第18話 青の妖魔
今日の夜は昨晩よりも暗闇に支配された夜だった。暗灰色の分厚い雲が空を覆い、星はおろか月の光さえも届かない。どこからか湿った風が吹いてきていて、肌をぬるりと撫でていく。このまま行くと雨になりそうだと先ほど酒場にいた男が嘆いていたのを思い出した。
パチパチと松明の燃える音を聞きながら、昨日と同じ道を歩く。今日は用があるから行けなくてごめんね、と言って宿の主人は来なかった。昨日も見送りは門までだったが、それでも一人でいるよりかは幾分心強かった。 明かりがひとつもない真っ暗闇の道を一人で歩くと、心細さに気力が削られていくような気がする。どんどん不安になっていく自分をいさめながら、リリスは昨日と同じ場所にたどり着いた。
「……本当に今日も来るのかしら?」
一抹の不安に駆られたが、今のあてはスノードロップの主人しか居ない。彼が自分に与えてくれた情報が正しいのを祈りながら、リリスは男が現れるのを待った。
昨日と同じようにあたりの空気が変わったのは、ずいぶんとたってからだった。冷たくなり張り詰める空気、ざわざわと不安げに枯れ草を大きく揺らしていく風。ゆらりと大きく揺れて炎をかき消される松明──すべて昨日と同じだったが、リリスはそこに違和感を覚えた。何かが違う。 昨日と同じなのに、どうしてこんなにも違和感があるのだろう。それに気付いたときには、すでにこの空気を変えた人物が湿原の端に現れていた。
「昨日より魔力がかなり大きい……」
あたりに満ちる魔力の大きさは昨日とは比べ物にならないほど大きく、リリスを圧倒する。魔力の正体は同じものなのに、開放する量を変えただけでこんなにも違うなど思いもしなかった。だが違和感の正体はそれだけではない。昨日のようにリリスを萎縮させる威圧感も、自分に近寄るなと言う拒絶も違う。もうひとつ、それらの中にあるものを見つけてリリスは愕然とした。
自分に向けられた途方もない魔力。それは紛れもなく殺気を含んでいた。
「忠告を破った私を殺しに来たの……?」
震える声でたずねる言葉は、リリスから遠く離れている男には届かない。ぬかるみだらけの湿原をまったく苦にせず、闇の中に光る二つの青い瞳は滑るように自分のほうへと向かってくる。だが風に乗って流れてきた言葉に、リリスは目を見開いた。
『──人間が持つにしては分不相応な魔力を持つ娘よ。その魔力、我がいただく』
ねっとりと肌をなでるような声。生理的嫌悪と同時に恐怖心も抱かせるその声は、リリスの記憶にある声とは違っていた。
「あの人じゃない……あなた、誰なの……?!」
「はて『あの人』などというやつのことは知らん。そなたも魔力を持つものの端くれならよく知っているはずだ。我は今、魔法使いの中ではかなり有名人だろう」
くつくつと笑う男は身動きできずにいる間に近くまで来ていた。リリスは近くで男を見て、更なる違いに気付く。 闇に光る瞳は空色ではなかった。たとえるならば、
「藍色の瞳? 空色じゃないけど、青い……もしかして、あなたがあの少年を殺した『青の妖魔』なの?!」
「そのとおり。我は魔力を食らう妖魔。瞳が青いことからその名で呼ばれている」
「あの人じゃなかったんだ……!!」
正解とばかりに頷く男の答えに、リリスはなぜか安堵していた。昨日再会した彼が妖魔なのは、たぶん本当なのだろう。それでも先だって少年を殺した『青の妖魔』が彼でなかったことはとても嬉しかった。
「……さて、獲物とこんなに長い時間おしゃべりしたのは初めてだ。久しぶりに人と話せてなかなか楽しかったぞ、娘よ。 もうおしゃべりの時間は終わりだ。我は腹が空いているのでな」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「そなたに選択権はない。ああ、うまそうな魔力の匂いだ」
一方的に会話を切り上げられ、男が自分の魔力を食いに来たと言っていたことを思い出す。そのときにはすでに、男はリリスの近くに来すぎていた。身を翻して逃げ出そうとしたが、あっという間に行く手を阻まれる。片方の手で手早くリリスの手首を掴んだ男は、喉へと手を滑らせた。つーっと愛でるかのように尖った爪でうなじや首筋をなぞられ、ざわりと鳥肌が立つ。
「いや……やめて……!」
狂気を孕んだ藍の目がこちらを見る。抵抗すらも楽しむ男に、リリスは本気で殺されると恐怖した。嗤う男の口腔から鋭利な犬歯がのぞく。生暖かい息が喉元へとかかった。もうだめだ──そう覚悟して目をつぶったとき。
地を引き裂くような轟音と閃光とともに、リリスの体へ衝撃が走った。
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