キリノ
九里須 大
序章
いつもと変わらぬ朝が来た。
空の青と海の碧、草の緑と花の色。
全ての物が、太陽の光を浴びて目を覚ます。
潮の香りが混ざった風は、丘の上の小さな家にも届いていた。煙突のある西洋風の木造家。玄関前のデッキにはテーブルと椅子があり、老婦人が景色を眺めながら紅茶を飲んでいた。
見上げる老婦人。
「あちらの空が、何だか騒がしいねえ」
誰に言うでなくつぶやく。
彼女は毎朝ここで空の様子をうかがっていた。どうやら今朝はいつもと違うようだ。ふと、ティーカップの動きが止まる。誰かが丘を登って来る。
老婦人はカップを置いて肩のショールを整える。
「珍しい客が来たね」
顔も分からない程離れているが、彼女にはそれが誰か分かっているようだ。
テーブルを指差す。
すると、もうひと組みのティーカップが現れる。
椅子ももう一脚増える。
やがて、人影は丘を登りきった。
「やあ、アンナ。元気そうだね」
そう言って、来客は遠慮なくデッキに上がった。
ロングコートを着た三十代くらいの男性だ。彼は平然と椅子に座って、目の前のカップに紅茶を注いだ。
「相変わらず良いお茶飲んでいるね」
男性は香りを楽しみ一口飲む。次は舌で香りを楽しむ。
「あちらの空が騒がしいのは、お前のせいかい?」
老婦人、アンナが彼に尋ねた。
彼は紅茶をもう一口飲んでから、
「少し違うけど。まあ、僕のせいかな」
曖昧な返事をする。
それよりさあ、と彼は話を切り出す。
「いつから趣味が変わったの?僕が居た頃は秋か冬ばかりだったのに、なに、この爽やか感は」
彼の言葉に、アンナは鼻で笑う。
「長いこと生きていれば趣味も変わるさ」
そういうお前だって、と言ってアンナは彼の顔を見る。
彼の右目は黒い眼帯で隠れていた。
「ああ、これ。最近かなり酷使したから休ませているんだよ」
アンナの表情が変わる。
「あまり無理するんじゃないよ」
彼女の言葉に、今度は彼の表情が変わる。
「あれ。勝手に家を飛び出した弟子を心配してくれるの?」
「デキの悪い弟子ほどカワイイもんさ」
顔を見合わせ笑う二人。
しばらく朝日を浴びながらのティータイム。彼がアンナの紅茶を注ぐ。交わす言葉はなくても、二人の間にはそれ以上のつながりがあるようだ。
先に切り出したのは彼の方だった。
「実はさあ、今日は頼みがあって来たんだ」
彼は続ける。
「少し先の話なんだけど、紹介したい人がいるんだ」
アンナはカップを置いた。
「もう弟子は取らないよ。お前が最後だって決めてたんだ。今まで十分働いたし、ゆっくりと老後を楽しみたいんだ」
よそをあたりな。
再びカップに手を伸ばす。
彼女の言葉に、困った顔の彼。
「僕の家系に、もう一人現れそうなんだ」
アンナの動きが止まった。
「同じ時代に二人目かい?」
彼は右目の眼帯をさする。
「本人はまだ自覚がないようだけど、コレがうずくんだ。呼んでいるっていうか、共鳴しようとしてるっていうか。で、頼めるところといえば、アンナしかいないと思ってさ、久々に来たわけ」
事は重大そうだが、彼の口調は軽い。
アンナはため息をついた。
「やれやれ。十年ぶりに弟子が顔を見せたと思ったら、厄介事の押しつけとはね」
彼は肩をすくめる。
「ま、本人がどちらを選択するか、それはまだ分からないけど」
アンナは紅茶をすする。顔には出さないが、頭の中では色々な思考がめぐっている。ふと、まだ少年だった彼が、大きな雪だるまを作って自慢していた記憶が蘇る。彼女にとって百年などつい最近の事なのに、その記憶はとても懐かしく感じられた。
嘆息。
「カワイイ弟子の頼みだからね。引退は先延ばしにするよ」
アンナの言葉に、彼はニコリと笑う。
「ありがとうアンナ。よろしく頼むよ」
さて、と彼女は椅子から立ち上がる。
「これから朝食だけど、お前も食べるかい?」
彼の目が、少年の様に輝く。
「もちろんだよ。それが食べたくてこの時間に来たんだから」
「じゃあ、手伝っておくれ」
手招きするアンナ。
二人は家の中へ入る。少しして入口からアンナの腕だけが現れる。
指を鳴らすと、テーブルのティーセットが音も無く消えた。
鏡の前で、どれだけ自分の顔を見たか。
高校に入学してまだひと月。恋に勉強に、青春を謳歌するぞ。そんなこれからって時に、いきなりコレは無いんじゃない。
彼女の左目には眼帯。
二日前、突然左目に痛みを感じて病院に行ったら、原因不明の目の炎症だと診断された。
しばらく様子を見ましょう。
病院の先生にそう言われ、薬と眼帯を渡される。
原因不明ってなに?
これだけ医学が進歩しても、まだ分からない事があるの?
鏡の前で、何度目かのため息。
その時、部屋のドアをノックする音。
「あかねちゃん、そろそろ行かないと遅れるわよ」
はーい、と返事をしてカバンを持つ。
ドアを開けるとママが立っていた。私を見て、心配そうな顔をする。
「行きたくないなら休んでもいいわよ」
私は無理に笑顔を作る。
「ううん、大丈夫。痛みもないし、平気だよ」
ママに心配はかけたくない。
この家に来て六年。本当の子供のように接してくれる彼女に、何処かで気を使ってしまう私。
そう、私はこの家の子ではない。九年前、交通事故で両親を亡くした。同乗していた私は、奇跡的にほぼ無傷で助かり、母の妹夫婦に引き取られた。病気で子供ができない体だった彼女は、私をとても大切に育ててくれた。
本当に感謝している。パパもママも大好き。
だけど、今だに事故の時の記憶が私を縛り付けている。息を引き取る前に、本当のパパが言った言葉。それが私と妹夫婦の間に壁を作っている。
ごめんよ。私はもう、あかねを守ってやる事ができない。後は彼に、『せつな』に全てを託す。時が来たら、自分で選択しなさい。
この言葉の意味を、私はもうすぐ理解することになる。
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