第5話

 乾いた風が心地良く、赤とんぼが園庭を舞う季節が来ると、園は運動会一色となる。

 子どもたちも演目であるダンスの練習に励み、ゆうもその中にまぎれて踊っていた。

 ゆうの姿はどんなに遠くても一目でわかる。年長さんの中でも特に小柄ではあるが、私はすぐに彼女の姿を見つけられた。ゆうが被る黄色い帽子は、もちろん他の子と同じデザインなのだけれど、わずかに色合いが違う気がした。もしかしたらたんに色褪せているだけかもしれない。けれど少なくとも私にはほんのりと光を放ち、浮き上がるように見えていた。

 ゆうは今時の子らしくなくダンスが得意ではないのか、他の子に比べて、どうもワンテンポ遅れてしまう。目立って先生たちに気付かれてしまうのは考えものと、まずは私が覚えてゆうに教えることにした。

 年長の先生の引き出しから振り付けのプリントを拝借してコピーし、暗記する。男性人気グループのポップスに合わせ、小旗を持って踊るのだが、なかなかどうして難しい。暇を見つけては練習して、誰もいない事務室で残業をしていたある日も、ファイルを取りに席を立ったついでに踊ってみた。と。


「三田さん、フリ完璧じゃないですかー」


 唐突に声を掛けられ、私は死ぬほど驚いた。振り返れば、早番でとっくに帰ったはずの河先生がいた。明日は土曜日の振り替え休日で、明後日は早番のため、予備の鍵を取りに来たのだと言う。今日の帰りに持っていくはずが、うっかり忘れてしまったのだ。

「三田さんて、実は子ども嫌いじゃないんですねー」

「ええ?」

 河先生の妙に間延びした言葉に、私はヘビでも踏んだみたいな声を上げた。ダンスの練習をしていただけで、まさかそんな飛躍したことを言われるとは思わなかった。けれどむきになって言い返すのもおかしく、かといって頷くこともできず、ぽかんと河先生を見つめ返す。

「なのに〝子どもアレルギー〟って、切ないですねー」

 ケーキを食べたいけれど小麦や卵のアレルギーを持っている子、みたいに言われて、ますます困惑してしまう。

 河先生は鍵を受け取ると、ミッキーマウスやキティやトトロの人形をじゃらじゃらとさげたナップサックにしまい、じゃあお先ですー、とさっさと事務室を出て行ってしまった。未だ、困惑しつつ、動揺で鼓動が早くなっている私を置いて。


 明後日、園長先生に呼ばれ、年長のダンスを踊ってみてくれない、と優しいけれど有無を言わせぬ口調で命じられた。なんとか断ろうとしつつも結局は一通り踊ってみると、年長さんのダンスの練習時、前に出て踊るようお願いされた。手本として前で踊る大人を一人置いておけば、その分、担任の先生は個々の指導や全体のバランスをみられるというわけだ。上司の『お願い』を断れるはずもなく、練習に毎回参加していれば、成り行き上、本番も年長児とおそろいのTシャツを着て運動会に参加することになる。

 運動会当日は、駐車場の整理、来賓の対応、保護者の誘導、ダンスの監督で目の回る忙しさだった。そんな中、合間合間にゆうの姿を捜したが、ほの光る黄色い帽子は見つけられなかった。

 運動会後は職員間の打ち上げがあり、ある種の一体感と心地良い充足感を感じることができた。親子競技で子ども以上に白熱する保護者、ダンスの入場中にトイレに行きたいと訴える子、手に汗握るリレーの接戦……小さなトラブルも子どもたちの勇姿も共有できて、初めて保育士の先生たちと打ち解けて話せた気がした。アルコールの手伝いもあって、正直なところ、私はかなり浮かれていたのだ。


 酔いが醒めたのは、打ち上げからの帰り道、駅に向かって歩いている時だった。一緒に歩いていた先生たちは、子どもたちの運動会での様子を語っていた。緊張のあまり逆走してしまった子、本番でようやく成功したバトンパス、それぞれの年次のダンスが衣装を含めてたいへんに可愛いらしかったり、凛々しかったりしたこと。私もつい、ゆうが練習を重ねて、どれだけ上達したかを自慢したくなる。あの子は本当に上手になった。最初のうちは人が踊るのを真似るからどうしても遅れがちだったのが、だんだんと覚えて、たった一人でも最初から最後まで通して踊れるようになったのだから。そこで思い出す。

 そもそも、なんのために、誰のためにダンスの練習を始めたのだったか。

 目の前で風船が弾けた、そんな心地だった。一緒に駅に向かって歩いていた先生たちに店に忘れ物をしたと断り、来た道を戻る。最初歩き、だんだんと早足になり、ついには駆け足となる。


「ゆう!」


 保育園の鉄門に、私は縋り付くように駆け寄った。時刻はすでに午後九時を回っており、園はとっぷり闇夜に浸かり、日中の賑やかさは嘘のように静まり返っていた。

 ゆう、ゆう、と呼ぶが応答はない。門にはナンバー式のチェーンキーが掛かっていて定期的に番号を変えるのだが、私は十月に入ってからのナンバーを確認していなかった。乗り越えようか、と一瞬考えるが、それこそ酔っ払いの所業で、そんな場面を見られたら通報されかねない。

 私は嘆息して、門に背を預け、ずるずるとくずおれるていで体育座りをした。疲労と眠気と酔いで立っていられない。この醜態を保護者に見られるのはそれはそれで問題だが、幸い、人通りの無い静かな夜だった。


「ゆう、ごめん……」


 門に背を預けて空を仰ぐ。秋の夜空は澄んでいるけれど、どの星も自己主張が強くない。その控えめで透明な輝きは誰かを彷彿させる。

 数十分も経過しただろうか。首筋に温かな何かがふれて、眠りの淵に沈み込もうとしていた意識をふうっと浮かび上がらせた。私は半ば寝ぼけながらも首に手をやると、小さな温かな手が絡みついてきた。わずかに首をそらせ、街灯に透ける小さな白い手に、私は囁く。


「ごめんね。ゆう。こんな……」


 こんな、――――で、ごめんね。


 そんな台詞を吐き出してしまったのは、きっと多分、酔いが回っていたせいなのだろう。

 誰かの手がそっと頭を撫でてくれる。鉄柵越しの優しい愛撫。懐かしいような、泣きたくなるような、遠い日を思い起こさせるその甘やかな感触に、私は身も心も委ねた。

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