朝の公園
伊藤一六四(いとうひろし)
朝の公園
私は半信半疑でベンチに座っていた。
「へくちんっ」
四月半ばだというのに、朝六時の公園はまだ肌寒い。だいたいまだ日の出じゃないもの。我ながら酔狂な人間だと思う。
ベンチは、この公園に一本だけ立っている桜の木の下にある。見上げると、昨日までの雨で花はほとんど散ってしまっているようだ。
モスグリーンのコートを着るのも、この冬は今日が最後だろう。ポケットから薄いピンクの封筒を取り出すと、まだほんのりとインクの匂いが残っているように思えた。
この手紙をもらったのは昨日。差出人はおばあちゃん。消印は一月前になっている。
離れて暮らしているとはいえ、家族どうしで手紙をもらうなんて経験があまりない私は、その行為自体の堅苦しさに少し戸惑ったものだ。これがメールとかならまた違うんだろうけど、おばあちゃん、ビデオの予約も自分でできない人だからなぁ。
『和音(かずね)へ』
人気のないのを幸いに、朗読してやることにした。
『もうペンひとつ持てないくらい弱ってしまったので、私が口頭で喋ったのを看護婦さんに代筆してもらっています』
その看護婦さんってのは、准看護婦になって間も無い人だったらしく、四つも年下の私の前でわんわん泣いて、主治医の先生に宥められてたっけ。代筆を頼まれたのは仲間の中で一番字がきれいだったからみたい。
『あなたの高校中退、正直私も反対でした。自分の将来を自分なりに考えて悩んでいたことは、繰り返し病室で話してくれたので良く知っていますが……和音、あなたのお母さんがあれだけ反発したのは、あなたのことを真剣に考えているからこそなのよ? 自分のことは自分で決められる年齢だと思ったから最後は何も言わなかったけど、お母さんの真意だけは分かってあげてください』
こんな時間にこんな所に一人でいるのは、昨日の夜、目を腫らしながらも、そう悪戯っぽく話し始めた母さんに変なことを吹き込まれたからだ。
「私が秋田に住んでた頃ね、不思議な経験があったの」
「何それ」
「朝早く公園に行くとね、たまーに……たまーになんだけど、昨日自分の前から居なくなった人に、ほんの少しだけ会えるんだよ」
納骨、略式の初七日法要まで慌ただしく終えて、ほうほうの体で家に帰って来るなり、一番気苦労をしたであろうはずなのに、その素振りすら見せず、母さんはにんまり笑ったものだ。
「うっそだぁ」
精進落しの残りの巻寿司を頬張りながら私は口を尖らせたが、それも織り込み済みだったらしい。
「ひいおじいちゃんが亡くなった時に同じこと言われて、お母さんも最初疑ったんだけどね、あんたのおばあちゃんに焚き付けられて、家の近くの小さな公園に早起きして行ってみたのよ。そしたら、太陽が顔を出して、全部昇り切る、ほんとにその間ぐらいにね……居たのよ」
「幽霊が?」
「ばか、ひいおじいちゃんだよ」
母さんの口調には独特の説得力がある。時々騙されたりもするんだけど。
「どんな会話したの?」
湯呑みに入った熱いお茶をすすって、母さんはその時の記憶を辿っている。
「ほんとに会えるなんて思わなかったからびっくりして、いっぱいいっぱいになっちゃったな。気が動転してて、どんな恰好してたのかも良く覚えてないし。今思うと勿体無いことしたよ」
ふーん、と私もお茶を口につけながら、まだ少し首をかしげている。まるでおとぎ話みたいだ。
「おばあちゃんに、何か言い残してることがあるんでしょ?」
届いたばかりのその手紙を、母さんがびらびらと私にふりかざす。思わず目を瞬かせてしまう。
「なんでそう思うの?」
造作もないといった表情で、私の鼻先を指差す。
「そんな顔してたもん、出棺の時」
少なくとも、私よりは心の整理がついているように思えた。
家を出る時に見た新聞によると、今朝の日の出は六時三十二分頃らしい。腕時計で、あと五分ほどあるのを確認した後、手紙の続きに目を移す。
『あなたは強くてかしこい子だから、きっとお母さんを支えて生きていけると思うけど、あんまり苦労をかけちゃだめよ』
高校を辞めてしまった私に、何を言っているのだろう。下らないプライドや意地にすがって、いつしか母親に何も話さなくなってしまったこんな私に、何を言っているのだろう。
「買いかぶってるよ」
いつしか音読を止めていた。その代わりに思わず声を出してそう返答してしまう。
「私、そんないい娘じゃないよ。期待されても、困るよ」
何に苛立っているのだろう。何を怖がっているのだろう。そんな自分を打ち消すように、か細い声を張り上げていた。
「どうしたらいいの? 私、これからどうしたらいいの? 教えてよ」
その答えを求めるように、また手紙に戻ってみる。
『身体には気をつけてください おばあちゃんより』
あっさり終わってしまった。もっと……何かは分からないけど、もっと別の言葉を待っていたのに、文章はそこで終わっている。筆跡が微妙に震えているようにも見える。
「これだけ?」
見当違いだと自分でも分かっているけど、つい怒ったような口調になってしまう。
「わかんないよ、おばあちゃん。全然わかんないよ」
突然、季節外れのような北風が吹き付け、公園の土の砂を巻き上げる。きゃ、と手紙と髪を押さえて顔をしかめていると、東の空の方がゆっくりと明るくなっていくのに気づく。
風が止むのを待って、ゆっくりとベンチから立ち上がり、日の出の方を見遣る。
マンションや小さな雑居ビルの間から、ゆっくりと朝日が顔を覗かせる。雲一つない良い天気だ。そういえば太陽なんてここのところ眺めたことすらなかった。
私の周りの、砂場も、ブランコも、パンダの形をした乗り物も、ゆっくりと光を含んで輪郭を際立たせていく。私は写真を撮る趣味はないけれど、こういう瞬間を何かの形で切り取ることができたならなぁ、とちょっと思った。
また風が吹き抜けて行く。さっきほどの勢いはないけれど、肌寒さは同じだ。缶コーヒーでも買ってくりゃ良かった。
気がつけば、もう朝日はすっかり昇り切っていた。
慌てて辺りを見回してみるが、人の気配はない。日が登る前と何一つ変わらない、公園の風景だ。
「ぷぷっ」
背後から笑い声がする。まさか、と思い、慌てて振り返る。
「ほんっとに来てやんの」
表情は一瞬でこわばってしまった。母さんが白い歯を見せて、小馬鹿にしたように私を指差していたからだ。
「な……」
顔が火照っていくのが分かる。虚をつかれて言葉も出ない。
娘の行動がおかしくて仕方ないらしい。我が母親ながら、なんというか。
「ほんとに出るワケないじゃん。おとぎ話じゃあるまいし」
また騙されたのがやっと理解でき、私はだんだん腹が立って来る。思わず声を張り上げようとしたその瞬間、母さんが機先を制した。
「まぁ、でも」
何かに納得したように、にっこり微笑む。
「こうしてここに来たってことは、自分なりになんとかしなきゃ、とは思ってくれてるのね」
当たり前じゃないの。母さんには言えなかったけど、すごい悩んでたんだから。出来れば私だって辞めたくなかったんだもん。そう言いたかったのを私の表情だけで察したのか、眼前の母さんは満足げに頷くと、
「ね、お腹へったでしょ? どっかでモーニング食べて帰ろ」
踵を返して、さっさと公園の出口の方に歩いていく。
その背中を見ながら、私は途方にくれて立ち尽くしていた。自分で自分が分からなくなっていた。どうして私はここに来てしまったのだろう。本当におばあちゃんに何か言いたいことがあってここに来たんだろうか。そして、何を言おうとしたんだろう。
「何してんの、行くよー」
母さんにそう呼ばれて我に返り、歩を進ませる。
やっとおばあちゃんに言いたかったことを思い出せたような気がした。ありきたりだけど、他に思いつかなかった。姿は見えないし、聞いているかどうかすら分からないけど、放つ光が眩しくなりつつある朝の太陽に振り返って、こう言い残してみる。
「ありがとう」
朝の公園 伊藤一六四(いとうひろし) @karafune
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