第7話
一月、二月と足早に過ぎ、三月を迎えて本格的な卒園式の準備が始まった。
私は今度こそ、ゆうを行事に、すなわち卒園式に出席させようと息巻いていた。運動会の二の舞にはなるまいと心に誓う。もちろん、本物の園児ではないゆうが本当に卒園できるわけではないが、私は彼女に短い人生で途絶えてしまった保育園生活を全うさせてやりたかった。
園長先生から名を呼ばれ、卒園証書を直接受け取るのが難しいとしても、式には出席して、その後で卒園証書を渡すことはできる。卒園証書は私がパソコンを使って年長全員分の証書を印刷する予定なので、ゆうの分を用意するのは容易い。去年、式の進行を手伝ったので、大体の段取りもわかっている。早いうちに進行表や合唱曲の楽譜をコピーして、リハーサルすればきっと不可能ではないのだ。
大河の流れは一見緩やかで、動きがわからない。けれど着実に河口へと近付いている。それは時の流れも同様だった。毎日の仕事をこなしながら、同時に年度末、新年度の準備を進めていく。ゆっくりとではあるが、時は確実に流れていた。
年度末近くになると卒園、入園、進級に向けての準備の他に、もう一つ忙しくなるものがある。一時的に子ども預かる一時保育事業だ。さとの保育園では動物の名を割り当てた在園児クラスの他に、一時保育の「いちご組」がある。通常は仕事や出産などのやむ得ない事情で利用する場合がほとんどなのだが、この時期、来年度の入園が決定している子に少しでも園生活に慣れさせようと一段と利用者が増えるのだ。
その日も、いちご組では初めて一時保育に来た子が数名いた。お昼寝の時間になると先生たちは交代で休憩をとるのだが、寝付きが悪いのか、いちご組の担任の先生たちはなかなか保育室から出てこない。
私は焦れていた。いちご組の担任である浅利先生の印をもらい、至急会社にFAXしなくてはならない書類があったのだ。タイムリミットが近づき、本来、保育中なのだから控えるべきことではあったのだが、私は印をもらいにいちご組に出向いた。
お昼寝中のため、保育室は照明を落としてあり、薄暗い。できる限り静かに引き戸を開けると、案の定、泣き声が聞こえてくる。浅利先生は中堅の先生であり、園に来る回数もメンバーもまちまちないちご組ではあるけれど、素人目にもうまくまとめていた。が、今日のメンツはなかなか手強いようだ。いつもならとっくに寝入っていなければならない時間、浅利先生はまだ掛け布団をぽんぽんと軽く叩き、寝かしつけている。もう一人のパートの先生が見あたらないのは、子どもをお手洗いに連れていっているのだろう。空っぽの布団が二組あった。
浅利先生、すみませんが印鑑を――、と書類片手に小声で呼びかけながら入室したその時。
うずくまる何かがいて、予想外の障害物にとっさに大股を開いて避けるが、大きくバランスを崩して床に膝をついてしまう。手から書類がひらりと逃げて、床に滑り落ちる。と、脚にたふりとした重みがかかり、逆に転倒を免れた。。同時にぐすぐすと鼻を鳴らす音と湿った気配が間近で感じられた。
視線を向ければ髪を二つに分けてしばった三歳ぐらいの女の子が、木の幹にしがみつくようにして私のふくらはぎをつかんでいた。どこか痛い思いをさせてしまったのかと、慌てて顔をのぞき込む私に、浅利先生の低く押さえた声が届く。
「かのんちゃん、一時保育初めてで、半日泣き続けているんですよ」
ママがいないおうちに帰ると、今度は私の腕をつかんで引っ張り扉へと向かう。家に帰りたいが、一人で外には出られない。だから自分という大人に連れ出してもらおう――そんな筋道立てての行動なのかわからないけれど、たった三歳の本能とも呼ぶべき実行力に驚いてしまう。けれど、このままかのんちゃんに流されて一緒に部屋を出るわけにはいかない。なにしろ、私は子どもと接する資格を持っていないのだから。
しかし、それをかのんちゃんにどう説明すれば良いのか。まさか、子どもアレルギーだからと無理だと言うわけにもいかない。
私は床に正座を崩したように座り、腰を屈めて、視線の高さを同じにして言う。
「ごめんね、私は一緒には行けないの」
言葉を理解したのか、ニュアンスを感じ取ったのか。
まるで火の玉だった。かのんちゃんは一向に動こうとしない私の膝を、顔を真っ赤にして叩く。うあ、ああ、あー、とまさしく言葉にならない言葉をあげて。
「だめ、やめて、かのんちゃん」
ぶつけられた手を押し止める。その手は温かいを通り越して熱かった。子どもというのはこんなにも熱いものだったか。私は今更ながらに驚いた。ゆうの体温はいつも心地良く、ぬるま湯に浸かるような安らぎがある。こんな暴力的ともいえる熱を私は知らない。
しまいにかのんちゃんは私を叩きながらも膝に顔を押しつけて、本格的に泣き出した。涙も鼻水もよだれも擦り込むようにいやいやと顔を振る。その湿った熱に為す術なく、せめてとおそるおそる背中を撫でることしかできなかった。
「……なにしてるんですか?」
落ち着いた声音と共に引き戸が開けられ、熱せられた空気が外へ逃げる。
「きょうこ先生、すいません」
浅利先生の声に振り仰げば、戸口にきょうこ先生――先生同士は子どもたち同様、名前で呼び合うのが慣例だ――すなわち伊勢崎先生が立っていた。おそらくはまだ休憩がとれていない浅利先生の代わりに来てくれたのだろう。伊勢崎先生は今年度、二歳児の担任だった。年度末、二歳児の担任は他の年次に入ることがよくある。国が定めた保育士の配置基準があり、一、二歳児は子ども六人に対して保育士一人だが、三歳児には二十人に一人と、格段に一人がみる人数が増える。それをいきなり四月から実施しては無理があるため、二歳児は徐々に担任を減らして慣れさせていくのだ。その分、二歳児の担任はフリーとなって、他のクラスのヘルプや新年度準備に入るのだった。
「遅くなってすみません。〈くじら組〉で嘔吐した子がいて」
言いながら伊勢崎先生は、私の膝元で丸まって泣いているかのんちゃんを楽々と引き剥がして抱き上げる。と。
「この子、熱があるんじゃない?」
首筋と額に触れ、伊勢崎先生は顔を曇らせた。体温計どこ? と浅利先生に尋ね、ぐずるかのんちゃんを布団に運び、後ろから抱き抱えながら、手早く脇に体温計を挟む。
てきぱきと先生たちが各々の役割分担をして動く中、私はただ呆然とその様子に見入っていた。
かのんちゃんの熱を体調不良とはまったく結びつけられなかった。私は保育士ではなく、プライベートでも身近に子どもはいない。ゆうを除いて。だから子どもの変化に気付けない。それはそうなのだが、むしょうに自分が情けなく、申し訳なかった。
「三田さん」
伊勢崎先生に呼ばれ、私は正気づく。
「この子は、こちらで看るから大丈夫です」
責めるでもなく、怒るでもない、ただただ硬い声。内容は違うが、かつて聞いた台詞と口調がだぶる。
〝――わたし、彼女の友人なんです〟
「熱があることだけ、園長先生と主任先生に伝えておいてください」
伊勢崎先生はかのんちゃんに目を落としたまま、やはり硬い声音で続けた。私はその言葉にただ頷くことしかできなかった。
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