第10話
頭で考えるよりも、身体が先に動いていた。光を胸に囲うよう抱き締め、覆いかぶさる。
ゆうの言うとおり、私は〝ほんとう〟ではない。保育士の先生でも、家族でも、まして母親でも。けれど私にとってあなたは〝ほんとう〟なの。どうかどうか、この子だけは傷つけないで。大事な、大事な、私の――
息を止めていたのは、ほんの数秒。
私は屈み込み、胸に囲うようにした小さな光を見下ろした。ガラス片が当たらなかったか、怪我はないか、痛い思いはしなかったか。
闇の中、小さな光だと思っていたそれは、ゆるくにぎられた小さな手だった。手首から先は途絶えている。
闇夜に浮かぶ手は、夜更けの正門越しに何度も目にしていて、別段、気味が悪いとは思わない。でも、こんなにも行き場を失った、心細げな手だったろうか。あるべきものがないというのは、さみしい。ひどくさみしい。
堪らなくなって、指を絡める。ゆうが私にぬくもりをくれたように、私の熱が伝われば、と。
私は次に起きた光景に目を見張った。
手から繋がる腕が徐々に闇から浮き上がる。
手から腕、腕から肩、胸、胴、上半身、下半身。徐々に、徐々に、小柄な姿が現れる。絵の具のにじみ絵を連想させる様相だった。ほの黄色い光を放ちながら、徐々に、徐々に。
気づけば、紺色のスモックを纏い、肩口で髪を切り揃えた女の子が目の前にいた。膝をついた私の正面に彼女の顔がある。私は息を呑んだ。
小さな白い丸い顔。ぱっちり黒々とした瞳と太い眉。鼻は少し低いめ。初めて見る、だけれどどこか懐かしい顔。ずっと昔、会ったことがあるような。
「……ゆう?」
うかがうように呼ぶ。女の子自身、信じられないみたいにしばらく呆然としていたが、ようよう、こくんと頷いた。
「怪我はない? 痛いところは?」
ゆうは首を横に振った。私は安堵の息を吐く。
なるほどガラス片は近くにはなく、私たちを中心として円を描くように落ちていた。自然にこうなるものだろうか。それとも、ゆうの力によるものか。なんにせよ、ゆうが無事なら構わない。そうして私は改めてゆうの顔をまじまじと見つめた。
会いたくて会いたくて、焦がれに焦がれた女の子。
絡めていた指を抜き、なめらかな頬に指を伸ばす。ピンク色の頬にあるかなしかの産毛が生えているのまで見てとれる。いつのまにか、暗闇は取り払われ、元通りのおゆうぎ室に戻っていた。
さわられた頬がくすぐったいのか、ゆうはくふくふ笑い、身をよじる。そのうちに彼女もこちらの顔に手を伸ばしてきた。互いに確かめ合うように頬やら額やらぺたぺたと触り合う。
ゆうは想像していた以上に可愛らしかった。園にいるどの子より。そして想像よりも少し大人びて見えた。
そのうちに、ゆうがうつむいた。今まで見られなかった分、彼女の顔を堪能していたい私は、その顔を無理にのぞき込む。
ゆうは瞳いっぱいに涙を溜めていた。ぐっと堪えるようにしてこんなことを言ってくる。
「……ごめんなさい。ほんとうのこどもじゃなくて」
最初、何を言っているのよく理解できなかった。どうしてこの子が泣くことがあるのだろうと。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返して。今までの半生で見てきた中で、一番美しいと思える涙をこぼす。
見とれているうちに、ようやく理解が追いつく。
ああ。ゆうは、気に病んでいたのだ。自分が他の子どもと異なることに。〝ほんとうじゃない〟のは、私ではなく、ゆう自身を指していたのだ。
共同体の中で、自分一人が異なるということは大きなストレスとなる。幼ければ、その理由は自分にあると、自分自身を責めてしまうかもしれない。思えば、彼女の出自の家庭環境も複雑で、もしかしたら、父親と血が繋がっていなかったことで何かあったのかもしれない。
一方の私は、子どもたちと接する保育士の先生や、お迎えにやってくる親たちを羨んでいた。その〝ほんとう〟の関係性に憧れていた。ゆうはそんな私の気持ちを感じ取っていたのかもしれない。
でも、違う、違うの。これだけは誤解しないで。他の子どもが羨ましかったわけではない。ゆう、あなただけが必要で、ほしいのはあなただけ。私があなたの〝ほんとう〟になりたかったの――
想いを言葉にできず、私はゆうを抱きしめた。情けなさに泣きたいのは私の方だった。どうしてゆうが泣く必要があったろう。この子を追いつめたのは、結局、できそこないの大人である私なのだ。
抱き締めながら、彼女の小さな頭を撫でる。つやつやのおかっぱ頭だ。うっとりするほど、美しい黒髪。
彼女がいつも被っている黄色い園帽子は、私の足元に落ちていた。さっきガラス片から庇った時に落ちてしまったのだろう。
そう、問題はこの帽子だった。卒園式は室内の催しで、園帽子を被っているわけにはいかない。いくらなんでも、周囲に気付かれてしまう。今まで顔を隠してくれていた園帽子だけれど、卒園式においては仇となってしまうのだ。そのことを、きちんと説明しておくべきだった。
卒園式で思い出し、ゆうの身を軽く離し、近くに落ちていた紙袋を拾い上げる。渡そうと思い、持ち歩いていたそれ。ついでに、その隣に落ちていた黄色いお花飾りもつまみ上げる。粘着力が弱くなっているものの、裏に両面テープがまだ残っていた。そっと、ゆうのスモックの上に付けてやる。即席の黄色いコサージュは、ゆうによく似合っていた。
不思議そうな面持ちのゆうに、私は紙袋から一枚の紙を取り出す。
「卒園証書授与、三田ゆう」
それは他の卒園児のものと一緒に作った卒園証書だった。さんざん名字をどうするか迷ったのだけれど。
気恥ずかしさを押し隠し、格式ばって証書を読み上げる。
「あなたは、さとの保育園での課程を修了したことを証します。よくがんばりました。おめでとう」
きょとんとしていたゆうだったが、以前に私と練習したとおりに、ぴんと伸ばした腕で証書を受け取り、一度高く掲げて脇に挟み、くるりとこちらに背を向ける。
気のせいだろうか。その背がずいぶんと大きくなったように感じられた。年長の中では随分と小柄に見えていたけれど、今はさほど小さく感じられない。子どもでありながら、少し大人になった不思議な姿に、胸を衝かれるような感慨を覚える。
ゆうは数メートルほど足を高く上げて行進して、途中で方向転換して駆け戻ってきた。顔をほころばせて、三田ゆう、三田ゆう、と繰り返す。私は微笑み、帽子を拾って、ゆうの頭に載せてやった。
本当に卒園するならこの帽子は不要となるが、幽霊である彼女は園からは出られない。けれど、それで良い。来年も再来年も、ずっと私と一緒にこの『さとの保育園』で過ごすのだから。
私はもう一度ゆうを抱き締めた。ゆうも躊躇い無くしがみついてくる。かつて恋人と交わしたより、ずっと充足した、安心できる抱擁だった。
「でも、ゆう、大丈夫なの?」
小さな顔を覗き込みながら、私は尋ねる。今まで、ゆうは、正面から姿を見ようとすれば、たちまち消えてしまっていた。それがどうして今日は平気なのか。
「だいじょうぶだよ、おかあさん」
その言葉の全体の意味を捕らえられなかった。おかあさん。その一語に気を取られすぎていたから。だから、続く事態にも対応できなかったのだ。
「……何、しているんですか?」
前触れ無く開いた引き戸から顔を出したのは、伊勢崎先生だった。咄嗟に身動きできない。彼女はゆうを見て、目を丸くする。
「子どもは、全員帰ったはずじゃ、」
誰? と伊勢崎先生が呟く。
よりにもよって、伊勢崎先生が来るなんて。彼女は私が子どもと接触することを良しとしていない。ゆうのことはなんと取り繕ろう。全園児の顔を把握しているであろう、この有能な先生に。
――だいじょうぶだよ、おかあさんは。
吐息と共にささやきが落とされた。聞き返そうとしたその時、腕の中に、誰も何もないことに気付かされる。
いつの間にか、ゆうは私の腕を抜け出していた。あんなに強く抱きしめていたのに、どうやって。慌てて顔を上げれば、私の前に立ち、どこか大人びた微笑を浮かべるゆうがいた。
――だいじょうぶ。音には出さず、唇だけがもう一度その言葉を繰り返す。
そしてゆうは唐突に走り出した。伊勢崎先生の横を通り抜け、おゆうぎ室を飛び出す。
待ちなさい、伊勢崎先生はゆうの後を追いかける。私はといえば、呆気にとられてすぐには動けなかった。数秒遅れて二人の後を追う。
廊下へ出た時にはすでに二人の姿はなく、駐車場へ続くガラス戸が空いていた。外へ出たのだ。普通、ガラス戸は施錠した上で、防犯用の補助錠がほどこされている。子どもであれ、大人であれ、ワンアクションで出られるはずがないのに。これもゆうの力によるものなのか。
駐車場へ出ると、吹き付ける風の強さにたたらを踏んだ。もともと倒されていたのか、風で倒されたのか、物干し台がアスファルトの地面に伏している。
目を凝らせば徒競走に参加したなら一等賞間違いなしのゆうの後姿と、後を追う伊勢崎先生が見えた。私は全速力で駆け、息を切らした伊勢崎先生を追い抜き、ゆうを追う。
駐車場は危険だ。お願いだから戻って。何を考えているの。
落ち着いて考えれば、幽霊に物理的な事故など危険なわけなかったのかもしれない。けれどその時の私は、奇妙な切迫感に突き動かされていた。後になって思えば、それはある種の予感だったのだろう。
職員の車の影に回りこみ、ゆうの姿が死角に入る。追いかけるが、辿り着いた時には、もうゆうの姿はない。ただ黄色い花飾りが落ちていた。
視線を駐車場のさらに奥へと巡らせる。その先には生活排水汚濁浄化施設――緑色の溜池がある。
おゆうぎ室に閉じこもっていたため、正確な時刻はわからないが、辺りはすでに暗かった。日暮れにはまだ早いだろうけれど、嵐は周囲の景観を灰色に沈めていて、ひどく視界がききにくい。
駐車場と溜池は、高いフェンスで仕切られていた。子どもが飛び越えられる高さではなく、よじ登るにしても時間がかかる。だけれども私は見た。フェンスの向こうでほの黄色い光が揺れるのを。
同時に、水音が聞こえた。そんな気がした。
私は突進する勢いでフェンスに駆け寄った。そして我が目を疑う。緑の水面には、黄色い園帽子が浮かんでいた。まるで広い野原にたった一輪咲いた、季節外れのタンポポのように。
「ゆう!」
私は無我夢中でフェンスをよじ登り、黄色い帽子めがけて、溜池に飛び込んだ。
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