Ⅴ.2017年11月16日 夜
1
横倒しのまま、随所に落書きが施された土管。表面に錆が浮き上がった、ドラム缶の山。それらガラクタの間を縫って、カランコロンと下駄の音が響く。
照明がなければ闇が支配する午後十時過ぎという時間帯も、彼女の障害にはならない。夜目の効く幻獣が障害の位置を正確に教えてくれるし、昨夜とは異なり愛息は家にいる夫に預けてある。
開発途中で頓挫した武蔵ヶ原工業団地跡――当時計画を強引に後押ししていた甲栢組も、高霊素濃度が引き起こす怪火で頻発する不審火には抗し得なかったのだ。
もしも甲栢組が母に相談していればという想像を、苦笑と共に打ち消す。開発が計画された十年前、武蔵ヶ原における弥嶽家の威光は既に名誉的なものだった。
闇に溶けるような漆黒の着物を纏った弥嶽庵美は、セメント工場だったと思しきパイプ塔の下で歩みを止める。
ゆっくりと、あたりを見回す。十九年前には商店街の大通り口があった場所なのだが――名残が微塵も見られないのは、光源が月明かりのみという理由だけではないだろう。
だが庵美は、場所を違えているとは思わない。隣接区画から感じられる霊素の乱れは、そこが霊力炉が封じられたあの場所であることを示している。
「やはり、あなたですか」
不意に聞こえた声。
歪に折れ曲がったゲートバーの脇に立つ人影が町村甲次郎だと確認し、庵美はタンに小さく頷く。夫よりも長く連れ添っている増幅器は彼女の意を過たず、気創闘衣を形成する。
外見上の変化はない。今夜彼女が着付けている着物は、闘衣と全く同じデザインで特注したものだからだ。ただ夜に紛れるだけだった黒地が若干ながら浮き上がり、胸元と帯に施された紅い刺繍が淡く輝く。
「お久しぶりです、コウさん」
「できれば会いたくありませんでしたが」
そういう正直な所は変っていないのだなと、微かな可笑しみを覚える。
あの頃の庵美は彼の実直さを、幾ばくか煩わしいものと捉えていた。
今にしてみれば、同族嫌悪だったのだと思う。
「もう、止めませんか?」
「できませんよ」
庵美の言葉に、甲次郎は首を振る。
その顔に浮かんでいる、意外そうな表情――彼女の問いを、不思議がっているのだ。止められるはずがないことくらい分かっているはずなのに、何故今更そんなことを言うのか。
それでも彼を前にして、庵美は言わずにいられなかった。
その躊躇いは、きっと弱さの証。
だから自らを嘲るような微笑を庵美は一瞬だけ浮かべ、それを着物の裾で拭うと改めて甲次郎に向き直る。
「分かりました、無粋を犯すのは止めにしましょう。ミズホもそちらに?」
「ええ」
何故か、少しほっとしたように頷く甲次郎。その違和感を吟味する前に、促す様に上げられた彼の視線を追った庵美は、パイプ塔の中段に佇む久間瑞穂に気付く。
既にスウェットスーツに似た黒の気創闘衣に身を包み、右手に増幅器であるイツデを填めている。
完全に戦闘態勢を取っている彼女に庵美も身構えようとして――その虚を突いて甲次郎は、足元の魔方陣に施されていた偽装を取り払う。
露わになったその陣に、庵美は顔を強張らせた。
一朝一夜では決して記せない、複雑に絡み合っている術式と幾何学模様。その構成が何を目指しているものか、庵美は探るまでも無く理解できた。
細部にこそ差はあるものの、基礎演算部と込められた願いはかつて自分が構築しようとしていたモノと寸分の違いなく――
「落ち着け」
気を呑まれて蒼褪める庵美を、首元のタンが叱り付けた。
「まだ、発動してはいない」
「分かって――います」
久しい彼の叱責で、平静を取り戻す。けれど既に魔方陣の構築を既に終えられている以上、こちらに時間的猶予はない。
だから庵美は己が力を、逡巡せずに行使する。
「ココア、チョコ、ワカメ――お願いします」
庵美の影から、キシキシという音と共に蜘蛛の脚が隆起する。
駆け寄ってきた仔猫が毛を逆立てて四肢を伸ばし、口から牙を剥き出しにする。
着物の懐から飛び出た緑の膠化体が見る見るうちに増殖し、ヘドロ状の塊が意志を持って畝り立つ。
本性を表に曝け出した、三体の幻獣――更に、それに倍する数の憑獣が廃工場に顕在化する。
幻獣と憑獣の唸声が、団地の向こうから響いてくる大排気量バイク複数台の走行音に入り混じった。
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