第9話

 卒園式は、まだ冬の名残を感じさせる薄曇りとなった。昨日のニュースでは、低気圧が発達して、春の大嵐となるだろうとの天気予報だったが、なんとか持ち堪えたらしい。弱弱しい陽射しではあるが、その冷たく凛とした空気は厳かな式に相応しかった。

 

 式の朝は慌ただしい。正門には立て看板を設置し、花を活け、隅々まで掃き清める。持ち物の確認や出欠席の電話応対をしているうちに、卒園児と礼装の保護者が登園し、続いて小学校の校長先生、地域の児童センターの館長や民生委員、そして市会議員など、来賓が次々と訪れる。この日は私もグレイのスーツを着て、来賓の対応に追われていた。

 そんな中、時折、黄色い色が視界をかすめるが、それは式に参列する年中児の園帽子だったり、卒園児の胸に飾られた黄色いコサージュだったり、私が待ち望んでいる子どもではなかった。式に出ることはできない、と言っておきながら、矛盾する情動だった。

 式が始まると私は出入り口に控え、遅れてきたり、気分が悪くなり中座したりする人の誘導に備えていた。実際にはほとんど必要のない役目ではある。式は粛々と進み、することも無い私の意識は子どもたちに向けられた。

 練習の時はそうでもなかったのに、今日は席に座っていられない子はおらず、みんな行儀よく着席していた。黒々とした頭の列も揺れず、乱れず、定まっている。

 ふ、と私は息を漏らした。この中に、ゆうがいたなら、と。きっと誰よりも姿勢正しく、座っているだろうに。

 卒園式に出られないと伝えた日から、私とゆうはまともに顔を合わせていなかった。もちろん、もともと顔は合わせられないのだけれど、二人きりで会えていなかったという意味で。

 喧嘩をしたわけでもない。ただ、年度末が迫りに迫り、他の先生たちも残業することが多く、私一人が事務室にいる機会が格段に減ったせいで、二人の時間が持てていなかった。それでも今までは、他の先生の目を盗み、机の下に隠れていたり、手紙を置いたり、そっと手を繋いだりしていたのに。卒園式の件で怒っているのだろうか。ともかく、式が終わって一区切りがついたら、ゆうとゆっくり過ごす時間を作りたかった。

 式はありふれた感動と苦労に彩られ、つつがなく終了した。卒園児は一度クラスへ戻り、担任の先生の最後のお話しを聞いてから、園庭で職員と年中児が立ち並ぶ花道へと向かう。拍手で迎えられ、彼らは胸のコサージュ同様、晴れがましい表情を浮かべていた。寒かったけれど、良い式だった。


 そして一通りの催しが終ると、各々、仲の良かった子やお世話になった先生たちを呼んでの写真撮影会が始まった。運動会では一緒に踊ったものの、ついぞ子どもたちと積極的に親しくなれなかった私は誰からも呼ばれることなく、事務室から園庭をぼんやりと眺めていた。

 やはり、ゆうは現れない。彼女に渡したいものがあったのだが。かたわらに置いた薄っぺらな紙袋は、ゆうのために用意したものだった。

 小一時間ほどして、午前までもっていた天気が下り坂になってくると、卒園児と保護者たちは三々五々に帰宅し始めた。風が吹き始める中、職員は片付けに向かう。設営の大変さに比べて、片付けはいとも簡単だった。

 卒園式の後は、毎年、職員の慰労会を行う。今日は乳児から年中まで延長保育はなく、仕事が終った職員は順次、慰労会の会場に向かう予定になっていた。


 私は戸締りと消灯の確認をしに、卒園式の会場となっていたおゆうぎ室へ向かった。椅子や飾りはもうすでに片付けられ、誰もいないホールは空虚だった。天窓から淡い陽射しが降り注いでいるが、ホール全体を明るくするにはいたらない。

 どこか閉め忘れの窓があるのか、ぴゅうぴゅうと風が抜ける甲高い音がする。

 私は一つずつ確認して、該当箇所を閉めた。窓の向こうでは、木々が踊るように風にしなり、ぶらんこがひとりでに高々と漕いでいる。遊具は紐で縛っておいた方が良いかもしれない。私はおゆうぎ室の出口へと向かった。

 途中、落ちた花に気付いた。片づけ忘れだろう。薄いペーパーで作られたお花飾りがホールの真ん中にぽつんと床に落ちていた。たんぽぽを思わせる明るい黄色。春の野花。優しい色。あの子によく似合いの。私はしゃがみ込んで花飾りを拾う。と。

 ふいに、背中に柔らかな重みを感じた。うたた寝をしていて肌寒かった時、毛布を掛けられたに似た感覚。いつか感じた温もりと同じく。


「……ゆう?」


 振り返ろうとした次の瞬間。顔に柔らかな何かが触れたと思ったら、まっくらやみに包まれた。いや、深いマンホールにでも突き落とされたような唐突な闇だった。

 一寸先もわからない。電気を消したとか、カーテンで光を遮ったとか、そんなレベルではなかった。しゃがみこんだまま私は、ゆう、と繰り返す。同時に、ぱしゃんっ、と何かを叩きつけるような音がした。多分、おゆうぎ室の引き戸が閉められたのだろう。

 背中の温もりはすでに消えていたが、確かにゆうのそれだった。間違えようがない。間違えるわけがない。

 ゆう、ともう一度呼びかけるが応答はない。ならば、これはあの子自身が仕掛けたいたずらに違いなかった。

 こんなことができるのかと疑わしくはあるが、ゆうは霊的な存在であり、園から出ることができない。そんな不可思議な力が作用しているのなら、逆にその力を利用することだって可能なのではないかと思えた。例えば、私をこのまっくらやみに捕らえることも。


「ゆう、出てらっしゃい。出てこないなら捕まえに行くわよ」


 むずかるように闇が震えた気がした。しかし、それだけで明るくはならない。


 ――むりだよ


 どこからともなく音がした。声、というにはぼやけた散漫としたそれ。闇が打ち寄せるような。

 無理? その言葉に眉根が寄る。どうして無理なのか。どういう意味なのか。


 ――ほんとうじゃ、ないから


 その一言に血が昇るのを感じた。私は勢い良く立ち上がる。

 立ち上がったものの、まったく視界がきかない中、直立歩行するのはなんとも心細かった。一歩踏み出し、二歩踏み出し、三歩目でつま先が何かにぶつかった。おそらくは舞台に上がるための段差だろう。思い描いていた位置と、実際にいる位置の誤差が大きい。だが、引き下がるつもりはなかった。

 段差に沿い、中腰になって、そろそろと歩き出す。ゆうはおゆうぎ室にいる。おゆうぎ室にいて、私を見ている。だから絶対に見つけなくてはならない。

 壁伝いにおゆうぎ室をぐるりと回るが、ゆうには行き着かない。壁を離れておっかなびっくり、部屋の真ん中へと進む。はたから見ればひどく滑稽なことだろうが、他に方法がなかった。


 しばらく歩き回り、神経を研ぎ澄ますのに疲れて足を止めた。

 ふと、気を張っていたばかりに、かたく目を閉じていたのに気付く。目蓋をゆっくり押し上げる。当然というべきか、視界はまっくらで、ちょっとの間、自分自身、目を開けているのか閉じているのかわからなかった。

 闇に目が慣れたのだろうか。少し経ってから、暗闇の中、ほの黄色い光が浮かんでいるのに気付いた。

 ぽつねんと、たった一粒。真っ黒なシャツに誤って漂白剤の原液をこぼしてしまったように。あまりにちっぽけで、遥か遠くに感じられた。山奥で見つけた人家のように、五等星に満たない星のように。落ち着いて考えれば、おゆうぎ室の中なのだ。そんなに離れているはずがない。けれどその時の私には彼方に感じられた。だけども、確かにそれは在る。

 私は光に向かって歩き始める。小さいけれど見失わない。だってそれは光だ。隠そうとしても漏れ出てしまう。

 そう、私にとってあの子は光そのもの。他の一切が見えない闇の中だからこそ、そんなシンプルな答えが浮き上がってくる。

 私は仕事を失い、恋人と別れ、再就職先ではうまくいかず、打ちひしがれていた。当時は自分で自分の状態がわかっていなかったけれど、闇夜を彷徨っていたようなもの。けれど、ゆうが現れたから、私はぬくもりを、やわらかさを、季節を感じられるようになった。幽霊が光だなんておかしな話かもしれない。けれど、私にとって真実に違いない。


 ――こないで


 その言葉は意味とは裏腹に、ゆうへと向かう道標となる。歩いていた足が、早歩きになり、小走りになり、そして駆け出す。


 ――こないで!


 その言葉を無視し、トンネルから飛び出る心地で、私は光へと精一杯手を伸ばした。

 同時に、上方から何かが割れる甲高い音がした。風で物が飛んできたのか、それともゆうの力によるものなのか。暗闇の中、きらきら光るガラス片が降り注ぐのが見て取れた。

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