秘密の笑顔、笑顔の秘密

黒井羊太

笑わない桑折さんと笑う天道君

 とても有名な話だが、桑折一笑こおりかずえさんは笑わない。そりゃあもう、くすりとも笑わない。微笑みすら都市伝説だ。だけど、マジメでとてもいい人だ。頼み事をすれば断ることなくやってくれる。気が利くし、勉強も出来るし、文句の付け所がなかった。高い身長に長い髪。少し色白な肌をしていて、男女ともに人気が高かった。

 これもとても有名な話だが、天道昇太てんどうしょうた君は良く笑う。そりゃあもう、大声上げて。笑わない日を見ない程だ。そして、とてもいい人だ。頼み事をする前に、笑いながら近づいてきてやってくれる。勉強はちょっと苦手だが、いつだってクラスを盛り上げてくれる。低い身長に短い髪。少し焦げた肌色をしていて、男女ともに人気が高かった。

 そんな対照的な二人は中学校の隣の席同士。席替えで決まっちゃったからしょうがない。一年間、席替えはないので、一年間、この不思議な光景は続く事になる。


「桑折さーん、ちょっとお願いしてもいい?」

「桑折さん、ここ教えて~?」

 クラスメイト達は、何かと桑折さんを頼る。桑折さんはマジメなので、なるべく応えようとする。

「いいよ。何?」

 驚く程の素っ気ない態度。最初こそこの素っ気なさに皆驚いたが、ちゃんと観察するにつけ、愛想がない、というのではなく、ただ笑わないだけ、と言う事に行き着いて、皆普通に接するようになった。実際、多少の無茶なお願いであっても桑折さんは応えてくれるし、とても良くしてくれる。

「ありがと~!」

「ん」

 返事も素っ気ない。けど、誰も気にしない。何、ちょっと笑わないだけなのだ。

 とはいえ、笑わない子があれば、笑わせてみたくなるのが人情というもので、いつの頃からか、自然と毎週水曜日のお昼休みに「桑折さんを笑わせる大会」が自主的に開催されるようになっていた。

「では! 今週も張り切って行ってみましょう! 桑折さんを笑わせる大会ぃ! レディー・ゴー!!」

 司会の鹿田君の声に、ワァっと教室が盛り上がる。この時になると、他のクラスからも見物客が溢れ、廊下まで人混みが出来上がる。

 桑折さんは窓際の自分の席から参加者の挑戦を真剣な表情で見る。両手両足を揃え、一分の隙もない模範的な座り方。マジメな気性から来ているそれは、凡そこの大会の趣旨にはそぐわない態度であった。

「一番! 隣のクラスの近藤君!」

「はい! やるぜー!」

 呼ばれた子、近藤君は人混みから颯爽と登場し、桑折さんの前に立つ。

「一番! 近藤! 理科の中島のものまねします!

『え~、これがいわゆるぅ、質量保存の法則でぇありますぅ』」

 どっと場内が湧く。なかなかの仕上がり、誰が聞いてもそっくりであった。

「いいぞ~!」「似てる~!」「後で先生に言いつけとくな~」

 観客からはかなりの高評価!さて、桑折さんは……!?

 場内の皆がバッと視線を送ると、

「すごーい! 似てた似てた!」

 桑折さんは心底驚いた顔をして、パチパチと小さく拍手をしていた。

 何と皮肉な話か。近藤君のものまねはクオリティが高すぎた故に、それは『笑い』ではなく『驚き』になってしまったのだ。しかしそんな可愛いリアクションの桑折さんに、近藤君のハートはバキューンと撃ち抜かれていた。もう彼に出番はないが。

「近藤君、残念! またどうぞ~。では次! 田中君!」

「うっし! やるぞ!」

 次に出てきたのは柔道部の田中君。その服装は、水泳パンツ一丁だ。

 きゃー!っと女子達の悲鳴。男子達からのブーイング。

「「かーえーれ! かーえーれ!」」

 大合唱である。満場一致で退場させられる。「放せ! 俺はまだ何もしていないぞ!?」とか騒いでいたが、真っ赤な顔を両手で覆う桑折さんを見れば、致し方ない処置であった。

「え~と……残念でしたっ! さて次の方……うわ、何をする!」

 鹿田君を女の子達が押さえ込む!鹿田君は抵抗しているように見えるが、女の子達に両手両足を押さえられているその状況、若干まんざらでもなさそうだった。

 ふぁさり、と目にかかる程伸びた前髪を掻き上げながら優雅に人混みから現れた男の子。彼は……!

「君たちでは埒があかない。大体、女の子を笑わせようと言うのに、低俗なギャグばかりやっているのが信じられないよ」

「お、お前は女ったらしの御手洗!」

 キャー!と黄色い声援が上がる。それを背に受けて、御手洗君はフッとキザに笑う。イケメンとして知られる彼は、多くの女生徒のファンを抱える学年のアイドル的存在であった。その彼の指示で女の子達は鹿田君を押さえ込んでいたのだ。

「女の子の扱いというものを教えてあげよう!」

 ゆっくりと桑折さんに近づく。果たして……?

 桑折さんはと言えば、きょとんとした顔で、彼を見ている。

「桑折さん……いや、一笑さん! 君はどうしてそんなに美しいんだ……」

 跪きながらのキザな台詞。黄色い声援と、男連中からのブーイングが教室に鳴り響く。

「『一笑千金』という言葉を知っているだろうか? ただの一笑みが千金の価値があるほどの美人という意味さ。まさに君にふさわしい言葉だ。

 誰にも見せない君の笑顔、その価値は万金、いいやそれ以上! 君が思っているよりも、君の笑顔はとても価値がある、尊いものなんだよ。

 どうかその素敵な笑顔を、僕に見せてはもらえないだろうか?」

 憂いを眼差しに含みながら、そっと手を出す。他の女生徒達の興奮は最高潮である。

 御手洗君は勝利を確信していた。これで落ちなかった女の子などいなかった。これでこの子もイチコロさ!

 そして最後の一押しの台詞を……!

「君には笑顔が似合う……! ほら、そっと微笑んで……」

 ところが当の桑折さんは怪訝な顔だ。

「私が笑った所を見た事がないのに、何故似合うって分かるんですか?」

「分かるさ! きっと似合うよ! ほら、微笑んで……」

「……いえ、遠慮しておきます。大体、横入りなんてずるっこ、ダメですよ。他の方に失礼です。最低ですね」

 御手洗君はプライドと共にその場に崩れ落ちた。


「大変だー! 女ったらしの御手洗がやられたぞ!」

「えーせーへー! えーせーへー!」

「大丈夫だ、しっかりしろ! 傷は深いぞ致命的だ!」

 ぐったりと倒れた御手洗君を男子連中が運んだ先で、勝手にコントが始まっていく。人混みの向こうへと行ってしまったので、もう何も聞こえない。

 一方場内では、男連中は胸がスカッとしたと大好評。女子達の間でも、桑折さんのマジメさが光る判定に好感度が上がっていた。

「え、えぇと……思いがけない乱入もありましたが、続けて参ります! 続いては……」

 きーんこーんかーんこーん……

 タイムアップを告げる鐘の音。クラス中に溜息が出る。

「残念! 今週も挑戦成功成らず! 来週こそ頑張りましょう! 桑折さん、審査委員長お疲れ様でした」

「お疲れ~!」「お疲れ様~」「お疲れ様ね~」

 桑折さんは少し困ったような顔で手を振る。

 これが桑折さんの日常風景である。騒がしい水曜日。『特別』扱いの水曜日。


 そんな毎週のイベントを、誰よりも楽しみにしている男がいる。隣の席の天道君だ。彼の笑いの沸点は恐ろしく低い。観客席側に立って、全てのネタで大声上げて涙を流しながら笑う。それにつられて周囲の皆も笑う。なんなら、ネタよりも天道君の笑い声の方が面白い時があるくらいだ。

「あ~はっはっは! ひー! ひー! もう止めてくれー! 死ぬー! あははははは!」

 笑い袋か何かのように笑う。それを聞いている方も笑ってしまう。

 天道君については、別に水曜日に限った話ではない。毎日こういった調子だ。誰かがふざければケタケタ笑う。先生がつまらない冗談を言えば、ゲラゲラ笑う。日常会話すら、笑わないとまともにこなせない。

「なあなあ! 昨日のTV見たか!?」

「見た見た! すごい面白かった! あっはっは!」

「ん? お前、何の番組見たんだ?」

「ん~? 何だっけ? あっはっは、忘れた~!」

 と言った調子である。これだけ笑われてしまえば、何かをマジメに指摘するのも馬鹿らしい。誰も彼もつられて笑ってしまうのである。一事が万事、こうなのだ。

「天道君見てると、何か落ち込んでても元気出るなぁ」

「そう? だったら嬉しいなぁ! あっはっは!」

「でも悩みとか無さそうよねぇ。羨ましいなぁ。はぁ」

「え~? 僕にだって悩みはあるさ! 例えば、え~と……何だっけ? あっはっは!」

「全然じゃ~ん! 嘘ばっか! あはは!」

 これが天道君の日常風景である。騒がしい毎日。誰かと笑いあう普通の毎日。



 そんな二人は隣の席同士なので、日直が回ってくれば当然日直を一緒にこなす。

 桑折さんはマジメすぎて日誌が真っ黒になるまで書いてしまうから、日誌は適当にこなせる天道君の役割。天道君は背が低いので黒板が消せないから、黒板消しは桑折さんの役割。自然配役は決まっていた。

「窓、そろそろ閉じなきゃ」

「あ、やっといたよ~!」

「そう、ありがとう。日誌出来た?」

「今出来たところ~! 出しに行って来るね~! ゴミ捨て、ちょっと待っててね~!」

 あっはっは~!と廊下に笑い声を響かせながら、職員室に日誌を出しに行く天道君。

 天道君は、勉強は出来ないが、やるべき事はササッとこなす。今日も日誌をいつの間にか仕上げ、終わらせている。その辺の能力において、桑折さんは天道君を信頼していた。マジメ、と言う事とはまた違うが、細かい所に気が利いて、何をするにも始める前には段取りが出来ているのでスムーズに事が運ぶのだ。

 また、約束を守る、と言う事に関してはいい加減な所がない。クラスメートとの小さな約束ですら律儀に守る。先日も鹿田君との会話で、「一緒に移動教室行こうぜ~」と誘われ、鹿田君は一旦トイレ行くから待ってて、と言い残し、うっかりそのまま特別教室に行くと言う事があった。天道君はニコニコしながら律儀に時間ギリギリまで待っていた。その後鹿田君が謝っていたが、天道君は全然怒りもしなかった。

 これに限った話ではなく、天道君が怒った所も見た事がないし、約束を破った事も見た事がない。感心する程しっかりしているのだ。この点においても桑折さんは天道君を信頼していた。あるいはただのお人好しなのかもしれないが。

 桑折さんは、一方でちょっと心配もしていた。天道君のあの笑いよう、頭のどこかがおかしいんじゃなかろうか。何故あんなにも笑うのか。彼は悪い人ではないが、全く笑わない自分には全く理解できなかった。


 さて、日直のほぼ全ての仕事が終わった。最後はゴミ捨てだ。日直は放課後、教室に二つあるゴミ箱をゴミ集積所に出しに行かなければならない。これは一人でやるには大変なので二人でせっせと運ぶ事になる。

 人気のない静かな廊下を二人でゴミ箱を持って進む。音が反響しやすく、昼間なら生徒達の声がうるさいくらいに反響している場所だが、放課後と言う事もあって異様なまでに静かだ。

 隣を歩く天道君は何もないのにへらへら笑っている。不思議な人だ。

桑折さんは、何とはなしに、前々から天道君について不思議に思っていた事を少し聞いてみようと思い、ゴミ箱を置いて問いかける。

「ねえ。天道君は何でそんなにいつも笑っているの?」

 桑折さんの問いかけに、不思議そうな顔で天道君は返す。

「ん? 笑うのに理由っているの?」

「笑うにしても限度があるでしょうに。天道君のは何て言うかすごい……病的に笑うじゃない?」

 言ってから、しまったと思った。幾らなんでも傷つける言動じゃないのか?そんな心配を一瞬したが、

「病的! 面白い言葉を使うね! ぴったりだ! あっはっは!」

 何と言う事も無かったらしい。それどころか逆にウケてしまった。廊下にでかい笑い声が反響する。

 桑折さんはいよいよ、天道君の頭のねじが何本か飛んでるんじゃないかと疑い始めていた。でなければ、説明が付かない。

 その気持ちが顔に出ていたのか、何かに気付いた天道君が逆に質問をぶつけてくる。

「ねえ、桑折さんはどうして笑わないの?」

 桑折さんは一瞬面食らい、戸惑う。思いがけない逆質問だ。相手は天道君。マジメに取り合うべきなのか?いや、でも……

「……笑わない?」

「それは保証できないなぁ。あはは」

「じゃあ教えない」

「ありゃりゃ、それは困るな。笑わないから、笑わないから」

 彼は一体どこまで本気なんだろうか。桑折さんには分からなかった。

 でも、天道君は悪い人ではない。約束は守る人だ。その天道君が笑わないと言うのだから、きっと笑わないだろう。

 桑折さんは、溜息一つついた後に、思い切って話し始めた。

「人間ってね、一生の間に笑える回数、とか、エネルギーが限られていると思うの」

 目を伏せたまま、桑折さんは静かに語り出す。天道君以外に聞く人の無い、誰にも話した事のない桑折さんの心の内。

「そのエネルギーを、少しも失いたくない、無駄にしたくないの。この体の、つま先から頭の天辺まで、細胞の隅々まで笑いのエネルギーを蓄積していたい。一滴も漏らさず、逃さず、この体の中を満たしていたいの。

 ……質量保存の法則って知ってる? 体の中から外へ漏れ出さない限り、ちゃんとずっと、体の中に残り続けるのよ」

 話しながら、桑折さんはちらりと天道君を見る。天道君は、約束通り笑わなかった。黙って聞いていて、そしてこれまで見た事のない真剣な顔で質問をする。

「そうして、どうするの?」

「そうして……人生の一番幸せな瞬間に、ありったけ全部、はき出すの。一生分の笑いを。頭の天辺から、ううん、髪の毛の先から爪先までの、あらゆる細胞に溜めた全部のエネルギーを。それはきっととても幸せで、人生の最高潮だわ。その日まで、私は笑わないって決めているの」

 桑折さんはそう答えた。静かな廊下に、再び一瞬の静寂が戻る。

――こんな下らない理屈、果たして誰がマジメに受け取るだろうか。

「笑う?」

 桑折さんの質問に、頭を振って答える天道君。

「いや、笑わない。そう約束したしね。それに、立派な哲学じゃないか」

 哲学。そういう風に言われるなんて、思ってもいなかった。こんな話を笑いもせずに真剣に聞いてくれる天道君が新鮮だった。

 こんな風に話を聞いてくれる人だったのか。桑折さんは意外に感じながらも、話を天道君に戻す。

「最初の質問に戻っちゃうけど、天道君はどうしてそんなに笑うの? いつも不必要なくらい笑っているけれど、何か哲学があるのかしら?」

「おっと、今度は僕の番だね。ははは、必要だから笑うのさ」

 三度静けさを取り戻した二人きりの廊下で、ほんの一瞬、暗い影が天道君の瞳の中を過ぎったが、桑折さんはそれに気付く事が出来なかった。

 そしてゆっくりと話し出す。天道君自身の話を。まるで日常会話のような口振りで、にこやかに。

「え~と、今僕は養父母の家にいるんだけど、ちょっと前まで孤児院にいたんだ。生みの親に捨てられちゃってね。

 その孤児院の院長先生っていうのが変な人でね~。思い出すたび笑っちゃう! あは!

 その頃僕は泣いてばかりでね。……想像もつかない? そうだったんだよ。あはは!

 でね。院長先生がある日泣いてばっかりの僕にぶち切れてこう言ったのさ。

『あんたは今不幸のどん底よ! 辛いのも、泣くのも分かるけど、泣いたって何も変わりやしない! 辛いなら笑いなさい! 泣きたいなら笑いなさい! 笑って笑って、周りの人を笑わせなさい! そうやって周囲を幸せにすれば、きっと皆はあんたを幸せにするわ!』って。

 すとんと胸に落ちてきたんだ。すんごい無茶苦茶で単純な理論。でもすごく納得できて。実践しなきゃって思って、実践して。で、結果僕は今幸せなんだ。これが僕の哲学。

 ……僕は思うんだけど、心の中のエネルギーって尽きる事が無くて、なんだろ、笑いのエネルギーを周りにぶつけると、もっと大きなエネルギーになって帰ってくるんだ! それを受け取ると、心が温かくなって気持ちいいよ~? そうして更に笑って、帰ってきて……永久機関の完成! あはははは!」

 思いがけない話。こんな笑ってばかりの人だから、きっと何も考えていない、しょうもない話だと思っていたのに。

「そんな感じだよ! あっはっは! あ、勿論これは僕の哲学だから、聞き流しちゃって~!」

 廊下に響き渡る、バカでかい笑い声。天道君は、自分の辛い生い立ちを話したばかりだというのに、その前までと何も変わらない態度だ。

 天道君は、すごい人だ。桑折さんはこの人を見くびっていた事を恥じた。この人にいい加減な事をしてはいけない。そう強く思った。

「ごめんなさい」

「ん? 気にしなくて良いよ~」

「いえ、違うの。私、ちゃんと私の話を全部してない」

「?」

「本当は私、上手に笑えないだけなの」

 誰にも言った事のない自分の心の奥底を、訥々と話し始める桑折さん。

「子どもの頃から両親にずっと愛想良くしろ、笑っていなさいって言われてきたけど、心の底から笑えなくて、上手に出来なくて。その度叱られて。

 ……私、どうしたらいいか分からなくて、せめて怒られないようにと思って、一生懸命何でもマジメに頑張ってきたの。勉強も、習い事も、生活習慣も。

 文句はすぐに言われなくなったわ。けど、時々両親の寂しそうな顔を見る度、ちゃんと笑わなきゃって思うんだけど、どうしたらいいのか分からないの。

 だから、さっきみたいな理屈を付けて、自分は笑えないんじゃない、笑わないんだって一生懸命言い聞かせて。本当は哲学でも何でもないの。ただの言い訳。

 学校の皆も、とてもいい人達。良くしてくれるし、一生懸命笑わせようとしてくれる。でも、私はそれに応えられない。両親と同じように悲しませちゃう。応えなきゃいけないのに。上手く笑えないの。

 私、どうしたらいいか、分からない……」

 桑折さんの絞り出すような心中の告白を、天道君は黙って聞いていた。廊下は何一つ音を跳ね返さず、異様なまでに静かだった。

 桑折さんにはかなり長い時間が流れた気がした。あぁ、こんなどうしようもない話、すべきではなかったのではないか。後悔が心を擡(もた)げ始めていた。

 真剣な表情で何かを考えていた天道君は、パッと花が咲いたような笑顔になって、あっけらかんと言葉を発した。

「じゃあ、今は笑わなくてもいいんじゃない?」

 目が丸くなる。それは桑折さんにとって、意外過ぎる回答だった。

 誰も彼もが、桑折さんに笑う事を押しつけていた。それは皆の善意からくるもので、拒むにも気を遣って出来なかったのだ。そして応えられない自分がイヤで仕方なかった。

「今は笑うべき時じゃないんだよ。さっき言ってたじゃない。きっとその内、最高に笑える時が来るんだから、それまでたっぷりエネルギーを溜めておきなよ?」

 私の『哲学』をそのまま飲み込んでくれる。笑わなくてもいいと言ってくれる。どんな考えがあっての事かなど分からないが、とても救われる言葉だ。

「そうだ、僕が笑って、桑折さんのエネルギーを外から足すってのはどうだろう? 溜まるの? いや、溜まらなくても勝手に笑っちゃうから、いっか! あっはっは!」

 天道君のいい加減な態度。バカでかい笑い声。でも、なんて温かいのだろう。桑折さんの心の中はじんわりと温められて、

「ぷっ!」

 思わず吹き出してしまった。そして驚いた。

――笑った。私が?笑う事なんて無かったのに。

 桑折さんが自分で驚いていると、天道君は顔を真っ青にして慌てている!

「えっ!? 大丈夫!? エネルギー、漏れてない!? もったいないよ!」

 見当違いの心配を真剣にしてくれる。それがまた、もうおかしくって。

「ぷっ! あははははっ! 天道君、面白いよ~! あははははっ!」

 かつて無い程、腹の底から、大声を上げて笑う一笑。その様子を見て、天道君もほっとした顔で一緒に笑う。

 小さな音でもとても響く廊下だったから、笑い声は特に大きく聞こえたような気がしたが、それはきっと気のせいではない。

 一笑達はしばらく笑っていた。慣れない大笑いで、もうお腹もほっぺたも痛い。涙が止まらない。でも、何て心地良いんだろう。

 ひとしきり笑った後に、天道君は

「でも、本当にエネルギーがもったいなかったんじゃないの?」

と言うので、桑折さんは微笑みながら、

「大丈夫だよ。漏れだした以上に、天道君が外から足してくれるから」

と言ってあげた。



 翌日の学校は、パニックであった。

「おはよ~、桑折さん!」

「おはよう」

 クラスメートがいつも通り桑折さんに挨拶をすると、桑折さんはニコッと微笑みながら挨拶をしてくれた。

 微笑んでる……笑ってる?桑折さんが!?

 状況を把握できず、ざわめく生徒達と、いつも通りの生活をする桑折さん。

 遅れて教室に入ってきた天道君が、桑折さんを見つけて挨拶をする。

「おはよ~! 桑折さん!」

 バカでかい声に振り返り、小さく笑いながら

「おはよう、天道君」

と返す桑折さん。何て事のない、『普通』の朝の挨拶だ。

 あぁ、これが『普通』じゃないか。なんだって僕たちは大騒ぎしていたんだ?

 皆はざわついていた自分たちが可笑しくなって、一斉に笑い出した。

 それからは、当然ながら水曜日の大会も開かれる事もなく、静かな毎日が過ぎていった。いや、相変わらず天道君は騒がしいが。

 笑いかければ笑い返してくれる。そんな当たり前の事を、桑折さんは今、とても楽しみ、喜んでいる。笑いかけられれば、心が温まって、自然と笑いが出る。時折ぎこちないけど、それも段々馴染んでいくだろう。

『特別になる日』が無くなって、桑折さんは『普通の女の子』になったのだ。



 とても有名な話だが、桑折一笑さんは静かな笑い方をする、マジメでいい人だ。高い身長に長い髪。少し色白な肌をしていて、男女ともに人気が高い、普通の女の子だ。

 そしてこれは誰も知らない事だが、桑折一笑さんは、授業中にふと隣の席の天道君と目が合うと、誰にも見せない、とても穏やかな笑顔を天道君に送るのだ。

 とても有名な話だが、天道昇太君は良く笑う。そりゃあもう、大声上げて。笑わない日を見ない程だ。そして、とてもいい人だ。

 そしてこれは誰も知らない事だが、天道昇太君は、授業中にこっそりと向けられる桑折一笑さんの笑顔に心が温められ、そして桑折さん以外の誰にも見せない優しい笑顔で微笑み返すのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘密の笑顔、笑顔の秘密 黒井羊太 @kurohitsuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ