入りの場所にいったらネリエとシャンディが昼寝をしていて、私も一緒に寝ちゃったんだよね。少女は目の前を走っていくだぼだぼの白衣の少年を見送りながら、くすりと笑いを漏らす。


「どうかしたか、リリス」


 こぼれた笑い声を聞きつけたのだろう。部屋の隅で分厚い書物に目を通していた青年が、不思議そうに声を上げた。低くて柔らかい、優しい声。リリスはあわててなんでもないの、と答えを返す。だが青年はそのまま手の中の書物を置いて立ち上がった。


「ごめんなさい、セレス。邪魔しちゃった?」

「いや。少し疲れたから休憩する」


 セレスは凝り固まった体をほぐすように伸びをしてから、リリスがいる窓のほうへと歩きだした。歩く速さに合わせて、青年の銀糸のような髪がさらりさらりと揺れる。セレスはそばに来るのかと思いきや横には並ばず、なぜかリリスの後ろへとまわった。リリスが戸惑いながら後ろを振り向くと、笑い声とともに前を向いてと声がかかった。


「なあに、セレス」

「リリスの髪、上等の絹糸みたいだな。日に照らされると透ける」

「ふふ、ネリエにもよくそう言われて、髪触らせてって言われてたわ。髪を結うのがとても上手でね……」


 さらり、と髪を梳く優しい手の感触。リリスは目を細めて、行き来する手の感覚を追う。まるでガラス細工を愛でるかのように、大切にそっと触れられている。だがそれでいて手のぬくもりはしっかりと伝わり、とろけるような甘さを残していく。ゆるやかに流れる幸せな時間。すべてはあの夜を乗り越えたからこそのものだった。


 長い長い一夜が明けてからの事は、あまりよく覚えていない。おぼろげに残っているのは二つの記憶だ。白のローブを身にまとう魔法使いたちに取り囲まれ、馬車に乗せられたこと。リリスとセレスを引き離そうとする魔法使いたちをアルが一喝し、研究所の宿泊施設に泊まるのを条件に、二人一緒にいられるようになったこと。それ以外の記憶は断片的にしか残っておらず、わずかに残った記憶も時がたつうちにどんどん崩れてなくなりつつある。


 ただ一つ明確にいえることは、これからもしばらくここへ留め置かれるだろうということだった。あの一夜の後、ランディの取り調べが行われると同時に、体調が回復したリリスたちへの「調査」も行われていた。リリスとセレスの身の上はもちろん、ここに至るまでの経緯、経過、今後どうしたいか、質問は多岐にわたる。二人一緒で質問に答える時もあれば、別々に部屋に呼ばれていくこともある。それはまだ今も続き、終わる気配を見せていなかった。




 緩やかに過ぎていく午後の時間、ふいにコンコン、と扉をたたく音に二人は顔を見合わせた。今日は、取り調べの予定は入っていないはずだ。もしかして、と少しの期待を込めて立ち上がったところで、外から聞き慣れた声が聞こえてきた。


「リリス、セレス、いる?」

「ネリエ!!」

「おいしいフルーツケーキがあるの。お茶にしない?」

「ありがとう、嬉しい……!」


 リリスがドアに駆け寄って彼女を招き入れると、後ろからもう一人、見慣れた姿がのぞく。ネリエの相方、シャンディだ。二人とも会いたかった、と笑み崩れながらリリスは二人をテーブルのほうへと案内する。部屋の家具は来客を想定した造りにはなっていない。二つある椅子へそれぞれ座ってもらい、リリスは近くのベッドのふちへと腰かけた。


「ごめんね。椅子を使わせてもらっちゃって」

「ううん。気にしないで。二人が来てくれただけでもすごく嬉しいの」


 ふわり、と笑み崩れるリリスに、友人たち二人はつられるように笑う。週に一度だけ許された、制限付きの来訪だ。だがすぐに彼らの表情は引き締まり、眉根にしわがよる。最低限の生活をするためだけの質素な家具と、狭いキッチン、トイレ、堅い木のベッド。ドアから十歩と少し歩けばすぐに端に来てしまうぐらいの小さな部屋。リリスとセレスに与えられたものはたったそれだけであり、自由に部屋から出る許可すら彼らには与えられていなかった。


「ランディさんの取り調べは、ほとんど終わったよ。将軍位を返上して、しばらくは謹慎になるみたいだ」

「あんな男、一生牢に放りこんでおくべきだわ。危うく私たちみんな殺されるところだったんだから!」

「ネリエ。結果的に誰も殺されずに未遂で終わったからこの処分で済んだんだって、アルも言ってただろ」

「それはそうだけど……」


 不満げに口をとがらせる少女を、シャンディは呆れ顔でなだめる。ネリエの言い分ももっともだが、結局は彼の言うとおりの理屈なのだろう。最終的には王が下した判断なので、そのことに異を唱えることは許されていない。そして、ここにリリスとセレスが留め置かれているのもまた、王の命によるものなのだという。


「王宮ではいま、君たちの処遇をどうするかで議論が紛糾している。アルの時もだいぶもめたらしいし、まだしばらくかかるとおもう」

「第七研究所としては、全力であなたたちが自由に行動できるように動いているんだけど……反対派を抑えるのがなかなか難しいの」


 どこか疲れをにじませた口調で、ふたりが経過を報告してくれた。いま、王宮ではリリスとセレスを魔法使いとして認めるか否かで意見が割れているらしい。ここへ留め置かれているのもそういう理由からだ。表向きは「事件の調査」だが、結局のところ処遇が決まるまでは自由に行動させられない、ということらしい。


「反対派の中には、ランディのとった行動を支持したり、賞賛したりする声まであるらしい。人に仇なしたことのある妖魔はすべて排除するべきだ、と――」

「シャンディ!」

「あっ……ごめん……」


 セレスやリリスにとって聞いていて気持ちのいい話ではない内容まで踏み込んだところで、ネリエが鋭い声を上げてシャンディをとめる。彼もそのことに気づいたのか、申し訳なさそうな顔で謝った。だがセレスは顔色一つ変えることはなく、穏やかに笑って首を振り、気にしないでほしい、と二人に切り出した。


「俺が人間を襲ったことがあるのは事実だし、人間側からそういう意見が出るのも当然だ。人間に害をなす可能性があるならば、排除する方向へ行ってもおかしくない」

「でも……リリスと契約を結んでいるのよ。そんな状態で、人間を傷つけることなんてできるわけないじゃない」

「ネリエはリリスの事をよく知っているから、そういえる。でも、王宮の人間はほとんどリリスの人間性を知らない。だから、想像するしかない」


 むぅ、とむくれるネリエに、セレスは少し苦笑しながら言葉をつづけた。リリスの友人は、本当にリリスびいきだ。この二人がどれだけリリスを大切にしているか、心配しているかがよくわかる。セレスがうっかりリリスを悲しませるようなことがあれば、目を吊り上げて怒られるに違いない。涙もろい彼女を泣かせないように気を付けよう、と改めて肝に銘じながら、セレスは自らの見解を口にした。


「今までのリリスの扱いを考えれば、人間や魔法使いたちに敵意を持っていてもおかしくないだろう。どちらかといえば、人間を害するために妖魔と契約を結んだ、と考えるほうがたやすい。ましてや妖魔にいい感情を持っていない人間であれば、そう考えるのは普通だろうな」

「……あなた、本当に今まで人間の世界に暮らしていなかったの? ずいぶんと人間の思考や事情に詳しいのね」

「うむ……全くかかわっていなかったわけではない。今まで生きてきた中で、魔法使いや人間たちとも昔交流したことはあった。最近は距離を置いていたが」

「そうなの……?!」


 今まで聞いたことのなかった話に、おとなしく聞く側に徹していたリリスが反応した。時間だけはたっぷりとあったから、リリスとセレスはお互いの話をたくさんしたが、そういえば人間と関わった話を彼女に話したことはなかったな、とセレスは思い返す。今度また話す、と言って彼女の手を取り優しく撫でると、リリスはほわりと笑み崩れて頷いた。

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